☆中庭にて
つららの夢から目が覚めて、学校についてみると、珍しいことに花矢さんが席に着いていた。
花矢さんが私より早く学校に来ているなんて不吉だ。いや、悪い予感が……。
と思うと、心の中でも覗いたように花矢さんがくるりとこちらに向き直った。びく!とした私を暫く見据えると、すぐに前を向いてしまう。
……何なの?不安になって机の中を確認してみて、わかった。何やら紙切れが入っている。私は爆弾を解体するみたいにそっと紙を開いた。
『今日の放課後、中庭で話をさせて下さい。全てお話しようと思います。』
中に書かれていたのは、それだけ。
なぜ、人けのない中庭に……?殺されないと良いのだけど。まるで印刷したようなかっちりした文字からは、文面以上のことが何も伝わってこない。私は小さく、気の重い溜息を吐いたのだった。
そうして、今。
放課後、私はゆかりたちとのお喋りをほっぽってさっさと中庭に来ていた。
こういうことは早く終わらせるに限るもの。
中庭には沢山の植物が生い茂り、円い池もあるけれど、ほとんど手入れされていない。草もぼうぼうに伸び切って、この辺りだけちょっと暗いくらいだ。何やらわからない虫の鳴き声が、七月のまだ明るく蒸し暑い夕方の風に乗って空々しいほどに響いている。
樫の木の間に隠れるように、花矢さんはいた。いつもどおり冷たい視線で私を縫い止める。
「人のいないところで話したかったので。わざわざすみません」
「い、いやいいよ」なんだこれ。私を突き飛ばした人の言葉とは思えないぞ……。
花矢さんに勧められ、私は池のふちに座る。何から話すか迷っているようで、彼女は座らずに伏し目がちになっていた。こうして見ると花矢さんは疑いようもなく美人だ。静淵に佇む美少女というのも画になる。
「この間はすみませんでした。突然合言葉なんて訊いて」
「えっ、ああ、はい」
急に話されるからびっくりした。合言葉……結局、あの後蛍石さんと話せる機会がなかったから、合言葉を訊かれたことは言えてないんだっけ。
「父が見苦しい様子になったんじゃないでしょうか。それに、何があったか、気になりますよね。あんな伝え方をしたんですから」
確かに、気になった、けど。花矢さんの目が光るくらいに鋭くなってて、肯定する方が怖い。事実だけを慎重に答えることにする。
「お父さんは花矢さんの話が出ても落ち着いてたよ。自分が言えることは何もないって」
「当然ですッ」
思わずと言ったように声を荒げた花矢さんは、こほん、と取り繕うように咳払いをする。
「……前置きが長くなってしまいましたね。単刀直入に言いましょうか。
父は、母と私を捨てました」
「――」
反応を返すことができなかった。
「――えっ?う、どういう、こと?」
あんなに優しい蛍石さんが?
言葉が強烈すぎて、蛍石さんのイメージと噛み合わない。磁石が反発するみたいにその一言が暴れて、頭の中も巻き込みぐるぐる回り出す。
「あれは、九年ほど前のことになります」
何か言う隙も与えず花矢さんは続ける。
「詳しい事情は私もあとから教えてもらったのですが、うちはカフェを経営していまして。当時、不景気で営業が困難になったそうです。両親の間で、カフェを続けるか辞めるかで意見が割れたんですよ。母は辞めようと言いましたが、父は自分の夢だからと頑固に続けると言い張りました」
押し殺しながらも、確かに震えた声で言い募る。溢れそうになる静かな怒りが、低くその根底に流れているように思った。私は息を殺して花矢さんを見守る。
私の知らない蛍石さんが、そこにいる。
「それで結局、答えが出ないまま、父が時々ふらりといなくなることが多くなりました。電話も繋がらず、どこを探してもいない時間がだんだん長くなって……とうとう帰ってこなくなった。しかも、その直前に、家族の思い出の品を全部売って。好きだったギターも、私にくれたぬいぐるみも、全部っ……きっと思い出よりも、カフェの資金をとったんですよ。家ではもうカフェを続けることができないから、勝手に家を出てどこか別のところで開業することにした。父の頭には、最初から私なんていなかった。カフェ、カフェ、カフェ……あの人の頭にはそれしかないんでしょうね。
父をどう思っているか、これが返事です。私は父が嫌いで、今も腹が立つ。……母はもう気にしていないようだけど、私は絶対に許さない。いつ帰ってきたってもう今更水に流す気はない」
私は、小さく溜息を吐いた。なんと声をかけたらいいのか分からない。先に、楽しそうにカフェで働く蛍石さんを見てしまったからだ。
それに、あの記憶。開店前のロータスを手伝っていた記憶。
私は、花矢さんの家族の分断を助長してしまったんじゃないの?
そう思ってしまうと、もうだめだった。これ以上聞くのが耐えられない。……優しい蛍石さんを知っている上で花矢さんの話を鵜呑みにして、途端に嫌いになりかけている私も嫌だ。
違う、大丈夫……きっと蛍石さんにも理由があったはず。そうじゃなきゃおかしいもの。
……そう言い聞かせながら、私はどうしても溜息を止めることができない。
ああ……だから、人の事情に深入りするのは嫌なのだ。人生を一緒に背負わされた気分になる。その重みに耐えられる気力も責任もないから、私まで押し潰されてしまう。
それで、一つも声をかけられないのだった。
私も声を出さず、花矢さんも黙ってしまったから、中庭には身動きできないほど重苦しい沈黙が流れた。花矢さんは私を見ていたけれど、私はただ自分の足元を見詰めていた。私に刺さる花矢さんの鋭く責任を求めるような瞳は、目を合わせたくないなと思わせるには十分だった。
「私が話したこと」
話させた責任をとって、と空耳が聞こえる。
「黙っていてくれますか」
「……お父さんに?」
「いえ、立尾さんたちにです」
美雪の名前が出てきて、思わず顔を上げる。
「父に話すのはどうだっていいです。あちらも、私の気持ちくらい分かっているでしょう。どうせ会いになんて来ないでしょうからどうでもいいですが、それよりも学校生活の方が大切です」
腕を組んで淡々と話す花矢さんを、私は暫くぽかんと眺めていた。
やっぱり、美雪たち……私のことも嫌いなのかな。そりゃあ裏でこそこそ言ったりしてるから、仕方ないけど……どうして、私に、こんな自分の弱みみたいなものを話すのか。私なら絶対に言わない。
聞いても良いものか、口を開けたり閉めたりして考えていると、先に花矢さんが声を発した。
「これで、満足して頂けましたか」
「……満足?」
「はい。もう、私に関して気になる事項はありませんよね?」
その瞬間、私はようやく理解した。
花矢さんは、私の気になっているであろうことを全部先に話して納得させて、これ以上関わるなと言っているのだ。
開いた口を閉じ、唾を飲む。私は、至って慎重に答えた。
「うん、もう大丈夫。わざわざありがとう」
花矢さんは、私の言葉を聞き届けるとすぐに「では」とお辞儀をし、さっさとその場を立ち去った。その背を見送り、私はふうと溜息を吐く。
気持ちを整理しかねていた。花矢さんの怒りも偽物とは思えないし、私が見た優しい、そして娘のことを悲しそうに話す蛍石さんも、まがい物だとは思えなかった。
私は……ヴェイグでどんな顔をすれば良いのだろう。
なんとなく空を見上げると、校舎の中で練習する吹奏楽部が目に入った。美雪のようなポニーテールが窓際で揺れている。トランペットを吹いているようだ。窓が閉め切られているせいで音色は何も聞こえない。……いや、まさかね。きっと神経が張り詰めてるから気になっちゃうだけなんだ。
灰色の雲が薄く空を覆っていた。朧雲は雨の兆候。降り出す前に早く帰らなきゃ。
明日の夢で雨が降ったら 七々瀬霖雨 @tamayura-murasaki-0310
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