第23話 Sideななせ 空の自宅⑥

 その後のこと。

 お手洗いの中にあえて、、、長くいたななせは、タイミングを見計らっていたようにリビングに戻り——。

「あ、ありゃ? なんか体勢変わってるし」

 その目を大きくしていた。


 その視界に入っているのは、ソファーに座って首をガクンと落とした状態——まるで電車の中で眠っているような空だった。

(……コレ、深い眠りにつかないようにしたんだろうね。あたしに声をかけられたら、すぐに起きられるようにって)

 お手洗いに行く前は、睡魔に襲われるがまま横になっていたのだ。

 気合いで体を起こしたものの、そのまま力を使い果たした姿が容易に想像ついた。


(ふふ、センセらしいとこだけど、もっと気を抜いてもいいんじゃない?)

 微笑むように目を細め、足音を建てないようにすり足で眠っている彼に近づいていく。

 そして、ソファーの前で膝を折ると、気になるように寝顔を覗き込むのだ。


「センセ、ちゃんと寝てる? それとも寝たふり?」

「すう……」

「本当に寝てる?」

「すう……」

 返事として返ってくるのは一定の小さな寝息。


「ね、ねえ、本当に寝てんの?」

 体勢が変わっているからこそ、疑り深くもなる。

 ななせは小さく呼びかけながら人差し指を伸ばし、彼の頬をツンツンと攻撃する。

 ——その結果、反応はなにもなし。無抵抗にされるがまま。


「にひっ、完全に寝落ちなのね。いつもは偉そーにしやがって。このバーカ」

 夢の中にいることを確信した瞬間、顔を綻ばせながら悪口を飛ばす。

 そんなななせの悪戯は止まらない。

 今度は親指も伸ばし、空の頬を真横に引っ張るのだ。

「ぅ」

 少しエスカレートした攻撃を行ったことで、鬱陶しそうな声が漏れたが、彼が目を覚ますことはない。

 もう少し強く引っ張ってみれば、表情がどんどん険しいものになっていく。


「『お酒に気をつけろ』とか、一体どの口が言ってるんだか」

 説教が効いたような表情を見て、満足感に包まれるななせは、引っ張っていた手を解きながらさらに言葉を続けるのだ。


「センセはお酒ヨワヨワなんだから、まずは自分のことを考えろってね」

 今回が初めてだったのだ。わざと人を酔わせるような立ち回りをしたのは。

 初めてのことがどうしてこんなにも上手くいったのか。それを説明するなら、空がポンコツだったから、に尽きるだろう。

 お酒に弱い体質で、普段よりも強いお酒を飲んでいるのにも拘らず、からかえばからかうだけ飲むペースを早めたり、と。


 熟睡しないような寝方に変えたのは褒められるべきところだが、お酒が回っていることには変わりない。

 相手に起こす意思がなければ、この寝方に意味はないのだ。


「こんなに手のひらで転がされてたら……さ? なにされても知らないよ、本当。酔わせて悪いことしようとしてる人だっているんだから……」

 彼が寝る前にも言った注意をもう一度、ボソリと。

 それを証明するように、顔を赤くしながら動くのだ。

 ぶらんと垂れ下がっている彼の右手を取り、その指に指を絡ませて。

 脱力しきったその手を恋人繋ぎにするのは簡単すぎること。


「うわ……。手、っつ……」

 お酒を飲めば、血の巡りがよくなることで体がほてる。

 この度合いは体質によるが、空の場合は影響を大きく受ける方だと断言できるくらいの暖かさだった。


「て、てか……あたしと違いすぎてキモ……。血管だって浮き出てるし……」

 ゴツゴツと角ばった大きな手。

 にぎにぎしながらその珍しい感触に触れるななせは、悪態をつきながらもその手を離すようなことはしない。


「これにすら気づかないとか……」

「すう……」

 今度は寝顔を見ながら、ぎゅーっと力を込めていく。


 静かなリビングに聞こえるのは、彼の寝息と、自分の息を呑む音。

 無防備な姿。手が密着した感触。直に伝わる空の体温。

(今だったら、なにをしても——)

「——って!」

 手繋ぎを超えた邪な気持ちがブワッと溢れたその時、我に返るななせは、勢いよく手を離すのだ。


(あ、危な……。今、絶対変なスイッチ入ってた……)

 普段ならこうなることは絶対にない。理性が消えかけた今の感覚に動揺が襲ってくる。

 足音を立てながら後退り。顔を真っ赤にしながら彼の様子を窺えば……未だ寝息を立てたまま。

 乱雑に手を払っても、大きな音が立っても、この状況だけは変わらない。


「ったく……。危機感なさすぎだって、マジで。今ので起きろし。隙だらけなんだから財布は隠せっての」

 邪心が払われた今、『呆れ』の気持ちが前に出る。


「はあ……。センセの彼女になったら、飲み会の送迎は絶対にしよ」

 今回の酔ったのなら、変な女に簡単にお持ち帰りされる可能性がある。

 今回、一つ学んだななせはため息を吐きながらリビングを出て、掃除機をかけた寝室から布団を両手で持ってくると、寝ている彼にそっとかけるのだ。

(横になってくれたら、もっとかけやすいのに……)

 なんて苦笑いを浮かべながら。


「さて……」

 彼への悪戯も一区切り。

 気持ちを切り替えるように、時計に目を向ければ22時25分。

 今日考えていたアレを、まだやれる時間だった。


「じゃあセンセ、今から勝手にキッチン使わせてもらうね。冷蔵庫開けたり、調味料使っちゃったり、食洗機も使うけど、これは寝てるセンセが悪いってことで」

(寝ている相手に)しっかりと宣言。

 リビングの電気を落とし、キッチン側の電気をつけると、冷蔵庫を開けて取り出していく。

 彼がスーパーで奢ってくれた食材を。言い換えをするなら、ななせの自宅に持って帰るべきものを。


「やられっぱなしはもう卒業したんだってとこ、ちゃんと見せないとね。あのバカにだけは」

 その想いに突き動かされるように、料理を作っていく。


 野菜たっぷりのトマトスープ。アボガドとトマトのわさび和え。たまごサラダ。かに玉豆腐のあんかけの4品を。

 限られた具材で調理をしたために同じ具材が入っているが、二日酔いになっても食べやすい料理をチョイスしたのだ。


「……美味しく食べてくれるといいけど」

 スープの鍋はそのまま。それ以外は丁寧にラップをして冷蔵庫に。


 一仕事を終え、再び時計を目を向ければ……23時10分。

「って、ヤバ」

 空と約束した時間が過ぎていることを確認した瞬間、急いで帰宅の準備を始める。


(『あたしも寝ちゃった!』なんて言えば簡単に泊まれるんだろうけど……センセが自分を責めちゃうだろうしね。『あたしを家に帰せなかった』的な感じで)

 わがままを言えば泊まりたい。もっと一緒にいたい。が、彼の立場を考えればここまで甘えることはできなかった。

 今度、『一緒に買い物に行く約束をした』ことで我慢はできるのだ。


 そうして、5分足らずで帰宅の準備を終わらせたななせは……未だ眠る彼に近づいていく。


(センセのくせに、世話が焼けるんだから)

 肩にかけた布団が下がっていることに気づき、ソファーの後ろに回って再び位置を戻していく。


「すう……すう……」

「…………」

 その最中も聞こえる寝息。これが終われば、もうお別れ。


(……もう、お別れ、か……)

 実感を覚えたその瞬間、悲しい気持ちに襲われる。

 次——会えるのはいつだろうか。

 今日のような隙のある姿をまた見られるのだろうか。

 もしかしたら今日寝てしまった反省を活かして、一緒に飲むようなことをしなくなるかもしれない。

 この姿はもう見られないかもしれない。


 別れ際だからこそ、もう訪れない機会になる可能性があるからこそ、一つ……ストッパーが外れるのだ。


「……センセ、またね」

 ななせは背後から空に手を伸ばし——

「いろいろ気をつけてね」

 空の首筋に顔を埋めるように、後ろからギュッと抱きしめる。



 この時が止まるような時間は、5秒も続かなかった。


「……か、帰ろ。マジで」

 真っ赤な顔でそんな言葉を残したななせは、逃げ去るようにリビングから出ていくのだった。



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