⑪出発
同日の深夜は空が悲嘆に暮れているような
うっかり二度寝しかけたところで、ナジオンの尻尾で叩いてきた。掌で顔を擦ると、彼は滑らかに窓枠へ這いこちらに首を擡げてくる。しかし困ったことに今、わたしの腰にアカシアの腕が回されていた。それも今日勝手に出かけることを知っていたかのようにしっかりと。
丁寧に解こうとしても解けない。頭上から聞こえる穏やかな寝息が腹立たしい。ついでに窓から感じるナジオンの視線も痛い。逡巡の後わたしは加減することをやめ、今度は強引に腕を外し寝台から降りた。途端に背後で不満そうな声が上がる。ふと振り返るとアカシアの眼が少し開いていた。
「エヴァン、どうかしたのかよ。まだ日、上がってないぞ」
彼は腕を伸ばし、手首を掴んだ。寝起きのせいか握りは緩い。彼の睫毛は眠気でゆらゆら揺れていた。
「早く起きただけだ。まだ眠いなら寝てていい」
わたしが寝台に腰掛けると、アカシアは再び目を瞑った。だのに手だけは離さず、それどころか掴む力を強めてくる。
ちらりとナジオンに視線を遣ると、彼はするりと窓から外へ出てしまった。わたしは仕方なくアカシアに寄り添い、髪を撫でたりして寝かしつけていた。やがて二度寝したところを見届けると、いつの間にかクリンショーが後ろにいた。
魔術を使ったのか知らないが、彼は足音も立てぬまま歩み寄ってきたのだ。そしてアカシアの広い額に手を遣り、理解不能な──故郷のそれと思しき言葉を唱えていた。
傍から見ればただの奇行であるが、彼曰くしばらくの間目覚めない術を施したという。眠っている間に事を済ませてしまえば、大きく騒がれることはないであろうという気遣いであろう。
わたしはアカシアに布団を掛け、傍に粥を置いてから出て行った。服は彼が編んだ曇天模様のものを纏い、最後にささやかな謝罪の言葉と額に触れるだけのキスを送っておいた。
墨染の集落に音はなく、南風が肌を粟立たせる。集落にもっととも近い駅、湿気った空の下で、栗色のウマと二輪馬車に化けたナジオンが待っている。
ウマは我々の知るそれよりも小柄でずんぐりむっくりとした
「馬車を走らせたことは?」
「馬車は無いです」
「では、御者はわたくしが務めさせていただきますね。ああ、後日教授しましょうか? あなたはウマが好きなようですから」
「故郷に帰ったら先生に頼んでみます」
手ぶりだけ残念そうにするクリンショーが促すまま中に入り、格子窓から遠くなる集落を見る。
ウマは月に向かって高くいななき、車輪も激しく回って鳴き叫んだ。
初めての馬車移動であったが、揺れは船よりはるかに酷く、目を閉じらねばたちまち酔ってしまう。
故郷の貴族たちはこんなのに耐えているのか。あるいは性能の差かと頭を押さえ、わたしは長いこと蹲っていた。
ウィートヒルは周囲をぐるりと高い山々に囲まれ、外部との接触を頑なに拒んでいる。そのため港町に住む人々も中央区に行くまでひと苦労である。
さてウマが良いのか馬車が良いのか、意外と到着までの時間は大した時間は長くなかった。東の海から日が覗き、濃い霧が島を覆っている。まるで神が我が子を抱くようそれを、レイフは『スティキット』と呼んでいた。
「霧は神が作り給うた檻。ホルスロンドの民が深入りすると、肺が毒に満たされて死に至ります。まあ我々には関係ありませんがね」
馬車から降りたクリンショーが、背を叩いて言う。ウマは港の馬屋に預け、わたしたちは集落共有の船に乗り込んだ。大樹から刳り貫いただけの準構造船である。
ここから先はもう引き返すことはできない。何としてもアカシアが起きるまでにレイフを連れて帰らねばならない。不明瞭な視界の中、船が波のおだやかな海を滑る。まるでトネリコを飾ったかのように、船が安定している。
「クリンショーさんは貴女と恋をしたことが原因で追放されたと言ってましたね」
海すら隠す黒き濃霧の中、暇潰しも兼ねて、わたしはナジオンを愛でる彼に問う。彼はわたしと顔を合わせず、らしくもなく訥々と語り出した。
「わたくしの故郷は男女の居場所が分断されていました。女性はルヴァと呼ばれる城やその周辺で、男性は更に外側で過ごします。部族によって掟に差はありましたが、我々は所謂恋愛が禁じられていました。穢れた血を入れないためです」
曰く居住地は三重の円で例えられる。中央の円に貴女、その周りに下女。更に外周に男性たちが暮らし、特別な日しか異性と会わない。
「わたくしは鉄など鉱物の他、『父』や『夫』という概念を、ここに来て初めて知りました。種を蒔きを終えた男性はさっさと集落に帰され、我が子の顔を知らぬまま生涯を終えることになりますからね。ですのでわたしは得意の呪術を以て、一度だけでも恋を果たそうとしました。しかしあえなく失敗。女王に捕まり、海に投げ捨てられました」
クリンショーはふっと息を吐き出し、顔を伏せる。
感情が読めない彼にしては珍しく俗っぽい仕草だった。不気味な彼も所詮は人であったかとつい笑ってしまう。
「殺されないだけ温情があると思いますよ」
「はは、それはそうです! 普通なら生き埋めですがわたくしは呪われた子──双子の片割れでしたからね。貴方方が我が故郷に来なくて良かったです。もし来たならば、見つかり次第皆串刺しになっていたでしょうから」
異世界に転移したらケバブになっていたなど冗談でも笑えない。
しかし、それでも好奇心はそそられた。彼の故地の風俗───衣装、食事、住居や宗教観をつぶさに尋ね、頭の中にカリブ海やアフリカ、東南アジアを混ぜたような国を思い描く。
美しい海。浜辺。ジャングル。コーヒー。バニラ。鮮やかな刺繍に、多彩な鳥。
ロビンソン・クルーソー(あるいはアレキサンダー・セルカーク)が漂流した太平洋の島は、原始的な生活に慣れれば意外と快適かもしれない。友を得られれば、なおのこと喜ばしい。
「クリンショーさんにとって、ホルスロンドで一番興味深かったことってなんですか?」
ふと、浮いた疑問について問う。
異郷に行けば言語に文化、建築や文字など興味が湧くものは多いもの。ネズミのようにぽんぽん湧いてきた。彼は少し悩んでから、かように答える。
「『幸福』です」
予想外かつ素朴な答えにわたしは目を丸くした。
「幸せ、ですか?」
「ええ。わたくしの故郷には『幸福』に相当する言葉がありません。強いて挙げるならば普段の食事と生活そのものが幸福であったと言えましょう」
幸福の定義は多岐に渡るが、一般的なものは富や名声、あるいは家族に友、健康などだろう。一方彼の語る日常はあまりに慎ましく、およそ啓蒙主義者には理解しがたいものであった。
「皆で食卓を囲み、皆で食事をする。それだけのことです。それだけのことが、我々の世界にとっては何より素晴らしいことだったのです。ですから恋を知ってしまったことは雷に打たれるくらい不幸なことです。わたくしはそのせいで罪人となり流され、ここで余計なことを知って更に苦しんでいるのですから」
彼は自嘲気味に笑いながら、肩を落とした。
お互いしばらくぼうっとしているうちに濃霧を抜け、朝を迎え、船は陸地に到着した。
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