第三十八話 春待月。

 冬。一年の最後の月――春待月はるまちづき

 雪がちらちらし始めたある日の夕暮れ時。

 姉さまはいつ帰るのかなと思いながら、みやびさまがくださった猫の絵巻物をながめていた時だった。


 大きな音と振動がして、なにごとかとおびえたわたくしをやさしい声で、侍女の若菜わかなが落ちつかせた。

 離れが騒がしい。聞こえてくる話では、母屋でなにかが起こっているようだ。


 若菜や、他の者たちから、『何があってもお守りします』と言われたので、静かにしていた。

 弱いわたくしにできることは、おとなしくしていることぐらいなのだ。


 若菜も弱い鬼のはずなのに、彼女はわたくしを守ると言う。


 あとで若菜から知らされたことなのだが、両親が姉のことを心配して、里の鬼たちに命じて、姉さまが弥太郎やたろう密通みっつうしたことがわかったらしい。


 密通とは、婚姻関係にない男女が、だれにも言えないようなことをすることのようだ。


 昔、雅さまが教えてくださったのだけど、よくわからなかった。姉さまが、そういうことは教えるなと怒っていたのはよく覚えてる。


 姉さまが里に帰り、わたくしが待つ離れに向かっていた時に、両親に呼ばれて、両親が待つ母屋に行き、そこで大暴れをしたあと屋敷を飛び出し、里を出て行った。


 ――という話をあとで、侍女の若菜から知らされた時は、驚愕きょうがくした。


 里長であるおじいさま、それから、里長の息子であるお父さまよりも、姉さまは強かったので、だれもとめることができなかったのだそうだ。


 里長の命令で、姉さまの許婚の雅さまが、姉さまを追いかけて行ったと知り、わたくしは眠れない夜をすごした。


♢♢♢


 姉さまの許婚の雅さまは、弥太郎の家で姉さまと会い、話をしたらしいのだけど、一人で里におもどりになったようだ。

 そういう噂を耳にした。


 数日後。


 ふしぎなことに、お父さまとお母さまが、わたくしに会うために、離れまでいらっしゃった。


 そして。


 お父さまがわたくしに、『椿つばきの許婚と婚姻するように』と、おっしゃったのだ。


 離れから出てはいけないと言われた。お父さまにも、この離れの鬼たちにも。

 お父さまもお母さまも、姉さまをあきらめてるのだろう。


 この里で一番強い鬼は、姉さまだ。


 弥太郎は人間だけど、藤の精霊の血も引いているから強いのだ。


 だからって、わたくししか、いないからって、姉さまの許婚と、わたくしが夫婦めおとになるなんて……。


 わたくしには無理よ。


 雅さまだって、わたくしなんかとは、嫌だと思うの。


 でも、婚姻が決まったあと、雅さまは微笑んで、『好きだよ、小蝶こちょう。ずっと好きだった』と、おっしゃった。


 うそよ。そんなの、信じない。


 逃げたい、逃げたい。どこか遠くへ。


 ……遠くか。


 本当は、弥太郎の家に行きたい。


 彼の家に、姉さまがいるはずだ。


 マツリさまとも約束をした。


 いつものように、『またきてね』って、さそってくださったのに。

 わたくしは『はい』と答えたのに。


 行きたい。行けない。


 姉さまに会いたい。マツリさまにも。

 やさしい弥太郎と、彼の家族にも……。


 会いたいの。でも、わたくしは弱い鬼。

 自分だけの力では、この里から出られない。


 雅さまにも頼れない。


 わたくしが一人で悩んでいる内に、里長であるおじいさまが、わたくしを里の外に出さないようにしてしまった。

 強い鬼が一緒でも、結界を通り抜けることができなくなったらしい。


 わたくしは、銀の虫かごの中の小さな蝶々。もう、里の外には出られない。

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