第78話

黙っている英理を見て、妃紗菜はまだ何か言いたそうに唇を動かしかけたが、


「妃紗菜」


式場まで戻ってきた兄の時也ときやが、英理の視線を素通りして彼女に声をかけた。


「行くぞ。母さんが車で待ってる」


敵意にも似た眼差しを受けて、英理は苦笑した。


昔から、神経質な時也とは馬が合わなかった。


年が近いせいもあってか、妙な対抗心を持たれている気もする。


妃紗菜は機敏な仕草で頷くと、英理に小さく会釈をして駆け出していった。


会館を出ると、英理はポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。


電源を入れると着信が二件、ラインが三件入っている。全て凛からだった。


ぶらぶらと歩き、途中で買った缶コーヒーを片手に、公園のベンチに座り込む。


絶対に関わらせまいと決めていた。


親戚にも誰にも、凛のことを話すつもりはなかった。


そして凛自身にも、今回の件をこれ以上話すまいと決意していた。


妃紗菜は何も知らないはずだが、本能的に疑っている。


凛もきっと、これ以上の情報を与えれば、どこかで勘づくだろう。


十年前の事故と、今回の事故があまりに酷似こくじしていることに。




――美咲が丘中学校の修学旅行先は、淡路島だった。


四クラス百二十名の生徒たちは新幹線で新大阪駅まで向かい、そこから四台のマイクロバスに分かれて乗車した。


一泊目は伊弉諾神宮や牧場を訪れ、二日目に黒岩水仙峡へ向かっている途中、その事故は起こった。


英理は二組で、三上保は一組だった。


だから、先頭を走っていたバスがガードレールに突っ込み、海へ転落するのを目の前で見た。


悲鳴を上げて生徒が立ち上がり、運転手が急ブレーキを踏み、全員がバスから降りてそちらに駆け寄った、悪夢のような三十秒間は今でも忘れられない。


そのバスには運転手一名、教師一名、生徒三十九名の合計四十一名が乗車していた。


バスが海に落ちたのだから、当然激しい音がしたはずなのに、何の音も記憶に残らなかった。


見下ろした海はあっという間にバスを飲み込み、何事もなかったかのように静まり返っていた。


潮の香りとガソリンの匂いがあいまって、鼻腔の奥に流れ込んでくる。


何が起こったのかなんて、その場の誰一人理解できなかった。

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