ネリウス将軍




 ダフロイト北に広がる棚田は、その有機的で規則正しく弧を連ね広がる様が美しく、収穫間近にもなると稲に実った黄金色のもみが大地を覆い隠す。それは金の絨毯のようで、幻想的な光景を楽しませてくれた。

 そんな棚田の様子は貴婦人たちが纏うドレスの飾り生地のようにも見えることから<聖霊のローブ・ヴォラント>と呼ばれ多くの旅人や絵描き、吟遊詩人達から愛されてきた光景だ。

 実際のところ収穫に勤しむ農家の人々の姿は、ただそれだけで神々しく、農家の女達の姿は神々の黄金の原に佇む聖霊を彷彿とさせる。

 絵描きに吟遊詩人といった創作の徒にとってこの風景は何にも替え難い、創作の源泉なのだ。









 ——大雪像祭 翌日 ダフロイト北。



 耳障りな怪音が鳴り響き北の空に一筋の光が昇った翌日。

 ダフロイト北に広がる棚田の一角で農園を営むコービー達は来年の収穫に向け、越冬の準備をしていた。来年の秋口もこの棚田は美しい黄金に包まれるのだ。


 それを手伝うコービーの娘、アイネは額にひかる汗を片手で拭いながら北の空を指差した。


「お父さん、あれは……?」


 指したその先に広がる針葉樹の木々の合間から乾いた土煙が立ち昇り、どこか遠くから大地を叩く鈍い音が聞こえてくるのだ。

 それに気がついたコービーは作業の手を止め、北の空を眺めた。

 同じ棚田で精力的に働く農夫の面々も北の空を眺めた。棚田の麓を北に伸びる農道はアークレイリ南の国境都市ビークへ繋がる街道としても機能しているため、他の農道とは比べ物にならないほど幅広い。アイネ達が眺める北の空の下、北に真っ直ぐ延びる街道で立ち昇る土煙と鈍い低い音の正体がいよいよはっきりとわかるくらいに見えてきた。








 コービー・ルエガーは随分前にダフロイトへ移住し農家を始めた。


 それまでの彼の仕事は決して人に言えるような真っ当なものではなかった。

 闇に潜み国境を超えそして人知れず命を刈り取ってきた。


 稲ではなく命をだ。


 それは私欲ではなく、ただただどこまでも無機質で淡々と国の暗部としての任務を遂行した。フリンフロンは建国の瞬間から東西南北を強国に囲まれた新興国だった。フリンフロンの光、ジョージ・シルバがもたらした叡智の影は他国からの侵略を強固に阻む盾となり、暗器となり、フリンフロンに振りかかる火の粉を未然に払い退けた。

 一介の将軍が、興した新興国が攻め落とされない理由の一端はここにあった。当時の執政官だったヘルムートが設立した野伏の集団<月のない街>は今でも卓越した諜報技術に暗殺術、奇妙な魔導を駆使した門外不出の技術でフリンフロンを闇から支えシルバの光を絶えず世界に届けようとした。

 コービーは数年前まではその野伏であったが任務中に出会ってしまった運命の人と寄り添う一生を選択し、暗部からの呪縛を受け入れ、今では一介の農家としての人生を謳歌するのであった。


 それに後悔はなかった。それまで万能だと感じた自身の能力を封じられてもなお、鍛えられた身体はあったし、蓄えられてきた経験は農作物を育てて行くのに十分過ぎるくらいに有用であった。

 だから、妻との生活で困ったのは娘のアイネが産まれると、自分の無機質な部分を感じ取られるのかアイネがなかなか懐いてくれなかったことだ。それにしたって、妻と手を取り合い愛娘を育てて行く中、次第に心が溶け合い、いつしかコービーの無機質な野伏としての一面を優しく否定せずに包みこんでくれたのだ。


 コービーは幸せだった。だから後悔はなかったのだ。


 自分を優しく包み込んでくれた愛する妻は昨年、若くしてコービー達を残し逝ってしまった。出会った頃から病床につくことが多かった妻であったから、そこはかとなく——お互いに口には出さなかったが——わかっていた。だからなのか死に際も妻は「後はお願いねと」まるでちょっとそこまで出かけてくるかのように逝ってしまったのだ。アイネは勿論、その時ばかりは天にまで届くよう泣き叫び、農村の人々も静かに目を閉じコービーの妻の冥福を祈った。


 コービーは不思議と涙は出なかった。


「任せておけ、あとのことは聖霊の原で話そう」と静かに微笑んで逝ってしまった妻の頬に口付けし、彼女を見送ったのだった。





 土煙の正体は、黒い塊、騎馬の一団であった。


「お父さん! お父さん!」

 アイネの気が気でない声に我へ返ったコービーは、力強くアイネの肩を抱き寄せた。


「アイネ。よく聞いてくれ。お父さんは今からあの土煙を止めに行かなければならない。は絶対にダフロイトへ近づけてはいけない奴らだ。でもお父さん一人ではきっと無理だ。いいかアイネ、今から畑の皆んなとできるだけこっそりと出て大門にいるランドルフへこのことを知らせてくれ。そして援軍を呼んでくれ。お前はそのまま街の中を通って南のトルステン兄さんの所に行って匿ってもらうんだ。いいね」


 コービーはそういうと、ゆっくりと抱き寄せた肩を離しながら娘の顔を覗き込み、綺麗な金髪を優しく包み込むように撫でた。

 アイネは突然のことに目をパチクリさせながら必死に言われたことを理解しようとしたが、どう考えてもこの父は自分一人でここに残る気でいるとしか思えなく「お、お父さんは?」と訊き返した。しかし、コービーは黙って北に見えてきた黒い塊、騎馬の群れから目を離さず、今度は力強くアイネを押し、早く走り出すように促した。


「大丈夫だ、お父さんも後から追いかける。畑のみんなに声をかけて早く行くんだ。慌てるな。慌てると勘付かれる。軍馬に捉えられたら馬車では到底逃げ切れない。いいね。落ち着いて早く行動をするんだ」


 騎影の主人達は思い思いの装備だったが、全員が真っ黒の装備に身を包んでいた。それは異様な雰囲気に包まれていた。ただの一言の命令も飛ばず、喋ることもなくただただ黙々と全員が真っ黒な軍馬に騎乗し速歩ゆっくりと行軍する。そして全員が真っ赤に染め上げられた布を右腕に巻きつけ、目を爛々と赤く光らせたのだ。真っ赤に染められた布。それはリードラン解放戦線のものだ。


 コービーは街道の数段上の棚田の影に潜みその様子を伺った。

 過去に出会った解放戦線を名乗る過激派はもう少し人間の匂いがしていたと思った。フリンフロンをアークレイリに取り戻せという狂信的な思想ではあったが、それでも武人としての道からは外れず決して、無機質で不気味な集団ではなかった。

 そして何よりも、双眸に薄ら気味悪く揺らめく赤い灯火は人外のそれだと思わせたのだから、尚更だ。


 コービーが注意深く様子を伺ったその時だった。

 棚田の合間から、赤子の泣き声が田園風景に響き渡った。あまりの緊迫した空気に赤子は息苦しさを覚え母親の背中で思わず、空気を切り裂くように泣き出してしまったのだ。東西に見える棚田のあちこちに赤子の泣き声が木霊した。


 最初は蹄鉄が街道を踏みしめる鈍く低い音だけがその谷間を支配していた。しかし先頭をゆく白銀長髪の戦士が片手をあげ行軍を制止すると、そこには風の音も鳥の囀りも犬猫の息遣いも馬のいななきもなく、ただただ赤子の必死な泣き声だけが響き渡った。

 その一瞬は薄く引き伸ばされた。

 赤子の母親は瞬時に小さな口を塞いだのだが、それでも薄く引き伸ばされた刻は永遠となり、泣き声はその場から消えることはなかった。

 それに右手をあげた白銀髪の戦士は、傍らから短弓を取り出し矢をつがえギリギリと引き絞り泣き声がした方へ矢を放ったのだ。


 泣き声が響き渡った瞬間、コービーは奥歯を強く食いしばった。


 口の中にじんわりと苦さを持った酸味が広がると、突然頭の中で何かが破裂をしたような錯覚を覚えた。いや、もしかしたら本当にその音が響いたのかも知れない。そう思えるほどハッキリと破裂音を耳に感じた。


 フリンフロンの野伏がその役を降りる際は一つの制約を課せられる。それは門外不出の野伏の力を永遠に封じられることだった。口伝することも大衆に晒すことも許されない秘匿された知識と力は、そうやってフリンフロンで限られた人々の中で伝承され、練り込まれ、その脅威を増してきたのだ。


 しかし、退役後一度だけ、その力を行使することを許されていた。


 それはその業ゆえ退役後に報復をうけることがままあるからだ。だから彼らが役を降りる際は、自身に危機が及ばないよう精算をして回るのだが、それでもその指の合間をすり抜けて漏れてしまった何かを一度だけ、秘匿された力で精算することが許された。強力な魔導を基礎とした呪縛で力を封じられることとなる野伏の力。それはフォーセットの南西、ジ・アダフの霊峰で生成される<ルトの液>を原材料とした霊薬を摂取することで、一日だけその呪縛を逃れ行使することが可能になる。


 退役の際にこの霊薬は右奥歯のかわりに歯茎へ射し込まれる。

 そして、必要としたその時に奥歯を強く食いしばることで、右奥歯の代わりに射し込まれた容器を砕き––––自身の右奥歯を粉砕して再構成された特殊な歯の形をした容器だ––––その恩恵に預かることとなる。コービーは頭に響いた破裂音を感じるや否や、口早に何かを呟きながら身を隠していた棚田から踊りでた。


 一つ目の呟きで両掌に空間の歪みが生じそして黒鋼の短刀が二本逆手に握られた。二つ目の呟きで躍り出た身体は脅威的な跳躍を見せ軍隊の先頭に着地する。三つ目の呟きは白銀の戦士が矢を放った瞬間、その両掌首を切り落としていた。

 放たれた矢は大きくその軌道を変え、落とされた両手は乾いた音と共に街道へ転がった。

 

 隊列の方々から、何か地の底から響くような呻き声が聞こえると、隊列はコービーを囲むように動き始め、その環の外では何かの詠唱が始まった。

 今のコービーは意識を集中すれば数十メートル先で針が落ちた音さえも聞き分けることができる卓越した聴力を持つ。しかし、黒の隊列から聞こえる声にならない声は一体何を言ってるのか判別ができない。ギギギともガガガとも聞こえるどうにも乾いた音にしか思えないのだが、黒の隊列はそれを理解し動いているようなのだ。

 形作られようとしている環の外から聞こえてくる声もそうだったのだが、それは言葉の持つ旋律から魔導なのか魔術なのかの詠唱だということだけはわかった。


 いずれにせよコービーは幾百の黒い戦士に魔導師、魔術師に囲まれようとしていた。身の危険なのには変わりはない。それでもコービーは臆することなく両手に黒鋼の短剣を握りしめ、身を前屈みに構え黒の隊列から目を離すことはしなかった。今やコービーの瞳は蒼く輝き、五感が研ぎ澄まされ全ての感覚が数百倍の速さで流れ込んでくる。それはもしかしたら数刻後の未来のことでさえも流れ込んできているように、全ての動きの少し先を読むことができる。時折、霊薬の副作用なのか目の前が灰色に霞む瞬間があったが問題はなかった。


 魔力の矢が数秒後に飛んでくることも、四方八方から両手半剣の白刃が流れてくることもわかった。そして、跳躍し白刃を避けるのと同時に旋回し八つの首を切り落とし、そのまま魔法の矢を叩き落とすと姿を消して、次の瞬間にはその矢を放ってきた魔術師達の脚を切り裂いた。





 遠くに浅黒く日焼けをした父の姿が見える。

 その父は両手に黒く光る短剣を握りしめ、周囲を囲む戦士達の首を次々と切り落とし、街道にドス黒い血溜まりを作り上げてゆく。周囲の稲は返り血で赤く染まり、ドロドロと固まり始めた血を滴らせた。

 そこには一切の怒号はなく、ただひたすらに金属がぶつかり合う甲高い音と、何かが爆発する音、そして血と魔力の硝煙の臭いだけが広がった。


 アイネの父はその中心で踊り狂う鬼神のようだ。

 普段はおっちょこちょいで不器用な父のことを母は本当は凄い人で「お父さん一人いれば百人の戦士を薙ぎ倒せるくらい」に強いのだと云ったのを思い出した。そしてその話は本当だったのだと両手を口に当て見守った。


 

「アイネ、行こう。今のうちだ。大門に行こう——俺らじゃ、どうにもならん。ここはコービーに任せて行こう」

 

 背後からチュニックを引っ張られているのに気がついた。農園を手伝うケイネスが身を隠しながらアイネを迎えにきたのだ。

 いくらチュニックを引っ張って促しても一向にその場から動こうとしないアイネ。それをケイネスが半ば強引に引っ張ろうとしたその時だった。

 まるで雷が大地に落ちたかのようなバリバリバリバリという轟音が響き渡ると黒の隊列が真ん中から割れ初め、中心に騎乗した戦士よりも背の高い赤短髪の大男が姿を現したのだ。







 どれほどの戦士の首と、どれほどの魔導師と魔術師の首を斬り落としたのだろう。落雷の轟音と共に場の空気が止まった瞬間、コービーは冷静に周囲を見回し、ざっと百はやったか? と目算した。

 ギギギガガガという乾いた音は相変わらず周囲から聞こえ、それは段々とコービーの感覚を麻痺させた。その麻痺する感覚は先ほどまで忘れていた疲労感を改めて引き戻す。魔導の継続詠唱、それも複数の術を継続するのには相当な集中力と強靭な精神力が必要とされる。戦闘中でも血の巡りを自在に操り、魔力を武具に流し込む。まさに神業だ。そんな業を神ならざる人がそうそう続けられるものではない。口の中に溜まった血を忽然と姿を現した大男から目を離さずに吐き捨てたコービーは、そろそろ潮時かと小さく呟いた。

 

「さて、あんたがこの軍の将軍様かい? ってどうだ、人の言葉がわかるか?」


 コービーは大男にそう訊ねた。

 大男は全身を皮の軽鎧で身を包んでいたが、その下にはチュニックは着ていなかったので、筋骨隆々とした両腕、両脚が露になった。右手に握られた随分と乱暴に削り出された鉄の塊のような両手剣をゆっくりと揺らしコービーに向かって歩いてくる。

 爛々と輝かせた赤い瞳は深く落ち窪んだ双眸の中で不気味に揺らぎ、遂にコービーと対峙した時には、野伏は、その瞳に固唾を飲むほど異質な感覚––––きっと恐怖と呼ばれるそれだろう––––を感じ取った。

 野伏は感情をコントロールする術を叩き込まれる。だから恐怖や悲壮といった心を揺さぶる感情とは縁遠くどんな時でも冷静でいられるのだが、この時ばかりはそういった術は全くと言って良いほど機能しなかった。


 それだけ異質だったのだ。


「さて人の子よ。お前はどちらだ」

 大男が口を開くと、くぐもっていたが、しっかりとした言葉を発した。


「どちらとは?」

 自分の問いかけへ全く答える素振りも見せない大男に苦笑したコービーは訊き返すと、全身に噴き出る汗を感じた。そしてジリジリと間合いを取った。

 その時だ。ふと右の視界の端に動く影を感じ目をやると棚田に身を潜めたケイネスとアイネの姿がそこにあったのだ。疲労で先を読む力も段々と衰えてきていたから今は大男から意識を逸らすのは危険だった。しかし、このままではアイネ達を巻き込んでしまう。

 

 コービーの頭の中は焼き切れんばかりに思考し、こめかみのあたりがドクドクと脈打ってきた。そして視界が灰色に霞む頻度が随分と多くなってきたのがわかった。このままだと全ての可能性が無に帰してしまう。打開策は無いのかとコービーの頭の中は更に回転を始め一つの回答を導き出そうとした。





「アイネ、もうだめだ行こう、このままだとコービーが動けない」


 コービーがこちらに気が付いたのを悟ったケイネスはアイネの腕を強く掴んで引っ張った。大男の出現から様子がおかしくなった父の姿を見たアイネは腰を抜かしてしまい、その場にヘタリ込んでしまっていた。

 ケイネスの言葉へ「ごめんなさい」とケイネスと共に棚田の奥に広がる木々の向こうへ走った。もう他の農家の人々は、街道から離れた細い農道を少々遠回りし先に大門へ馬車を走らせていた。アイネとケイネス、そして彼らを待っていたケイネスの妻エメとその子供が最後となった。そして、待機した馬車に乗り込んだアイネとエメは、赤子を挟んで互いに抱き合い馬車の隅に体を寄せた。


「エメさん、ごめんなさい、お父さんが……お父さんが……」

 

 アイネは顔をくしゃくしゃに泣きじゃくった。

 エメは震えていた。自分達を襲った凶事に恐怖したのか、それとも別の理由か。そしてともかく、エメは涙を浮かべ謝罪の言葉を口にする少女の顔を恐る恐る覗き込んだ。


「いいえ、謝るのは私の方よ……この子が泣き叫ぶのを止められなかったからコービーが……」

 

 アイネは視界の端が真っ白になり段々と狭くなっていくのを感じた。

 裏の農道は表に比べて随分と轍が深く、馬車を支える木の車輪はいちいちそこから振動を伝えてくるものだから幌の中には、ガタゴトという音しか聞こえなかった。だから、もう一度アイネはエメに訊き返したのだが、聞き違いではなかった。


 この子が泣き叫んだからと。


 だからコービーは死地に赴き今でも人では抗えない死と対峙しているのだ。若くして逝ってしまった母さんだったら、こんな時なんて答えたのだろう。不器用で掴みどころがなかった父さんを優しく包み込んだ母さんなら、父さんにどんな声をかけたのだろう。母さんはいつも父さんに、人の気持ちをしっかり考えてあげていればなんでも上手くいくわ。と云っていた。その言葉に父さんは救われていた。

 

 死地に自分から身を投げ打った父は、自分の気持ちを考えてくれたのだろうか。

 エメが謝る理由は本当に私のことを想ってのことなのか。

 

 様々な考えがアイネの心を掻き乱した。真っ白になりつつある視界にぼんやりと亡き母の顔を想い浮かべ、しょんぼりとした父を励ます母の姿を見た。正直なところ、どんな考えも一向にまとまることはなく、もうこれ以上は無理だとばかりに吐き気を感じたのだ。


 そんな時だ——右手に小さな暖かい温もりを感じたのだ。

 エメに抱かれた赤子がアイネの顔を純粋な曇りのない瞳で見上げながら笑った。そしてアイネの右手に小さな手を乗せ握ったり開いたりと労わるように、あー、あーと声をかけた。


 そして、アイネは一つの答えを得た。


「きっと父さんは大丈夫。エイベルも大きくなったらケイネスさんと父さんと、みんなと一緒に農園を大きくするのを手伝ってくれるんだもんね」


 そう云ってアイネは赤子––––エイベルの小さな暖かい手を取り、ようやく生え揃った綿のようにふわふわした髪を手ですくうと頭を撫でたやった。エメはまん丸く見開いた目から溢れ出てくる涙も気にせず嗚咽を漏らした。


 そして、アイネとエイベルを優しく強く、ゆっくりと抱きしめたのだ。


 二人の嗚咽を聞いているエイベルは変わらず、あーあーと言葉にならない言葉で二人に喋りかけ、二人の頬に手を伸ばしていた。

 幌の外の御者台からケイネスが鼻をぐずらせながら、中の二人に、大門に到着するぞと声をかけた。





 棚田にはもう二人の姿は見えない。

 ケイネスが上手くアイネを説得してくれたのだろう。これでようやく何も考えずに、目の前の大男と対峙できるというものだ。

 きっとあの泣き声の主はケイネスのところのエイベルのはずだった。

 そうでなかったとしても自分はこうしていただろう。生まれたばかりの、これから先の可能性しかない芽をこんなつまらないことで摘ませる訳にはいかない。


 アイネはこのことで、また自分のことを考えてくれなかったと怒り出すだろう。

 すると自分はしょぼくれて納屋で寂しく鎌の刃を研いでいるに違いない。妻だったらそんな自分の姿を見たら、アイネのことは任せて、だから気を落とさないでと声をかけてくれるだろうな。

 コービーは、ぼんやりとそんなことを想い浮かべていた。

 すると、この緊迫した空気の中、ふと笑みが溢れたのだった。


「何がおかしい、人の子よ」


 コービーが対峙した死そのもの。

 大男は無骨な両手剣を街道に突き立て、両手を柄に添えて仁王立ちをする。

 随分と尊大なものだとコービーは思ったが、男のくぐもった声からはどうしても畏れよりも、薄ら気味の悪い恐怖しか感じなかった。しかし、ようやく場が整ったのだとコービーは気を取り直し、両手の黒鋼の短剣を握りしめ直した。


「悪い、悪い。さてどうする大将? ここから先にお前達を通す訳にはいかんのだが、ひいてはくれまいか?」


 所属する個人が意思を持った軍隊なのであれば、こんな状況であれば命令が飛び交い小隊は街に向かうはずだが、その気配はない。先ほどからの違和感はここにあった。どうもこの黒の隊はこの動いているようだ。そう、この黒の隊そのものがこの大男なのではないかと。だからコービーはそれに賭け大男の意識を自分に向けることだけを考えた。


「ふむ、先には進めさせないとな、何故だ」

「いいか将軍、ここから先は永世中立都市のダフロイトだ。あんたらアークレイリ人ならよく知っているだろ? だからここから先に軍隊は入れない。解放戦線だったら、そんなこと承知しているだろ? 違うのか?」


 コービーは尊大に演じる大男にわざわざ矢継ぎ早に言葉を浴びせ、それを考えさせるように喋りかけるのだが、どうもダフロイトのことなど知ってもいないようだった。


「ふむ、ここを通る通らないは儂が決めよう。して、人間。先にも問うたが、お前は人の子か? それとも神ならざる人の神か? どちらだ」

「あー。すまん、なんと?」


 目の前の大男は、意味はどうであれ神と口にしたのだ。

 コービーは構えを改めジリジリと大男との間合いを取り始めた。

 神の名を引き合いに金を取って回る生臭坊主はフォーセットにごろごろと居る。クルロスでの屍喰らいの大量発生はメルクルスの坊主どもの仕業だそうだ。いずれにせよコービーは大男の問いに裏を求めたが、どうにも紐づく事柄もなく問いかけの真意は皆目見当がつかなかった。


 しかし、神の名を口にし、双眸に気味の悪い赤い光を灯す人外の様相。

 少なくとも人ではないとコービーは判断をした。


「そうか、儂の問いがわからぬか。ならば良い。他の農民どものように逃げるのならばよし。道を開けぬというのならば心ゆくまで死合おうぞ人間」



 この大男は全てを悟っていた。

 そして、その言葉が合図となった。

 大男の両腕上腕が素早く隆起し、握られた無骨な両手剣がコービーの頭上を目掛け振り下ろされた。コービーは紙一重にその斬撃を右へかわし、そのまま大男の背後に回るようステップを踏んだ。しかし、大男は斬撃が街道を打ち据えるのと同時に右脚を軸に旋回、コービーの素早いステップに並行移動をした。

 背後を狙った野伏の黒い刃の軌跡は迫ってきた鉄塊に弾かれたが、そのまま勢いを殺さずにコービーは右へステップを切った。

 これには体がよじれ着いて来られないはずだ。そう踏んだコービーはぐっと一歩を踏み込み、そのまま大男の懐に飛び込んだ。

 しかし、大男はそれを読んでいたのか、それとも第六感なのか、更に右に旋回はせずに両脚の筋肉を隆起させながらその場で宙返りをして見せた。

 大男の右脚は見事にコービーの腹部を捉え、そして、決して小さくはないコービーの体が宙に舞ったのだ。集中した力の行使の中で喰らったみぞおちへの強烈な一撃は不意をつき、宙を舞ったコービーは堪らず嘔吐してしまう。


 辛うじて街道に打ち付けられず着地をしたコービーだったが、片膝をつき息を整えるのがやっとだった。次の連撃には移れなかった。


 コービーの読みは正しかった。

 この剣戟の最中、大男以外の隊の戦士達は、いくらでもコービーを撃つことができたはずなのだが、静観を守っている。いや、大男がコービーに集中しているから動かないのだと悟った。それならばと、コービーは周囲を取り囲む隊列の中に飛び込み大男との距離を大きくとった。そして騎馬と騎馬の間を動き回りながら呟き、そして魔導で体力を回復しようと時間を稼いで回った。


 大男はコービーのその行動に気がついたのか「つまらん! つまらんぞ!」と叫び狂い鉄塊を右に左にと振り抜く。その度に幾人もの騎乗の戦士の身体が真っ二つとなり薙ぎ倒され、撃ち降ろせば頭をかち割り、その場へ醜い肉塊を量産した。気がつけば、美しかった棚田は血に染まり、街道には血反吐の湖が生まれ、西に落ち始めた太陽はいよいよ真っ赤に周囲を染め上げた。


 斬撃と斬撃が撃ち合う音だけが響いた。


 どのくらいの時間だろうか。

 気がつけばあんなに居た黒の戦士達はもう数十人しか見当たらない。野伏の一計で壁となった黒の戦士達は何も言わずに恐れることも悲しむことも怒ることもなく、大男の凶刃に斬り伏せられ叩き潰されたのだ。その合間を縫って野伏は大男の首を何度も捉えようとしたが、すんでのところでかわされ致命傷を与えられない。どれだけ傷を負わせようとも大男は怯まない。


 そしてその瞬間は突然やってきた。

 西に落ち始めた陽の光が、大男の鉄の塊に反射をしてコービーの目を捉えたのだ。疲労困憊の野伏はその瞬間、大男から目を離してしまったのだ。大男はぐっと大きく左脚を踏み出しながら右に体をよじった。そしてよじった反動をそのままに野伏の頚椎を目掛け両手剣を水平に振り抜こうとした。


 コービーは最期を覚悟した。


 視線を戻した時にはもう目の前には大男の影はなく自分の右に接近をしていた。これでは筋骨隆々とした大男の体へ致命傷を与えられない。せいぜい弱々しく短剣を突き立てて終わるだけだ。


 野伏はまた走馬燈のように妻とアイネとの日々を思い出す。

 そして酒場で意気投合をしたケイネスが家族で農園に押しかけてきた日のことも思い出した。そうだ、後はケイネスがなんとかしてくれるだろう。こんな怪物はどうにもできないだろうが、なんとか逃げ延びてはくれるだろう。そんな気持ちが心をよぎり、ふと力が抜けそうになった。


 しかし、その瞬間だった。


「お父さん! またお父さんは自分のことばかり言って! お母さんや私の気持ちなんか考えてくれないんだから!」


 両手を腰に当て怒りを露にしたアイネの姿が頭をよぎった。

 あれは確か農村が山賊の襲撃を受けようとした時だ。村の人々は街に逃げようと云ったがコービーは、それでは駄目だと単身山賊の野営地を襲撃したのだ。泣きじゃくるアイネを強く抱きしめ、どんな罵声も自分を心配してのものだと、こんなにも悲しませてしまうのだと深く反省をしたのを思い出した。


 コービーは目をカッと見開き紙一重で前に転がり大男の凶刃をかわした。

 左手の短剣を捨て、そのまま掌を大地に打ち付け一言呟いた。その瞬間、大男の左脚の辺りの土が隆起し大男は堪らず体勢を崩し右膝を街道につけた。


 野伏はこの瞬間を逃さなかった。

 打ち付けた左手を支えにそのまま全ての力を両脚にかけ懐に飛び込んだ。そしてとうとう、大男の首を黒鋼の短剣が捉えたのだ。深く筋という筋を切り裂く感触を野伏は感じた。生々しい感触。鍛えられた頭半棘とうはんきょくを切り裂く感覚。これは致命傷だ。そのはずだった。


「見事なり」


 大男は首の半ばまで刃が食い込んでいるのにも関わらず、笑みを浮かべ、そしてコービーの右腕をがっしりと締め上げるように掴み身体を引き寄せた。


「人の子なのか否かは喰らってみればわかるというもの。言葉は無粋であったな戦士。謝罪しよう」


 コービーが耳にした最後の言葉はそれだった。

 太陽は西の地平線へ半分ほどその身を隠し、空には藍色の天幕が降り始めた。そろそろ帷も降りる頃合いだ。夕日は血溜まりを更に赤々と照らし、累々と転がる幾百の戦士達の躯の輪郭を浮き彫りにした。





 赤短髪の大男は一人佇んでいた。

 口角から赤いものを滴らせ、双眸の赤い炎はゆらゆらと夕日に照らされ揺らめいた。そして周囲を見渡し、「ふむ」と一言漏らすと大きく息を吸い込みそして、吠えた。

 その咆哮は、棚田の向こうに広がる森の針葉樹をも震わせ、あまりの威圧感に野生の動物達は慌てて巣穴に飛び込んだ。血の香りに誘われてやってきた灰色狼達は牙を剥きながら遠目に大男を警戒するのであった。

 するとどうだろう、街道に広がった血の海がざわざわと揺らぎ始め、まるで命を得たかのように大男に向かって流れ始めたのだ。累々と転がる骸は蒼白い炎をあげ燃え始め、そして煙となって跡形もなく消え去ってしまった。

 大男の脚を這い上るドス黒いものは、口角から取り込まれ、ものの数分もしないうちに綺麗さっぱりと大男の中に取り込まれてしまったのだった。


「人間よ。お前も拒むのだな。この身体の持ち主ネリウスもそうだった。同胞のよしみで次の世をと思ったが、それならばそれで良い。また会おう。良い死合いであった」


 大男は脚元に転がる首のない骸へ語りかけると、右足を勢いよく一度踏み鳴らした。すると蒼白い炎とともに、数百騎の黒い軍勢が忽然と夕暮れの街道に姿を現したのだ。



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