ー幕間ー 従者はもどかしさに身悶える

 キッチンに入ると、廊下まで漂っていた甘い香りに混じって、レモンの清香が鼻孔をくすぐった。

ユーゴは目を閉じて芳香を胸いっぱいに吸い込む。

『今日のお菓子はウィークエンドシトロンか。今日は週末。ぴったりのお菓子だ』

 そのお菓子に込められたフェリシアの気持ちを感じ取り、ユーゴは自然と笑顔になった。


「おはようございます。フェリシア様」

 ユーゴが声を掛けると、作業に熱中していたフェリシアが振り向いた。

「ユーゴさん、おはようございます」

 ヨアンでなくても一瞬で心を奪われてしまいそうな眩い笑顔。朝から眼福だ。ユーゴは心の中でヨアンの気持ちに深く同意する。


 先日、十数年ぶりに訪れた王城から帰って以来、ヨアンは昼夜問わず使い魔を飛ばして、フェリシアに害成す者たちの動向を探っている。幼少の頃からたゆまぬ鍛錬を重ねてきたとはいえ、さすがにその表情に疲れが見えることもあった。ユーゴにできることは身の回りの世話だけなのが歯痒いが、これまでと大きく異なるのは、フェリシアがこの城にいることだ。

 自分のために魔力を使うヨアンを気遣い、フェリシアは毎日お菓子を手ずから用意して、お茶を入れている。

『ヨアン様のためにお菓子を用意するのは、フェリシア様が城にいらしてすぐからの習慣ではあったが、最近は一層力が入っているように感じる。有名店の味にも引けを取らないばかりか、ヨアン様の好みや体調に合わせて調整までされている。今まで自分が森から出て調達してきていた有名店のものなど、もうヨアン様は口にされないのではないだろうか』

 ユーゴは手際よく作業を進めるフェリシアの様子を眺めながら、ヨアンの嬉しそうな表情を思い浮かべていた。


『しかも、フェリシア様はこちらも並の職人以上の腕前である刺繍を、ヨアン様の持ち物ほぼすべてに施されている。この刺繍が、美しいだけでなく身に着けていると癒されるという素晴らしさ。お菓子と刺繍による癒しによって、今のヨアン様の魔力と体調は保たれていると言っても過言ではない』

 二年前はフェリシアを助けるために魔力を酷使し過ぎて倒れたヨアンだったが、今回はそのような心配は必要なさそうだ。


「ユーゴさん、お味見願えますか?」

 切り分けられたウィークエンドシトロンの皿がユーゴの前に差し出された。ヨアンに出す前にいつもユーゴが味見をしているせいか、ユーゴの体調もこのところすごぶる良好だった。恩恵にあずかれて光栄だ、としみじみ思いながら、ユーゴは皿を受け取った。


「いただきます」

 しゃりっとした心地良いアイシングの食感に続き、レモンの爽やかな香りが広がる。生地はしっとりとしていながら軽めで、さっぱりといただける。きっとヨアン様の体調を気遣って、軽めの仕上がりにしているのだろう。

「大変美味しゅうございます。ヨアン様もお喜びになるでしょう」

 感想を伝えると、フェリシア様のお顔がふわっと安心したようにほころび、白磁の頬がうっすら薔薇色に染まる。

「よかった。ありがとうございます」

『──本当に天使のような方だ』


 ヨアンがダイニングに入る気配を感じたユーゴは、朝食が必要かうかがいに向かう。もっとも、ヨアンはここのところ魔力を酷使しているせいか、もっぱら朝は遅く、朝食代わりにフェリシアが作ったお菓子を食べることがほとんどだ。魔力はそれで回復するようだが、栄養が偏るのではとフェリシアも強く案じているので、ユーゴはその分昼食と夕食に気を配っていた。

「おはようございます。ヨアン様」

 まだぼんやりした表情のまま椅子に座るヨアン様に声を掛ける。

「ああ、おはようユーゴ。フェリシアは?」

 本当にフェリシアのことしか頭にないようなその返答に、ユーゴの表情も緩む。

「ヨアン様にお菓子をご用意されていらっしゃいますよ。朝食はいかがなさいますか?」

「フェリシアのお菓子がいい」

 食い気味の返事に苦笑しながら答える。

「承知いたしました。昼食と夕食はきちんと取っていただきますよ」


 フェリシアがウィークエンドシトロンとお茶を携えてダイニングに入ってくると、ヨアン様の瞳が輝いた。

「フェリシア、おはよう。いつもありがとう」

 先程までの眠そうな様子もどこ吹く風、比類なき美しさを存分に発揮して言う。

「おはようございます。ヨアン様。よく眠れましたか?」

 慈愛のなかに甘さが入り混じった表情のフェリシアもまた、得も言われぬ美しさだ。

 この世の賛美の言葉はすべて手中にあるかのような二人が、はにかみながら見つめ合っている様子を眺めていると、ユーゴはなんとももどかしい気持ちになる。

『ヨアン様、早く気持ちを伝えてしまえばいいのに。絶対にフェリシア様もヨアン様のこと好きだろ』

 従者としてではなく、幼い頃から一緒に育ってきた乳兄弟の自分が顔を出しそうになる。

 ぐっとそんな自分を押さえつけながら、ユーゴは二人を遠巻きに見守った。


「フェリシアのお菓子を食べると、いつも癒される。癒しの力が身体に漲るのを感じる」

 ウィークエンドシトロンをあっという間に完食し、満足げに紅茶を飲みながら、ヨアンが言った。

「私の力は微々たるもので…。ヨアン様が私たちのために尽力してくださっているのに、こんなことしかできなくて…。本当に申し訳ございません」

「こんなことであるものか。どれほど俺がフェリシアに救われているか」

「でも、毎晩遅くまでお務めも果たされながら、使い魔さんたちに力も注がれて…」


 フェリシアは、自分を狙う者たちの罪を暴くためにヨアンが多大な魔力を使っていることに、余程負い目を感じているようだ。

『それならば…』

 ユーゴは一計を案じて口を開いた。

「フェリシア様、差し出がましいことを申し上げますが、どうかお許しください。ヨアン様の入浴の後、癒しのお力を注いでいただくことはできますでしょうか?」

 ヨアンがぶんっと音が聞こえそうなほどの勢いで、ユーゴの方に振り向いた。

「実は、私が毎夜、ヨアン様の入浴後に肩、首、頭などをマッサージさせていただいているのですが、それをフェリシア様にしていただけたなら、ヨアン様のお疲れもさぞ癒されるのではと思いまして」

 ヨアンは、ユーゴは一体何を言い出すんだ!いや、フェリシアにやってもらえたらそりゃあ嬉しいけれど!とでも言いたそうな視線をユーゴに送っている。


 フェリシアは、真っ赤になって俯いていたが、やがて小さな声で言った。

「私などが、ヨアン様に触れてよろしいのでしたら…。あまり効果はないかもしれませんが、少しでもお役に立ちたいです…」

 ユーゴは内心ガッツポーズを決める。

『グッジョブ、ユーゴ』

 ヨアンからも、同様の気配を感じ取った。


 ダイニングを出ていくヨアンに、ユーゴがそっと耳打ちする。

「ウィークエンドシトロンの意味、ご存知ですよね?」

「意味?」

「大切な人と過ごす週末に、一緒にいただくケーキなのですよ」

「──っ」

 大切な人、に反応して、ヨアンの耳が赤くなった。

『こんな大きななりをして、可愛いお方だ』


 この週末から、ヨアンとフェリシアに新たな日課が加わった。

『ものすごく照れながらも、そっと癒しの力を込めてマッサージをするフェリシア様に、どろどろにとろけそうな表情でフェリシア様に触れられているヨアン様の顔が見えていないことを祈ろう。そして願わくば、決戦の日の後も、この二人の時間が続くことを──』

 ユーゴはソファで真っ赤になっている二人の姿を微笑ましく見つめ、そっとリビングルームを後にした。

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