第18話 空の自宅②

「センセ、こっちの方掃除機かけ終わったよ〜。リビングは料理中だからしなくていいよね?」

「うん! 本当ありがとうね。助かったよ」

「お礼はいいって。さすがにこのくらいはしないとだしさ」

 洗濯物を畳んで収納棚に戻した後のこと。ななせは自ら仕事を見つけて体を動かしていた。


 スーパーの商品を全て奢ってくれたこと。家まで連れてきてもらったこと。さらにはご飯まで作ってくれていること。

 そして、過去にたくさんの迷惑をかけてしまったこと。

 大人になったからには、少しずつ恩を返していきたい。もうやられっぱなしにされない。そう思っている彼女なのだ。


「ねえ、他にすることない? 洗面台の拭き掃除とか、玄関をいたりするよ?」

「もう十分だよ。そろそろゆっくりしてもらって」

「うーん。センセのパンツコレクション見ちゃったから、もうちょっと働かないとアレなんだよね〜」

「え……? も、もしかしてあの棚の中漁ったの!?」

 キッチンに立ってフライパンを握っている空は、正面から顔を覗かせているななせに当然のツッコミを入れる。


「にひひ」

「またそうやってニヤニヤして……。成人男性の下着をそんな弄るもんじゃないよ? 本当に。綺麗なものでもないんだから」

「洗濯してたんだからいいじゃん。別に」

「そんな問題じゃないの」


「ってか、一番下に置かれてた黄色のアヒルさんパンツ、なんで買ったの? あれだけあからさまにセンセの趣味違うし、アレ○ったらクチバシ尖るようなデザインになってるでしょ? 絶対」

「し、下ネタはやめようか……。って、ちょっと待って弁明させて! あ、あれは同僚から悪ふざけでプレゼントされたやつで……。まだ一回しか使ったことないからね!?」

「は!? あれ使ったの!?」

「だ、だって一回くらい使わないと申し訳ないでしょ……? 逆に一回しか使ってないのが申し訳ないくらいだし……」

「ふふ、本当バカじゃん」


 くたびれたエプロンをしながら説明する空に、思わず笑いが込み上げるななせである。

 これ以上、説得力のある状況にはなかなか出会えないだろう。

 空の人間性を改めて感じる彼女は、頬杖をついて優しく見つめるのだ。


「それにしても、センセがあのアヒルさんパンツ履いてるの想像したら、マジで面白いんだけど」

「あれを履いて姿鏡に立ったことあるんだけど、本当の本当に恥ずかしかったよ」

「あはっ、そりゃそうだって。あれはどう考えても高校の修学旅行用でしょ」

「はははっ」

 笑顔を浮かべて盛り上がる二人。

 テレビの音声を聞きながら、いつも黙々と料理を作っていた空にとって、この時間は本当に楽しいものだった。

 一人暮らしを忘れさせるような時間でもあった。


「ねえ、なんかこの感じ、同棲してる風じゃない? あたしはそう思うんだけど」

「ふふ、確かにそうだね。実はこのマンションを選んだ理由には、たくさんの友達を呼べるとか、同棲ができるとかもあって」

「……へえ。ちなみに、センセが同棲を考えているような人っているわけ?」

「ううん、全然」

「今いい感じっていうような女の人も?」

「残念ながら」

「センセ。現実を見ろ」

「ま、まだ現実を見る時じゃない……」

「出た現実逃避」

 紫の目を半分閉じてバッサリ言ってくる彼女に対し、怯んでしまう。

『確かに』と思った空なのだ。これは仕方ないだろう。


「……まあ、かなり意外なんだけどね。センセにそんな人すらいないのは」

「そ、そう?」

「正直、見る目ないと思うよ。周りが。てか、センセが選り好みしてんじゃないの? モテないわけないじゃん」

「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、本当にそんなことないよ? 相変わらず抜けてるところもあってさ、自分」

「ふーん……」

 片方の眉を上げ、明らかに疑った眼差しを向けてくる。明らかに教え子が先生に向けてくるような目ではないが、彼女がヤンチャだった時代の面影がある表情だ。


「そう言えばさ? 今センセはなんのお仕事してんの? 人に教える仕事がしたいって言ってたし、集団塾のセンセとか?」

「ううん、学校の先生になったよ。今は桜田高校で現代文を教えてて」

「そっか」

「驚かないんだ……? てっきり驚いてくれるものかと思ってたよ」

「ごめんな反応しちゃったけど、人に教えるお仕事はセンセの天職だと思ってるし」

「ッ……。な、なんか今、目がウルってきたよ……はは」

 普通の人から言われる言葉と、教え子から言われる言葉では重みが違う。

 目頭が熱くなった瞬間である。


「——センセのダッサいアヒルさんパンツ」

「……」

 ななせのこの言葉で、涙腺がキュッと閉まった。

『どうしてこのタイミングでそんなことを言うの!?』なんて思った空だが、先ほどの気持ちが伝染していたかのように、彼女の目もどこか潤んでいるようだった。


「あ、そうそう。今さらこんなことを言うのもなんだけど……センセが高校のセンセなら、あたしって結構ヤバいことしてたんじゃない?」

「ヤバいこと……?」

「あのスーパーって桜田高校から近いでしょ……? だから生徒の親とかいる可能性がある中であたしは『センセ』呼びしちゃったし、センセは家に招待したし」

「…………あ」

 彼女がなにを言いたかったのか、この言葉で理解した空は、無意識に料理の手を止めた。


「実際やましい関係じゃないし、あたしは在校生でもないから、一回二回の通報は大丈夫だろうけど……さすがに対策しないと懲戒免職になりそうじゃない?」

「う、うん。ななせさんの言う通りだ……」

『抜けている』の発言が返ってきた瞬間だった。

 そして、ななせは空が教師になっていることを知らなかったのだ。

 再会の喜びで注意することができなかった分、この件は全てこちらの責任である。


「一番の対策は、外では『センセ』呼びを変えることだよね? あたしが在校生だと思われるのがダメなんだし」

「そうだね。申し訳ないんだけど、外では呼び方を変えてくれると助かるよ」

「OK。了解〜」

 ここにきて語尾に音符がついたような返事をしたななせは、元より考えがあったように確認を取るのだ。


「じゃあさ? 『ソラ』……って呼んでいい? あくまで誤解されないように」

「もちろん! じゃあ外ではそんな感じでよろしく」

 対策も話し合ったことで不安もゼロになった。そうして再び料理を再開させた時である。


「……ね、ソラぁ?」

「なに?」

 外で呼ばれるはずの呼び方をされるも、当たり前に答えて顔を上げれば……ななせと目が合う。


「……ぁ」

「どうかした?」

「あ、えと……やっぱヤメだ。ソラさんにする。ごめん。ソラさんでいくから」

「え? ソラさんにするの?」

 途端のこと。顔を下に向けてパタパタと手を仰ぐ彼女に、思ったことをそのまま伝えるのだ。


「なんかそれは余所余所よそよそしくない……?」

「あ、あのねえ。セ、センセが同棲とか言ったからだし……。マジで変なこと考えちゃったじゃん……クソ」

「あははっ、なるほどね。同棲うんぬんはななせさんからのような気がするけど」

「……」

「っと、もうすぐで料理できるから待っててね、ななせ」

「っ!!」

 下着の件の倍返しするように、自滅した彼女をからかう空。

 この口撃は、嬉々としたななせの感情をぐちゃぐちゃにするものだった。


「……つ、追撃とかふざけんなっての……」

 もうやり返さなければ気が済まないレベルにまで達していた。

 熱のこもる顔を上げて、口をムッと締め、『ぐぅ゛』と唸り声を上げるななせは……禁断の技を使うのだ。


 オシャレなネイルの施した右手を顔の前まで持ってきて——。


「——え? ちょ、こら! 中指立てない! こら!! 両中指立てない!」

「アヒルさんパンツ」

「それはやめて!? 恥ずかしいから!」

 料理の完成まで騒がしいやり取りをする二人だった。

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