第17話 噂が駆け巡る

「マルくん。腹が減るのには同情するが、自分より強い者から食べ物を奪ってはならない。奪った相手が優しいこの私だから説教で済んでいるが、これがもっと怖い奴だったら、最悪お前の命は無かったぞ。お前はまだ弱い。ただの管狐使いの人間に取っ捕まるほどに弱い。そんなお前が食糧調達をするには、もっと別の場所があるはずだ。それがどこか分かるか? そうだ、隣の部室だよ」


 何か変な話になってきた、と思い、僕は顔を上げた。その理屈はさすがにおかしいだろう。


「この近辺でお前が侵入先を探す時、真っ先に候補から外さねばならないのは、ここだ。あやかし研究会の部室だ。何故ならここの支配者は私で、私はお前より強いからだ。隣の写真部や囲碁部ならこんなことにはならなかった。何しろ彼らはあやかしを見ることすら出来ないからな。次からこのサークル棟で食べ物を漁る時は、うち以外の部室を選ぶことだ。いいな?」

「ニャ……」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 僕は話に割って入った。


「山吹先輩、それじゃあ写真部と囲碁部が、次の被害者になってしまいますよ」

「うん、そうしろと言っている。この二つのサークルのいいところは、人数が少ないことだ。メンバーの中にあやかしを視認できる者が紛れ込んでいる可能性が低い。否……正確には、そのような者は写真部と囲碁部にはいなかった。前に私がクウちゃんたちを派遣して、ちゃんと確認しておいたからな」

「いつの間に……いや、他人様の食べ物を奪うのがそもそも悪いのであって、自分より弱い者からなら奪ってよしというのはあまりにも……あの、何というか、蛮族的な感じがします」


 山吹先輩はマルくんを捕まえたままじっと僕を見た。


「ならばマルくんはどうやって腹を満たせば良い? 飼い主はもうマルくんに餌を出してくれない。どうやら墓前に煮干しなどを供えてくれているようだが、マルくんがこの先あやかしとして生きていくにはとてもじゃないがそれでは足りない。生前は家猫で、狩りの腕も磨いていないマルくんが、いっぱしのあやかしになるまで魂を世界に留めておくには、どうしても他人から奪う必要性が出てくるだろう」

「こ、これってそういう話なんですか? 山吹先輩は最初から、うちではやらずによそでやれって言うつもりだったんですか?」

「そう言ったつもりだが、聞いていなかったのか? これに懲りたらマルくんは、狩る相手を慎重に選ぶようになる。二度とうちには来なくなるというわけだ。お互いに悪い話じゃない。私たちの問題もマルくんの問題も解決する」

「ニャ」

「……いいえ僕は騙されませんよ。食糧調達のために他の部室を襲うしかないなんて、そんなはずはありませんから」

「ほう? ならどうする?」

「もっとこう……人間とあやかしの双方にとって利益になるやり方があるはずです。例えば……食品ロスとか」

「ほほう。意外と、聞くに値する方向性の話になってきたな」


 山吹先輩は床にマルくんを下ろすと、自分も絨毯の上に正座した。


「ならば語ってもらおうか。室井くんの提案する、マルくんの生存戦略を」

「ええ……だから僕、忙しいんですけど……」

「室井くんが先に口を挟んだんじゃないか!」

「それはそうですが」

「やりかけたことはきちんと最後までやりたまえ。このままではマルくんが路頭に迷ってしまう」

「でも、僕が話す程度の話なら、山吹先輩にもできるんじゃないですか?」

「それはそうだが」


 山吹先輩はきりりとした目つきで僕を見上げた。


「私は室井くんから話を聞きたい」

「勘弁してください。僕、次のコマは試験なんですよ」

「むむう、そうか……」


 山吹先輩は隣に居並ぶ管狐たちを見下ろして、小声で言った。


「何だか最近、たまに室井くんが生意気な感じだね……成長を感じて嬉しい反面、寂しくもあるよ……」

「えっ、あの、すみません。僕、失礼な口を」

「いいんだよ……普段からもう少し生意気な方が、からかい甲斐があるからね……」

「……いや、からかわないでくださいよ」


 僕はむくれた。山吹先輩はくつくつと笑った。


「いやぁ、そういうわけでね、マルくん。私と一緒に、食品ロスについて考える時が来た。これぞ、人間とあやかしの共存だ、と言いたいところだが、この場合あやかしの方がやや不利だな。マルくんも、腐った魚ばかり食わされるわけにはいかない。なるべく新鮮な食べ物を捨てる家を見分けて、正しく食品ロスを減らそうじゃないか」

「ニャア」


 山吹先輩とマルくんと管狐たちがわいわいと盛り上がっている間に、時間は過ぎた。僕は試験を受けに行くため立ち上がった。


「すみませんが、お先に失礼します」

「おう、頑張っておいで。応援してるぞ」

「ありがとうございます」


 僕は軽く頭を下げた。


 ***


 僕が戻る頃には、マルくんはすっかり山吹先輩に懐いていた。マルくんは絨毯の上で餅のように伸びていて、その白いお腹を山吹先輩がわしゃわしゃと撫でていた。

「たまにはこの部屋に遊びに来ても良いぞ」

 さっきと真逆のことまで言っている。

「いいんですか。二度とうちに来ないようにと説教していたのに」

「いいんだよ。マルくんがうちの食糧を漁らないならば、来ても何ら問題無いだろう? それに可愛い」

「先輩……今日はいつにも増して滅茶苦茶なことを言いますね……」

「むむっ、何だそれは。私がいつも滅茶苦茶みたいな言い草じゃないか」

「……」

「違うと言ってくれてもいいんだぞ」

「遠慮します」


 僕はいつもの席に座ると、次なる試験に備えて、かばんからファイルを取り出した。山吹先輩は腕組みをして椅子の背もたれに体を預けた。


「室井くんは本当に立派になった。真面目なところは変わらんが、短所は時に長所にもなり得る」

「真面目が短所みたいな言い方はしないでいただけると助かります。先輩こそ、レポートはもういいんですか」

「ああ、それなら室井くんが試験を受けている間に完璧に書き終わったよ。何しろ今の私は、勉学をさせれば右に出る者がいないからな」

「そうでしたね……」


 僕はルーズリーフの上に溜息を落とした。


「ニャア」

「おっ、マルくんが何かを言っている。リンちゃん、翻訳してくれ。……ふむ、そうか」


 山吹先輩は立ち上がって、マルくんを高い高いした。


「マルくんは一旦、生前の家に帰るそうだ。飼い主にはマルくんの姿は見えんというのに……殊勝なことだな」

「ニャア」

「ああ、またな。行ってらっしゃい」


 マルくんはふっと影になって消え失せた。


 それからというもの、あやかし研究会の部室を訪れるあやかしは、ぱたりといなくなった。


 山吹先輩は最初は一切気にせずに、「ま、そんなこともあるだろう」と言って、学園祭の展示物のための河童の資料集めに一心不乱に取り組んだ。模造紙には大きく関東地方の地図がでかでかと載っていて、河川の部分には番号が振られていた。どうやら禰々子さんの勢力圏内の河童を網羅したいらしい。無茶だと思いつつ僕も手伝っている。

 僕はあやかしたちが来ないのが気になったから、陰の世界をしばしば覗いてみたのだが、マルくんが元気に過ごしているということ以外は特に分からなかった。

 そうこうしている内に夏休みとなり、僕は部室まで行かなくなった。暑い中をわざわざ出かけるのも億劫だったのだ。山吹先輩と会う頻度はガクンと減ったが、それに反比例して、山吹先輩からのメッセージの量が増えた。


『この前、部室に行ってみたんだが、あやかしが来た痕跡は無かった』

『クウちゃんによると、陰の世界では、あや研の噂が恐ろしい速さで広まっているそうだ』

『あや研の部室には危険な大あやかしが出るから行ってはいけない、という噂話をキイちゃんが拾ってきた。前に禰々子が来たから間違いではないがな』

『リンちゃん曰く、あや研の部室には馬鹿でっかい蝦蟇がまがえるがいて、踏み込んだが最期、パクッとやられてしまうのだと言う噂があるらしい。何故蝦蟇なのだろうか』

『陰の世界はあや研の変な噂で持ちきりだよ。だが誰も自分で行って確かめてこようとしないんだ。私はこの三日間、朝から晩まで部室で過ごしてみたが、誰も来なかった』

『そう言えばマルくんはどうしているだろうか。明日クウちゃんに探させてみよう』


『いいえ、』

 と僕は返信する。

『そういうことなら僕が今見てきますよ。マルくんの様子を見るだけでよろしければ』

『おお、助かる』

『大したことではないです。暇なので』


 バイト先では夏期講習とやらが佳境に入っていたが、僕にシフトが無理矢理詰め込まれることは無かった。山吹先輩が先日クレームをつけたせい……というか、お陰様である。


「よいしょ」


 僕はスマホを枕元に置くと、久々に千里眼で陰の世界を探検した。マルくんのいるところ、と念じると、すぐにキラキラとした光が見えてきた。どうしてこんなにも視界が輝いているのだろう、と疑問に思いながらマルくんを探す。

 いた。背中に一つだけ黒いぶちのある、白い猫又。何やら招き猫のような座り方をして、一心に頭を下げている。その相手を探るため、僕は少しズームアウトしてみた。

 そして、しかと見た。マルくんが何を拝んでいるのかを。

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