第38話

最後の一人を見送ったヴィクトリアはホッと息を吐き出した。



「ココさん、今日は付き合ってくださってありがとうございます」


「もう我慢なりませんッ!治療に行きますよ!」


「分かっておりますわ!そう引っ張らずとも……っ」



そんな返事をした時だった。

目の前に落ちる黒い影にヴィクトリアは顔を上げた。

そこには真顔のイーシュ辺境伯が立っている。



「イーシュ辺境伯、お疲れ様でした。シュルベルツ国王陛下の元へ向かいますか?」



ココが後ろでそう言った瞬間、なぜか体がフワリと浮いた。



「…………失礼する」


「きゃっ……!?」


「……!!!」



イーシュ辺境伯に抱き締められていると気づいた瞬間、時が止まった。


ハーブの爽やかな香りに混じる汗の香ばしい匂い。

思いきり深呼吸したいのを我慢していると、無言の圧を感じて動きを止める。

険しい顔をしている彼に、何かしてしまっただろうか、迷惑を掛けたことを怒っているだろうかと考えていると……。



「今から医務室に行く。ワイルダーに報告が遅れると伝えてくれ」


「まぁ……かしこまりました」


「あの……っ、わたくし」


「……………」



そのまま歩き出したイーシュ辺境伯にお姫様抱っこされている現実に心がついていかない。


分厚い胸板、想像以上に太くて硬い腕がヴィクトリアの体に触れている。

そして間近にあるイーシュ辺境伯の顔と、ずっと欲しいと思っていた汗を拭っていた手拭いが目の前にある事に気付いて心臓がドクリと跳ねた。


(え……………?ご褒美ですか????)


ヴィクトリアは急に与えられた最大級の喜びに混乱していた。

そしてすぐに己を律してからすぐさま気持ちを切り替える。


(このチャンスッ!!絶対に逃しませんわ!!!)


ヴィクトリアは正気を取り戻すと、イーシュ辺境伯の逞しい首に手を回して、胸元にピタリと顔が潰れる程に頬を寄せた。


(ーーーーはあああああぁ、香ばしいッ!!!ぢあわぜぇええ)


ここぞとばかりにイーシュ辺境伯の体に隙間なく密着しようとするヴィクトリア。

今度はそれに気付いたイーシュ辺境伯がギョッとして体を仰け反らせた。



「お、おい……!」


「どうぞどうぞッ!わたくしの行動など全く気にせずに、医務室まで運んで下さいませ」


「!?」


「はぁ……すぅ……はぁっ!すぅうぅぅっ」


「今は汗臭いんだッ!離れてくれ……っ」



それを嗅ぎたいんだ、と声を大にして言いたかったが、今はそれどころではない。



「おい、ヴィクトリア……!」


「スゥーーーーーッ!!!!!!」



もはやヴィクトリアは誰にも止められない。

イーシュ辺境伯を求める吸引力は、今だけ世界一だ。



「~~~~ッ!!?」


「わたくし、スーーッ、絶対に離れませんわッ!!」


「こんな……!は、はっはしたないぞッ」


「わたくしは落ちないように、はぁ……しっかりとイーシュ辺境伯にしがみついているだけですわ!!!スーーッ!!!!」


「くっ………!」



イーシュ辺境伯はヴィクトリアを引き剥がそうとするが、吸盤でくっついたかのようにヴィクトリアの顔は離れない。

ヴィクトリアも腕を首に絡めて必死に抵抗していた。

医務室に運んでいる筈が、いつのまにか不思議な攻防戦が始まっていた。


しかしイーシュ辺境伯には力では敵わない。

一瞬の隙をついて、体を引き剥がされてしまった。

ヴィクトリアは渾身の力を込めてしがみついていた為、頬が真っ赤になっている。

乱れた衣服でイーシュ辺境を引き留めるように服を掴んで身を寄せた。


(……このチャンス逃してなるものかッ!)


顔を真っ赤にして困惑するイーシュ辺境伯に向かって叫んだ。



「イーシュ辺境伯ッ、突然の申し出をお許しください……!ですが、今しか伝えられないと思いまして!!!」


「なっ……!」


「わたくし、もう我慢できませんわッ!!」


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