第10話 不思議な喫茶店のとある一日 ⑨
食後の片付けをしながら、部屋のソファーに座る亜美にちらりと目をやる。亜美は膝の上にスズを乗せ、優しく撫でていた。スズも気を許しているので、体勢を変えたりお腹を向けたりして撫でる場所を無言で指定していた。
片づけを終えると、買い置きのお茶を注いだ二人分のコップを手に亜美の隣へと腰掛け、コップをすぐ近くのテーブルに置いた。
「ありがとう、浩ちゃん。片付けやらなくてごめんね」
「いいよ。それに俺の家なんだから、それくらいは自分でやるさ」
亜美はコップに手を伸ばし、お茶をひとくち飲んでテーブルに戻した。その合間にスズは亜美の膝の上から俺の膝の上へと飛び移ってきて、伸びをしてから丸くなった。亜美もそんなスズを見てつられるように体を伸ばし、大きく息を吐きだした。
「亜美、なんか疲れてる?」
「うん。就活があんま上手くいってなくてねえ」
「今日も面接だったんだっけ?」
「そうだよ。だけど、ちゃんと喋れなかった気がするよ。だから、今回もちょっと自信ない」
亜美はそう愚痴りながら、ソファーの背もたれにぐったりともたれかかった。
「そっか。なんというか、がんばれくらいしか言ってやれなくて悪いな」
そんな俺のポツリとこぼした言葉に亜美は跳ね起きて、俺の顔を真っ直ぐに見つめてくる。
「浩ちゃんは悪くない。がんばれって言ってくれるの力になってるし、今日だって面接前に店に寄ったときにコーヒーで背中を押してくれたし」
「それくらいしかできないからな」
「それでいいんだよ」
励ますつもりが励まされている気さえしてしまう。自分が情けなくなく思えて、下を向くとスズがいつの間にか俺のことを見上げていた。
「ねえ、浩輔。昨日作ってたアレ、亜美にあげたらいいんじゃない?」
「そうだな。すっかり忘れてた。ありがとう、スズ」
「急にどうしたの、浩ちゃん?」
「亜美はスズの相手しててくれ」
スズをひと撫でして、そっと膝の上から下ろして立ち上がる。それから手を洗い、一階のキッチンにスズの言っていたものを取りに降りることにした。
昨日、夜の営業時間に店にやって来たあやかしの客に大量のスイカを貰った。だいたいは店に来ていた他の客に食べてもらったり、ジュースにしてスイカ酎ハイにして振る舞ったりしたのだけれど、それでも使いきれなかった。余った分を後日、美味しく食べれるようにとゼリーにしていたのだ。常連客や身内で食べてもいいと思ったのだけれど、今日はそういうタイミングもなかったうえに明乃さんのことでバタバタしたりと存在をすっかり忘れていた。
一階に降りてくるとフロアから光と楽しそうな声が漏れてきていた。まだ夜の営業は始まってあまり時間が経っていないにも関わらず、それなりに客が入っているのだろう。音を立てないようにキッチンに忍び込み、冷蔵庫から角パットを取りだし、急いで二階へと戻っていく。
二階の自室のキッチンでパットの中で固まっているスイカのゼリーをサラダのとりわけなどに使っている大きめの木製のフォークでざっとかき混ぜまばらにし、器へと盛り付けた。スイカ自体が大味で甘みが強くなかったので、仕上げに砂糖を加え少し甘くしたヨーグルトをソースとして回しかける。
「亜美、食後のデザートにどうぞ」
「なに、これ? キレイだし、美味しそう!」
「スイカのジュレだよ。ソースはヨーグルトだからさっぱりしてると思う」
亜美はスプーンでジュレをすくって、口に入れ、言葉に出さずとも分かるほどに満足そうな表情を浮かべる。亜美は本当に美味しそうに食べてくれるので、作り甲斐というものがある。
亜美はもくもくと食べてあっという間に器を空にした。
「ごちそうさま。本当に美味しかった」
「それはよかったよ」
食べ終わったばかりの器を手に立ち上がり、キッチンの洗い場に置きに行った。ソファーに戻りながら、亜美の顔を見ると表情が明るくなったのが分かる。スズもその変化に気付いたのか安心したように目を細め、亜美の膝の上に座り直していた。
「明日からまたがんばろうって思えるよ。ありがとね、浩ちゃん」
「いえいえ。また辛くなったら、なにか作ってやるよ」
「本当に? でも、美味しいものばかりだと体重が……」
亜美が本気で悩ましい声と表情で言うものだからつい笑ってしまう。亜美は「笑うことないじゃん」と口では言いつつもすぐに一緒になって笑い始めた。笑いの波が収まると、亜美は「じゃあ、元気も出たし、明日も早いからそろそろ帰るね」とスズを下ろして立ち上がった。
スズとアイコンタクトをして、俺も立ち上がる。
「もう暗いし、駅まで送るよ」
「浩輔が行くなら、ウチも付いて行くー!」
「ありがとな、スズ」
スズは勢いよく俺の胸へと飛びついてくるので受け止め、抱きかかえる。亜美もスズに感謝をしつつ、頭をひと撫でした。
それから亜美を最寄りの駅まで送っていき、姿が見えなくなると途端に心細くなる。特に夜は行き交う人々の中にあやかしがどれだけいるのか分からない。あやかしと目を合わすだけでも危険な場合もあるので、普段から外を歩くときは視線を下げる癖がついてしまっている。そのせいで自然に猫背になってしまったわけで。
しかし、今はスズが一緒なので過度に不安になることはない。スズも気を遣ってくれているのか、いつの間にか人間の姿になっていて、そっと手を握ってくれた。スズに視線をやれば、スズは俺を見上げながら笑顔を返してくれる。
軽くなった心でスズと手を繋いだまま、家路へとついた。
街灯や周囲の建物から漏れる光のおかげで明るく、暗さに怯えることはない。深夜になっても点在する街灯だけでも十分明るさを保っているので、この辺りは治安がいい地域だと言われている。
だけど、そういう場所だからこそ、人ならざる者も多くいて、今すれ違った相手がそうかもしれない。もしかすると足元を突然小さいあやかしが通り過ぎるかもしれない。
そんな考え出せばキリがない不安は視えてしまうからこそのもので、初めから視ることが出来なければと思わないわけではないが、視えない世界を想像するというのは難しい。
だから、視えているものだけを頼りに日々を過ごすしかないと思っている。
そんな何度目か分からない決意を心の中であらたにしていると、握っていたスズの手の感触が突然なくなった。
「……スズ?」
呼びかけても返事はなく、さっきまで隣を歩いていたはずのスズの姿はどこにもなく夜の闇かどこかの影へ隠れてしまった様だった。
そこに勢いよく後ろから抱きつかれながら、「浩輔! こんなところで何やってんの?」と声を掛けられた。突然のことで震えあがり、口から心臓が出てきそうな思いだったが、俺に対してそんなことをするのは一人しかおらず、声とノリで誰だかは分かっている。しかし、念のため抱きついてきた腕を振りほどき、正面から顔を確認する。
「姉さん……いきなり抱きつくのは止めてくれよ。心臓に悪い」
「かわいい弟に抱きつくのは姉の特権でしょ?」
「そんな特権ないっての!」
思わず深いため息が出てしまうが、昔からなので慣れてはいる。そして、気が付けば隣から腕を組まれている。
「そういえば、スズちゃんも一緒だったような気がするんだけど?」
「姉さんが構いすぎるから嫌われたんじゃない?」
「そんなあ……」
露骨にがっかりとした表情と態度を見せる。スズも最初こそは我慢していたが、姉さんは愛情を注ぎすぎて逆にストレスを与えてしまうタイプなので、最近では近づくだけでも今みたいにどこかに潜んでしまうのだ。きっと今は街灯の明かりで伸びた俺の影にいるはずで、そこに視線をやるとくりっとした大きな釣り目がこちらを見つめ返していた。
「それで姉さん、ご飯は食べたの?」
「今から浩輔のところに食べに行こうと思ってたところ。何かある?」
「亜美が作ったバンバンジーがちょっとだけ残ってるよ」
「亜美ちゃん来てたんだ。じゃあ、今は送っていった帰りって感じ?」
「そうだよ。あとは昨日仕込んでおいたスイカのジュレくらいしかないよ」
「美味しそうじゃん、それ。なんかシャンパンかワインに合いそうだから、どこかで買っていこうよ」
「どうせ嫌だっていっても意味ないだろうし、分かったよ。でも、この時間にまともな酒売ってるところ開いてるかな?」
スマホで酒屋を検索しつつ、お世話になっている酒関係を仕入れている業者に頼んでも大丈夫かなとか考えを巡らせる。
「そこはきっとなんとかなるでしょ。いや、浩輔なら何とかしてくれるよね?」
「人任せ過ぎない?」
「普段仕事で頼られ過ぎてるから、プライベートでは浩輔に頼ることにしてるの」
「はいはい。姉さん、ここから車で十分くらいのところにまだ開いてる酒屋があるから、とりあえず行ってみる?」
姉さんは頷くより先にタクシーを止めるために手を挙げていた。姉さんに気付かれないように軽くしゃがみ込み、スズに「ありがとう、先に帰ってくれていいから」と小声で声を掛けた。スズはゆっくりとまばたきをして、影の中からも姿を消した。
「何してるの、浩輔? 行くよ」
止めたタクシーの扉に手を掛けながら姉さんが呼びかけてくる。これから遅い時間まで姉さんの相手をしなければならないといけないと思うと、気が重いがそれでも姉さんにはお世話になっているところも大きいので文句は言わない。
こうして今日も一日が終わっていく。
きっとこれからも喫茶『いさか屋』を中心に、人間とあやかしの間で俺は過ごしていく。
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