第62話 訪問者 【後編】
女は、コツッコツッとヒールの音をたててオフィスの中に入った。藤原に無言で背を向けたまま誰もいないオフィス内を見渡している。藤原は会ったら思い出すかもしれない、そう思っていたが、やはり誰なのかわからなかった。
「いいオフィスですね」
女は呟くように言った。
「え、あ、ありがとうございます」
藤原は適当に礼を言った。(なんだこの人、いきなり)
「‥‥‥‥」
女は背を向けて黙り込んだままである。
「私はここの責任者の藤原と申します。失礼ですがどちら様かお伺いしてもよろしいでしょうか?」
藤原はまずそう切り出した。
「佐藤‥‥と申します」
女は振り向きながら名乗った。
「佐藤さん、ですね。以前にお会いしたことはございましたか?」
「はい、ほんの少しだけ。でも藤原さんは覚えていないでしょうね」
女は表情を変えずに口だけ動かした。
「そうでしたか。正直に申し上げますと思い出せなくて‥‥ですね」
藤原は後頭部をぽりぽりと掻きながら言った。(会ったことある? 俺は一度会った人なら大体覚えているはずなんだが‥‥)
「いえいいんです。本当に少しだったので」
「ちなみにどちらでお会いしましたか?」
藤原はそう訊くと、
「いえ、いいんです」
と佐藤という女はそう言うだけだった。
「申し訳ないです。今後とも良いお付き合いができればと思います」
藤原は空気を悪くしないようにと配慮して適当に言った。
「ふふっ」
佐藤という女は不適な笑みを浮かべた。
「本題に入りたいのですが、ご用件をお聞きしたいのであちらの商談スペースへ」
藤原は真っすぐ行ったところのソファとテーブルのある場所へ誘導しようとした。すると、佐藤は口を開いた。
「いえ、すぐ終わりますので、ここで」
「え?」
藤原は首を傾げた。
「藤原さん、あなたダイドー事件について色々と知っていますよね?」
佐藤は唐突に質問してきた。
「え、どうしてそんなことを訊くんです?」
藤原は昨日林崎が訊かれたことと同じことを質問されたことに不信感を抱いた。
「知ってるか知っていないか答えてください」
佐藤は少し尖った口調で訊いてきた。
「あなたはマスコミの方か何かですか?」
藤原の不信感がさらに募る。
「ダイドー事件について知ってますね? しかも深いところまで‥‥」
佐藤は同じ質問を繰り返ししてくる。
「そのことに関しては答える必要性を感じません」
藤原はたしかにダイドー事件について詳しく知っている。神矢から全てを聞いているし、国府や海藤から生々しい事実を直接聞いたのだから。
しかし警察に情報を提供している身として、素性が何もわからない人間に対して答える義理は無い、とそう判断した。
「あら、そう‥‥」
佐藤の目つきが変わった気がした。その目つきから、藤原はどこか冷酷さというか、無機質さというようなものを感じた。
「ご用件はそれだけですか?」
藤原はそう訊いたとき、佐藤は赤いショルダーバックをがさごそと漁り出した。
「であれば今日はもうお引き取りくだ———」(!!)
藤原はこの佐藤という女に不気味さを感じ、追い返そうとした次の瞬間、
シャッ!!
「なっ」
藤原は左下腹部に痛みを感じた。反射的に避けたが、ワイシャツがじわりと血で滲んでいく。
(なんだ!? この女はなにをした!?)
「あら、あなた運がいいのね。もう少し深かったら内蔵が飛び出していたかもね」
佐藤が右手に握っているのはメスだった。医療現場で手術等に使用されるものだ。
「メス‥‥。どうしてそんなものを」
藤原は右手で傷口を押さえた。呼吸が荒くなる。
「あなたを殺すため」
「私を‥‥殺す!?」
「あなた、しらばっくれるのが上手みたいね」
佐藤は冷たい視線を向けてきた。
「なんのことだ!?」
「知ってるんでしょ? ダイドー事件の真相」
「‥‥‥‥」
藤原は黙秘した。
「神矢 行雄。あの男から全て聞いたわよね?」
「っ!?」
藤原は意表を突かれた思いだった。
「あの男も口が軽い。べらべらべらべらべらべらと」
「な‥‥‥」
「神矢はあなたを心底信用していたのかもね。あなたにどうにかしてもらいたかったみたいな、ね」
「神矢さんは今どうしてる!?」
藤原は傷口がズキズキと痛む。
「ふふ‥‥、、、あはははははははは。もうとっくに死んでるよ」
佐藤は口を大きく開けて狂ったように笑いながら言った。
「死んでる!? そ、そんな。あんたが殺したのか!?」
「私が
「あんたは何者なんだ!?」
藤原も目の色が変わった。佐藤を睨みつける。
「あら、おっかない目ね。まだ私が誰だかわからないの?」
佐藤は帽子を脱ぎ捨てた。前髪を分けて、後ろ髪を手でくるくると束ねてみせた。「これならどぉ?」
その容姿を見て、藤原は血の気が引いた。この佐藤という女が誰なのかわかったのだ。
「あ、あんたはっ!」
「やっと思い出してくれた? 遅かったわね」
佐藤はにたっと笑みを零した。
「白都支社の受付の!」
「そう。髪や服装、化粧で女は変わるものよ。でも時間掛かり過ぎ。それじゃあ女にモテないわよ。あはははははははははははははははは」
—―———佐藤。白都支社の受付の女だ。
あの時、藤原は『九頭竜』という変わった名字の受付嬢に話しかけていて、隣にいたもうひとりの受付嬢に全く気にも留めていなかった。たしかに名札に『佐藤』と書いてあったのを見たし、前髪はピンでとめて、後ろ髪をお団子のように束ねていたのを思い出した。佐藤という名字は日本でいちばん多い名字であるのと同時に、容姿も普通だったため、九頭竜に比べてインパクトが薄かったから、思い出すのが困難だったのかもしれない。それに加え見た目を変えてきている。
しかし九頭竜の名字の読み方を間違えた時、佐藤は隣でくすくすと笑っていたっけと、記憶が甦ってきた。
「雰囲気が違うもんだからついね」
藤原は嫌な汗がじんわりと全身に分泌されたのを感じた。
「あなた九頭竜に夢中だったものね。私とは少し目が合っただけだったし」
「ほんの少しだけって、そういう意味だったのか」
「えぇ。間違ってないでしょ? イケメンを殺すのは惜しいけど、仕方ないわよね。あなたは知ってはいけないことまで知っちゃってるし、このまま泳がせておくわけにはいかないの。邪魔なのよあなたは」
佐藤はそう話しながら、オフィスの鍵を閉めた。
「ふっ、警察にはもう情報提供済みだぞ。お前達はもう逃げられない」
「いいわよ別に。このダイドーに関わった警察の人間も殺すだけだから。あなたが思ってる以上にダイドーの闇は深いわよ。誰も止められない」
佐藤は顔色変えずに淡々と話した。
「坂田 廉治郎、だろ? 全て絵をかいてる黒幕は。そいつが捕まるのも時間の問題だ」
藤原が坂田の名を出すと、佐藤の左眉がぴくりと動いた。
「気安くその名を口にしない方がいいわよ」
佐藤は声を低くしてそう言った。
「へぇ。俺には関係ないね」
「ふーん、まぁいいわ。あなたはここで死ぬんだし。でもただ殺すだけじゃつまらないからぁ‥‥、ふふふ、解剖してあなたの内臓をそこのテーブルに並べておいてあげるわ。第一発見者の顔を想像するだけで興奮するしね。あははははははははは」
佐藤はニヤッとしてメスを舌先で舐めた。
「サイコパスかよ‥‥」
藤原はとんでもない女を招き入れてしまったと後悔した。まさか自分が命を狙われるなんて想像すらしてなかった。自分の身は自分で守らないと今日この瞬間に死ぬことになる。死ぬくらいなら手荒にでも抵抗するべきだと思った。
「その言葉、聞き捨てならないわね」
佐藤はメスを振るってきた。
その手首を藤原は両手でがっしり掴み防いだ。
「くっ!」(細いわりに力が強いっ)
とその時、佐藤は空いた左手を拳にして、藤原の
「ぐはぁっ」
藤原は口から唾を吹き出して、その反動で掴んだ手を放してしまった。
シュパッ! 佐藤はメスを大きく振った。
「うぁっ!」
藤原は右頬を切られてしまった。血がプシャッと飛び散り、垂れた血がワイシャツの襟に付着した。
(俺の頸動脈を狙って‥‥)
佐藤はよろけた藤原にさらに切りかかった。
シュパァッ!
「ぐぅあ‥‥」
藤原は背中を斜めに切り裂かれてしまった。ワイシャツがみるみるうちに真っ赤に染まっていく。メスの切れ味は半端なものではない。そのまま壁に寄り掛かったが、耐え難い激痛が走った。
「早く眠っちゃいな。大丈夫、あとは痛くしないから」
佐藤はニコニコしながらコツッ、コツッと近づいてくる。
「はぁ‥‥、はぁ‥‥、はぁ」(痛みで意識が朦朧としてきた。気絶したら最期だぞ、どうする‥‥)
佐藤は早足で近づき、またメスを大きく振るってきた。
パシッ!
藤原は腕をぶんっと振って、そのメスを握る右手を弾き返し、佐藤の顔面を殴り付けた。
「あぁっ!」
佐藤は怯み、後退りする。その隙に藤原はゴルフクラブを一本取り出した。
「正当防衛ということにさせてもらうよ」
そう言って、佐藤に殴りかかろうとしたその時、
ドガンッ!
「ぐふぁっ」
藤原は顎に鈍い痛みが走り目の前が一瞬真っ白になった。ゴルフクラブも手から抜けて吹っ飛んでいき、社員のデスクに飾ってある花瓶にぶつかり床に落ちて割れた。(なにをされた!?)
佐藤は、肩からかけていた赤いショルダーバックを鞭のように振り回して、鞄の部分が藤原の顎下に命中したのだ。そしてグルグルグルと左腕に巻き付けた。
藤原はそのまま仰向けに倒れ込んだ。後頭部から床にぶつけ倒れたときは意識が飛びそうになった。
ドシンッ、
佐藤は倒れた藤原に飛び乗るようにしてまたがってきた。メスを逆手に持ち、藤原の心臓目掛けて突き刺そうとした。
グザッ!!
藤原は咄嗟に左手の掌を前に出し反射的に防御しようとしたが、メスが突き刺さり掌を貫通した。その貫通したメスの切っ先がわずかに藤原の胸に突き刺さった。
「ぐ‥‥、く‥‥」
藤原は今までに経験したことのない痛みに耐えながら、メスを逆手に握る佐藤の手をガシっと掴んだ。左手の握力全てを、メスが心臓に届かないよう防御するために集中させた。
佐藤は追い打ちをかけるように、左腕に巻き付けた鞄を掴み、藤原の顔面目掛けて殴りつけようとしてきたので、藤原は右手で鞄を掴み防御した。
「いつまでもつかしらね」
お互いの両手両腕がぷるぷると震えている。佐藤は圧力を加えていく。
「うっ」
藤原は胸に突き刺さった切っ先がまた数ミリめり込んだような気がした、と同時に背中の痛みも襲ってくる。
「早く解剖させてよ。心臓ってね、とてもきれいなのよ」
「く‥‥」
藤原は痛みで喋ることができなかった。メスが貫通した左手からは血が滴る。
「もう今日は誰もここには来ないの知ってるんだから」
「な、なんで、わかる‥‥」
「藤原さん先月うちの支社に来てから、神矢と直接やり取りするようになったわよね。しかもダイドーの件について。念のためあなたのオフィスをずっと監視させてもらったの」
「‥‥‥来客名簿か」
「そう。調べたら出てくるでしょ。住所。ふふふ、そしたら19時半以降はいつもオフィスはあなただけだった。事務の女も他の社員も大体18時前には帰るでしょ? ただ昨日はあの事務の女がいて驚いたわ。殺そうと思ったけど、ダイドー事件についてあまり知らないみたいだったし、うちらにとっては脅威じゃなさそうだからやめておいたわ」
「だ、だから昨日うちの事務のこに‥‥ダイドー事件について知ってるか訊いたのか」
「そう。でも藤原さん、あなたは違う。邪魔者でしかない」
「おまえら全員狂ってる‥‥」
「侮辱は許さないわよ」
佐藤の目の色が変わった。淡々と話していた時の目はまるで生き生きしていたが、一瞬で冷酷さを秘めたような目になった。
「うっ」
佐藤の力がまた強くなった。このままだとメスが心臓に突き刺さるのも時間の問題である。もう手の感覚が無い。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええっ!!」
佐藤が奇声をあげながら、思いっきり藤原の胸にメスを押し込もうとしたその時、
ガンガン!
カチャリ、
ガチャッ!
鍵が空く音の後、勢いよくオフィスが開いた。佐藤は扉に目を向ける。
林崎だった。
「ちょ、あ、あんたっ!! 何してるの!!」
「なんで‥‥‥」
佐藤は鬼のような形相を林崎に向けた。
「イクちゃん、来ちゃダメだっ!! こいつは殺し屋だ。逃げろぉぉ!!」
藤原は声を振り絞り叫んだ。(え、イクちゃん!? どうして?)
「!?」
佐藤は突き刺してるメスを抜こうとしても、藤原ががっしりと掴んでいるためすぐに抜くことができなかった。
「行かせねーよ」
藤原は読んでいた。佐藤が林崎に襲いかかろうとしてることを。
「離せよぉぉぉぉぉぉおおお!! お前も殺す!!!」
佐藤は林崎に向かってそう叫んだ。
林崎は、その隙に
「あ、もしもし! 警察ですか!? 今すぐ来てください! オフィスに不審者が! えぇ、はいそうです! 事件です! はいっ、うちの社員が血を流してて————」
と、スマホで緊急通報機能を使って警察にすぐに通報した。
「チッ‥‥」
佐藤は舌打ちをして勢いよく藤原の掌からメスを抜き取った。
そしてオフィスの入口にいる林崎に向かってメスを振り回し切りかかった。
「きゃあっ!」
林崎は咄嗟に鞄でうまく身を守った。
「チッ」
と、また舌打ちをして、佐藤はそのまま俊敏な足の早さでオフィスを出て行った。
林崎は大の字で倒れている藤原に目を向けて駆け寄った。
「藤原さん! 大丈夫ですか!? 藤原さん!!」
「うぅ‥‥う」
林崎はなにが起きたのかすぐに理解ができなかった。血だらけのワイシャツ、穴が空いた左手、横に切られた右頬。今にも死にそうな藤原の姿を見て、涙が溢れ出した。
「も、もう‥‥、一体なにがあったっていうの。ひどい‥‥」
「あ‥‥あぁ、イ、イク、ちゃん」
藤原の様態は危険な状態だった。背中からの出血がいちばん酷かった。
「藤原さん、今助けが来ますからねっ」
「あ‥‥あり、がとう」
外からはサイレンの音が聞こえてきた。
第63話へ続く・・・。
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