一番最初の過去の私。@森田薫

 柏木くん、どうしたんだろ。


 少しのジャブで吐くなんて…あんなの初めてだ。えずきながら祈るのもレア過ぎるよ。


 足をパタリと揃えて止まり考える。


 トラウマになる前になんとかしないと。


 いや、もう遅いのかな。


 吐くくらいって事は、何かしら決定的なシーンを見てしまった、と言ってもいいだろう。


 前の周回も、その前だってそんなの無かった。


 姫には三好がいた。柏木くんは気づいてなかったけど、気づかないまま卒業を迎えたけど、私は知っていた。


 と言ってもたまたまだけど。


 ぼっちザぼっちたるこの私は、中学校の敷地はもちろんのこと、この狭い町のあらゆる場所に精通している。


 人気のない、それこそ相引きにちょうど良い場所を。


 だから、あの二人がいたるところでハメハメしてるの、知ってるんだよね、私。


 でもそれは、柏木くんを傷つけちゃうし、ずっと言わなかったけど、まさかこの周回で彼が見ちゃうなんて…


 はぁ…


 せっかくの野良猫さんなのにさぁ。


 ほんと要らないことしたよね。



「ほんとヤになる…」



 吐くってことは、心に傷を深くつけたって事で、そんなの簡単には消えやしない。


 しかもこれが確定したら目も当てられない。


 でも私…なんで涙が出たんだろ。


 手なんて、何十回何百回何千回と触れ合ってるのに。


 それにまだいっぱい時間あるのに。


 なんでだろ。



「森田さん! また健診サボって! 早く来なさい! 先生待ってるから!」


「あはは。すみません…行きます、今行きますから。…もー…まだ大丈夫なのになぁ…」



 この病院独特の匂いを嗅ぐと、遠い昔を思い出すなぁ。


 ねぇ、キンモクセイくん。


 君もそう思わない?





 私が初めてこの病院に担ぎ込まれたのは5才の時だった。


 活発な私はよく公園で駆けっこをし、いろんな遊具で日が暮れるまで遊ぶ、そんな女の子だった。


 住んでいる町の全ての公園に行きたくって、よく両親にねだって連れて行ってもらっていた。


 そして五才になったばかりのある秋の日。


 突然頭に強い痛みを覚えて、呻く間もなく倒れた。


 担ぎ込まれたのは地元の小さな病院だった。そこではわからないからと少し離れた大きな病院に連れて行かれた。


 私の意識は既になかった。


 すぐに緊急手術を行い、奇跡的になんとか一命を取り留めた。


 ぼんやりと目を覚ました私の身体には、いろんな管が刺さっていた。


 後で聞けば、どうやら脳の病気だったらしい。


 そして、そこは隣の町の病院だった。


 後に出会うキンモクセイくんと。


 後に恋する柏木くんのいる町だった。





 緊急入院したまま、二年が過ぎていた。


 暇だろうからと窓際にベタ付けにしてくれたベッドの上で、いつも外を眺めていた。


 私は外にも出歩けなかった。


 上手く身体を動かせなかった。


 日に日に細くなる自分の足が、木みたいにゆっくりと色を失い枯れていくみたいで嫌だった。


 変わり映えのない毎日だった。


 味気のない入院生活だった。


 そんな中、風景だけは違うと気づいた。


 空に太陽に、雲に月に、雨に風に、緑に影に。毎日少しの変化と、大きな変化があるのだと気づいてから、ずっとずっと外を眺めていた。


 駆け回った日々は、痩せ細ったこの身体では、もう想像することも出来なかった。


 心配してくれている両親にあたることもしなくなっていた。


 読みたい本も、もうなかった。


 だからひたすら外を眺めていた。


 その中で、目にした変化。


 枯れていく木々だ。


 それを見ると、なんだか胸が騒ついた。


 自分のようで、騒ついた。


 でも、枯れない木も見つけていた。


 ぽつんと一本だけの木だった。


 不思議なことに、秋になると、山吹色の花を咲かせていた。


 木のような花だった。


 病室からは花束のようにも見えた。


 まるで私の誕生日を大きくお祝いしてくれてるみたいだった。





 ある時、看護師のお姉さんがいい香りのする花のついた枝を持って来てくれた。


 イケメンからよ、なんて冗談を言って渡された。


 それは山吹色の綺麗な花が咲いた枝だった。


 小さなバッテンみたいな、そんな花びらの可愛い花だった。


 甘い優しい香りが鼻の奥へ突き抜け、すぐに好きになった。


 そしてそれは窓から眺めていた、あのぽつんとしていた木の枝だった。


 動けない私と、あの公園にぽつんといる木。


 イケメンなんて言われたからだろうか。


 その枝が、なぜか手のような、腕のような、そんな感じに思えてしまった。


 痛かったかな。


 でも素敵な香りをありがとう。


 私も何かお返ししたいけれど、直接お礼を言いたいけれど、怖くて出れないんだ、私。


 外に出た瞬間朽ち果てそうで、怖くてたまらないんだ。





 そのイケメンくんは、どうやらキンモクセイというらしい。


 その花が咲く期間はわずか一週間程で、しかも風が吹いたり雨が降ったりするとすぐに散ってしまうと看護師のお姉さんは笑いながら言った。


 風の日も雨の日も泥んこになって遊んでいた私は、今はもう動けない。


 仲の良かったお友達も、もう病院には訪ねてこない。


 なんだか同じだね、なんて思って、それからはずっとずっと眺めていた。


 そして秋がずっとずっと待ち遠しくなった。


 友達の来ない誕生日会なんて、嫌いになってたのに、待ち遠しくなった。





 病室に訪れる人は、みんなこの彼の香りが好きになる。


 綺麗だね、なんて彼の花を誉めてくれる。


 なんだか嬉しかった。


 ただ、私だけが知っていることがあった。


 彼が一番綺麗なのは、雲のない秋の夜だと言うことを。


 月明かりを浴びたせいか、街灯にお化粧されたせいか、ガラス窓に透過したせいか、非常灯と混ざり合ったせいか。


 何故か銀色に見える時が一日だけあった。


 それは夜更かしする秋の夜長の一週間。


 その内のたった一日だけの私と彼の秘密だった。





 10才になったばかりのある秋の日。


 私の病状が悪化した。


 まだ咲かないかなと心待ちにしていたのに、すぐに県外の病院に移された。


 どうやら相当悪いらしい。


 その時にはもう覚悟だけはしていた。だから自分の身体なんかより、あのキンモクセイくんと離れたくなかった。また会いたかった。


 だからその一心で、手術に耐えようと思った。絶対生きて帰ってまた話そうって決めた。





 すぐに手術は始まった。


 私は麻酔の海の中を漂った。


 不思議とぼんやりとした意識があり、漂っていた。


 そこで不思議と出会った。


 金色のキンモクセイくんと出会った。


 枝振り、幹の太さ、姿形、何度も何度も見たからわかる。


 彼とずっとお喋りしていたからわかる。


 だからキンモクセイくんと呼んだ。


 そしたら彼が、返事の代わりとばかりに不思議な露をくれた。


 わわっと驚き、両の手のひらでお皿を作って受け止めた。


 とても透き通っていて、キラキラしていて、お日様みたいな色の露だった。


 私はそれを一口飲んだ。


 そして一気に飲み干した。


 とても美味しい味がした。


 気づくとキンモクセイくんは、いなくなっていた。


 見渡しても大声で呼んでもいなかった。


 そして、ふっと鼻に抜ける優しい彼の香りがした。


 彼は、私にさよならと言った気がした。





 目が覚めるとどうやら一か月は経っていたらしい。


 そして奇跡が起こった。


 身体が思い通り動く。


 嘘のように軽かった。


 お医者様もびっくりしていた。


 両親も涙を流して喜んでくれた。


 だけど私は、どこか不安だった。


 早る気持ちを抑えながら、お医者様の言うことをまじめに聞いた。


 言う通りに身体の回復に努めた。


 そして一月ほど入院し、またあの病院に戻った。


 風と雨の強い日だった。


 そこにキンモクセイくんの姿はなかった。


 元気な姿はなかった。


 無残にも、引き倒されて朽ちていたのだ。





 どうやら、あのキンモクセイくんは、成長が著しく遅く、最初に計画された通りには大きくならなかったようで、処分されたと聞いた。


 何とも言えない喪失感でいっぱいだった。


 だけど、そこから身体は薄紙をはぐようにだけど、回復していった。


 お医者様が言うには、リハビリを頑張れば、中学から学校に行けるそうだ。


 私は頑張った。


 あのキンモクセイくんが救ってくれたんだと思った。


 入院中は、何度も何度も、彼の居た跡地に行ってお喋りした。


 もう外は怖くなくなっていた。


 まだ彼がここにいる気がして、話かけた。


 それから数ヶ月立ち、彼はもう居ないんだなと心が納得した頃、私は無事退院した。


 私のために病院のあるこの町に越してくれた両親に無理を行って、生まれ育った地元に戻った。





 元いた地元に戻り、中学に進学したわたしは昔の友人に再び会った。


 変わった子、変わらない子、いろいろ居たけど、入院が長かったせいか、元のようには話せなかった。


 ならばと、昔みたいに走りたくて、陸上部に入った。


 雨の日も、風の日も、毎日燃え尽きるまで頑張った。


 両親に心配をかけながらも、長い入院生活の中で作ったやりたい事リスト。それを埋めるかのように、部活に勉強に遊びに、一生懸命頑張った。


 人並みに恋もしてみたかったけど、キンモクセイくんが忘れられなかった。


 彼と会話したのは全て私の都合の良い想像だったけど、片時も忘れたことはなかった。


 そして希望高校にも受かり、部活仲間とともに喜んだ。


 10年後に開けるというタイムカプセルにはキンモクセイくんのことを書いた。


 彼にもう一度会いたかったから。


 彼ともう一度話したかったから。


 感謝と願いを持って、封をした。



 そして中学生活最後の日。


 卒業式の帰り道。


 わたしはフラッと倒れ、呆気なく死んだ。


 五才の時と同じ痛みだった。


 だから病気が再発したのだと、混濁する意識の中、朧げながらに思った。


 そして死の間際。


 何故か懐かしくも優しい、彼の香りがした。

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