第115話

――今までずっと逃げ回ってた、そのツケを払う時がきたんだな。


残る可能性に賭けて、英理はポケットの名刺を握りしめた。


久世法律事務所は三階建ての建物で、一階が事務所、二階と三階が住居となっているようだった。


住所だけを頼りにアポイントメントも取らず押しかけたのだが、意外にもあっさりと久世弁護士との面会の許可が出た。


拍子抜けするような事の運びに警戒していると、通された応接間の奥の扉が開いて、久世が出てきて愛想よく言った。


「こんにちは。そろそろいらっしゃる頃だと思ってましたよ」


うだるような暑さで、蝉の声までも油染みて聞こえるというのに、彼だけは涼しげな顔で立っている。


頭は相変わらずの坊主頭で、異様な眼光も健在だ。


英理は膝の上に置いた両手を握りしめた。


「いきなりお邪魔してすいません。弥生さんのことで、少し伺いたいことがありまして」


「結構ですよ」


口元を綻ばせ、まるでお遊戯会を見守る保護者のような目で久世は言った。


「久世さんは、弥生さんの後見人の方をご存知ですか」


意を決して切り込むと、久世は目を瞬いた。


「もし知っているのなら教えてください」


「構いませんが、少し遅くなりますよ」


「大丈夫です。いくらでも待ちますから」


久世は腕時計に目を落とし、悪戯っぽい目で、


「父は今日、公判に出ているので、戻りは十九時を過ぎると思いますが」


今度は英理が目をぱちくりさせる番だった。


「父?」


「ええ。江本弥生さんの後見人は、私の父です」


久世は口元に笑みをそよがせる。


反射的に英理は机の上のパンフレットを手に取った。


『久世法律事務所 所長 久世亘』


その横に大柄で逞しい、押しの強そうな男性が笑顔で写っている写真がある。


気づけば、すぐ隣に久世が立って、こちらをじっと見つめていた。


「父はあいにくと不在ですが、私でお役に立てることがあればお答えしますよ」


英理は顔を顰めた。苦虫が胃の中で増殖している。


どうやら自分は何の下調べもなく、無防備に敵の本拠地に乗り込んでしまっていたらしい。

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