第二十四話 鯉のあやかし、ルージュさんのことと、柚子茶と、初音さんに会いに行きたい桃葉ちゃん。縁側と、朱色の風鈴。大きな池と、鯉と、亀のあやかし。

 泣きやんだ桃葉ももはちゃんが、三冊目の写真アルバムを最後まで見せてくれたあと、「ねえ、琴乃ことのちゃん、池、見に行く?」って、たずねてきたので、あたしはコクリとうなずいた。


「行きたい。こいのあやかしは、こっちにきてから何度も見てるけど、ふつうの鯉は、テレビでしか見たことないし」


「あっ、歌手のルージュさんのこと?」


「そうだよ。ピアノバーで歌ってるらしいね。夜に」


「うん。まだお酒は飲めないから、ピアノバーには行ったことないけど、夜にそこで歌ってるのは知ってるよ。こっちにくることもあるし」


蓮夢はすゆめ町に?」


「うん、そうだよ」


「そうなんだー」


「――あっ! 柚子ゆず茶っ! 琴乃ちゃんに柚子茶あげるって言ったんだったっ!」

 と、桃葉ちゃんが声を上げ、早足で、白くて小さな冷蔵庫に向かった。


 さっき飲んだけど、いいのかな? 

 そう思っていると、冷蔵庫から、柚子茶入りの瓶を取り出して、ビニール袋に入れた彼女がもどってくる。

 そして、大きな目をキラキラさせながら、「はい」って、柚子茶入りのビニール袋を差し出してきたので、「えっ? いいの?」と、聞いてみた。


「もちろん。約束したし」

「さっき飲んだよ?」

「おいしくなかった?」

「いや、そんなことはないけど……」

「じゃあ、持って帰って? 持つのが嫌なら、アパートまで持って行こうか?」

「……今、もらう。ありがとう」


 あたしは立ち上がり、お礼を伝えてから、柚子茶入りのビニール袋を受け取った。

 そして、三人で、荷物を置いた場所まで移動する。


 桃葉ちゃんはさっさと自分の荷物を持って、その場を離れた。

 短大に持って行った物を片づけるのかな?

 テーブルの上に写真アルバムを置いてたし、それも片づけるのかもしれない。


 そんなことを思ったあと、あたしは自分の黒いリュックサックに、柚子茶入りのビニール袋を入れようとして、ん? と思った。


 リュックサックの中から、お香の匂いがする。


 和風の雑貨屋さんで、桃葉ちゃんが買ってくれたハンカチ入りの紙袋を見下ろしながら、これだなと気づく。

 紙袋に匂いが、ついてたんだな。

 防臭って書いてあったので、リュックサックは大丈夫だと思うんだけど……。

 ルーズリーフなんかに、匂いがついてるかもしれない。


 今ここで、紙袋を捨ててもらうこともできるだろうけど、桃葉ちゃんが気にするだろうし……。

 匂いのことは、アパートに帰ってから、考えよう。


 柚子茶入りのビニール袋をリュックサックに入れて、ファスナーを閉めたあと、あることを思い、ぽつりとつぶやく。


「なんか今日は、もらってばかりな気がする」


 すると。


「琴乃ちゃん」

 と、名前を呼ばれた。


 空斗そらと君の声だと思い、顔を上げると、白猫と黒猫と三毛猫のイラストが可愛い、トートバッグを肩にかけた彼がいた。

 なんだろう?


 ドキドキしながら、「なに?」って聞くと、ふわりと笑った空斗君が口を開く。


「だれかになにかをもらったら、ありがとうって感謝して、喜んでたらいいんだよ。無理にお返しをしようとか考えても、苦しくなるだけだし、お返し目的の人が集まってくるだけだからね。好きとか嫌いとか、うれしいとか嫌だとか、素直な気持ちを大切にしていたらいいんだよ。自分を大切にしていたら、自分のことを大切に思ってくれる人なら、大切にしてくれるから」


「お返し目的?」


 あたしが首をかしげると、空斗君は微笑んだ。


「そうだよ。世の中にはね、やさしいふりをしたり、平気でウソをつく、小賢こざかしくて自己中心的な僕みたいな人間がたくさんいるんだ。やさしくされたからって、よく知らない人に、ホイホイついて行っちゃダメだからね。気をつけるんだよ」


「うっ、うん……」


 空斗君はやさしいふりをしたり、平気でウソをつく、小賢しくて自己中心的な人間なの?

 本当にそうだったら、わざわざ言わないと思うのだけど……。


「――行くよ」

 と、淡々たんたんとした声が聞こえて、背筋に冷たいものが走った気がした。

 緊張しながらふり向くと、表情のない桃葉ちゃんがこちらを見てた。


 あれっ?

 いちご柄のトートバッグを肩にかけてる。


 これから池に行くだけだし、片づけるんだと思ってたけど、どこかに持って行くのかな?


 あたしがそんなことを考えている間に、空斗君がニコニコしながら桃葉ちゃんに近づき、「それ、池に持ってくの?」って、たずねた。


「琴乃ちゃんに池を見せたら、わたしも一緒に電車に乗って、初音はつねちゃんに会いに行くの」


 桃葉ちゃんがこっちを見ながら、淡々とした口調で教えてくれた。

 なぜか空斗君のことは見ないのだけど、彼は気にしてないようだ。


「そうなんだー。僕も行きたいなー。みんなで一緒に電車乗って行こうかー」


 へらりと笑って、軽く言う空斗君のお尻を桃葉ちゃんがり上げた。


「――痛っ! 桃葉ちゃんを愛する僕は、どんな桃葉ちゃんでも受けとめるつもりだし、桃葉ちゃんから与えられたものなら全部愛したいって思うけど、僕の可愛いお尻が痛いよー。僕ちゃん泣いちゃうよー、エーン」


 泣きまねをしながら、空斗君が部屋から出て行こうとする。


「おいコラ待てやっ!」

 怒りの声を上げ、ガシッと、空斗君の肩をつかんだ桃葉ちゃんが彼の耳に、淡い桃色の唇を近づけた。


「行き先が同じだから、琴乃ちゃんと一緒に電車に乗るのはいいけど……。わたしは初音ちゃんと二人っきりで、話したいんです」

「えー? 嫌だ―! 僕も行きたいー!」


 駄々っ子な空斗君。

 そんな彼をキッと、にらみつける桃葉ちゃん。


 しばらく見つめ合う二人をあたしは、ドキドキしながら見ていたのだけど。


 桃葉ちゃんがパッと、空斗君の肩から手を離し、こっちを見た。

 無表情の桃葉ちゃんを緊張しながら見ていると、彼女が話し出した。


「エアコンと電気消して行くから、部屋の外で待ってて」

 と言ったので、あたしは「うん」と返事をして、黒いリュックサックを背負ってから、ドアに向かって歩き出した。


 少しして、二人が出てきた。

 桃葉ちゃんは不機嫌そうな顔をしてるけど、空斗君は笑顔だ。


♢♢♢


 三人で家を出る。

 じりじりとした暑さの中、セミたちの声を聞きながら、広い庭を歩く。

 夏草の匂いがむわっとするけど、嫌ではない。


 桃葉ちゃんも空斗君もしゃべらない。

 不安な気持ちになったけど、よけいなことを言ったらいけないと思うから、あたしは静かに、庭や家の外壁や窓を見ていた。


 やがて、大きな池が見えてきた。


 池の向かいには縁側がある。軒下のきしたに吊るされたしゅ色の風鈴。

 風が吹く。風鈴が、チリンと音が鳴る。


 好きな音だ。

 風鈴を見上げていると、「琴乃ちゃん」って、名前を呼ばれた。

 桃葉ちゃんの声だ。


 ゆっくりとふり向けば、不安そうな表情の彼女がいた。


「なに?」

 あたしが首をかしげると、桃葉ちゃんが「大丈夫?」と聞いてきたので、コクリとうなずく。


「大丈夫。風鈴見てただけ」

「……そう。鯉たちが元気に泳いでるよ。行こっ」

「うん」


 池がある方を向けば、池のほとりにたたずむ空斗君と目が合った。

 彼は楽しそうな顔で、ひらひらと手をふる。


 そんな空斗君をスルーする桃葉ちゃん。

 あたしも手をふり返したりはせず、足を進めた。


 大きな池の中を優雅ゆうがに泳ぐ、色あざやかな鯉。


「綺麗」

 と、思わずつぶやく自分がいた。


 クスクス笑う声がする。二人の。

 楽しそうだな。


 そう思いながら、池の鯉たちをながめていると、かめが顔を出した。

 淡いオレンジ色の亀だ。


 なんか、こっちを見ているような気がするけど、この亀が、あやかしなのかな?

 あっ! 亀が岩に近づいたっ!

 岩に登ろうとしてる。可愛い。


 って、思った時だった。

 ふと、だれかに見られているような気がして、ふり向いた。


 縁側の、窓の向こうに、人がいた。

 彼女を見たとたん、嫌い! と叫ぶ声がした。頭の中で。


 身体が震えて、涙が流れる。

 ドキドキして、身体が熱くて、胸が痛くて苦しくて、あたしは泣きながら胸を強く押さえ、そのままふらりと倒れそうになり、池に落ちないようにしなきゃと思った瞬間。


「――亀っ!」

 凛とした声が、響き渡った。

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