第2話 黄色い嘘
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当校の野球部が注目されるようになったのは、去年の秋季大会のことだ。エースの藤井くんが甲子園常連校を僅か1失点で抑えたことに始まる。藤井くんは、小柄で痩身である。なんなら他の部員と比べると頼りないくらいに線が細い。しかし、サイドスローから投じられる投球は強烈な横回転が掛かり独特の変化を生み出す。強豪校がこぞって、手が出ない、バットが空振るのだから、藤井くんの球が凄いことは誰でもわかる。私のような野球がさっぱりわからない普通の女子にも理解できる。試合そのものは守備のエラーが絡んで2対1で敗北したが、プロのスカウトからは否応にも注目することになった。
そんな野球部のエース藤井くんが大怪我をしたとなれば、学内は騒然とするものであった。
●
定例会議はどこまでの退屈だ。意味があるのかわからない。風紀委員は隔週で集まって情報交換をしている。主に素行の悪い生徒を炙り出して、情報を共有したり、今後の大まかな活動を決めたりと、忙しい。おそらく他校で、ここまでの活動はしていないと断言できるくらいに、当校の風紀委員は活発だ。とは言え、不毛なやりとりであることは否めない。貴重な意見が飛び交うかと問われるとそうではなかった。
だけど、あの人が言葉を発するだけで、場が華やぐ。黒い艶やかな髪。顔のパーツはどれもバランスのいい位置に配置されている。端正な顔立ちと言えるが、彼女の機械的な振る舞いもあって、その容姿が造られたものに思えた。風紀委員のエースである愛木さんが、一通り発言を終えると、誰もが頷く。私も内容はわからなかったけど、賛成だ。ここだけの話だが、私は愛木さんにお近づきになりたくて、風紀委員となった。愛木先輩を「先輩」とナチュラルに呼べる立ち位置となり、仲良くなれるチャンスがグッと近づける。そう思うと、自然と立候補をしていた。定例会議を終えると、私は周囲の様子を観察しながら、辞去の準備をする。
「野原さん。この間はありがとうね」
「はい!! そんな大したことじゃありゃません」
愛木先輩に話しかけられて、私の舌は途端に頼りがいがなくなる。コミュケーションをする上で舌が使えなくなるのは、とても良くない。
「今日も元気そうね」
「そ、そうでしょうか!」
「ええ。私に少しばかり元気を分けて欲しいくらいよ」
なんて簡単な会話をしたと思うが、あんまり覚えてない。緊張のあまりに真っ白になった。あんなに幸福な時間を覚えてないなんて私ってなんてダメなんだろう。まあ、これから何度でも話す機会があると、思えば楽観視はできる。
下校するつもりだったが自転車の鍵を教室に忘れたことを思い出した。普段は制服のポケットに入れているのに、今日は何となく机に入れたことをすっかり忘れていた。
校舎に戻って、教室に向かう。外階段から教室に向かうのが早い。3階の踊り場を曲がって校舎に進むと、同じクラスの柊木さんが歩いてた。ちょうど教室から出ていく感じだった。
「柊木さんじゃん。今帰り?」
「う、うん」
柊木さんは小柄で女の子って感じで羨ましい。少し困ったような顔がまた可愛い。
「もしかして教室の鍵を持ってる?」
「ううん。多分まだ空いてるよ」
教室の施錠はまだされていない。これは運が良かった。時々とても早い時間に施錠されることがあって、わざわざ職員室に取りに行くと、とても嫌な顔をしながら、とても怒られてしまう。
「そっか。ありがとうね」
「それじゃあ。私は帰ります」
これは柊木さんと仲良くするチャンスと思ったが、柊木さんは、早歩きで立ち去ってしまった。急いでるのかな?次のチャンスは見逃さないようにしなくては。
望みの物を手に入れた私は、早々に立ち去る。流石に何にもやることはないと思いながら、誰もいない教室を堪能させてもらった。と言っても、教壇に立っただけだ。外階段に向かうと扉は施錠されていた。クレセント錠を解錠して私は外に出た。下に降りていくと、蹲っている人がいた。私は反射的に声をかける。誰かと思えば藤井くんだった、野球部のエースであるあの藤井くんだ。
●
「え!? それ本当?」
「本当。階段から転がり落ちたって聞いたよ」
「藤井くんは大丈夫なの?」
「それが……元々調子が悪かった膝が悪化して、しばらくは投げられないみたい」
怪我をしている藤井くんを見かけた私は、大急ぎで野球部の関係者を探して連れてきた。しばらく見守っていたが、顧問の先生に担がれて、病院に連れて行かれる藤井くんを見届けてから下校した。あたりはすっかり暗くなっていた。大丈夫だろうかと心配していたが、どうにも野球はできなくなったようだ。よっぽど大きな怪我だったんだろう。自分のことのように、暗い気持ちになる。野球部が早朝から毎日のように練習して、土日も休んでないことを私は知っていた。なかには県外から野球をする環境を求めて入学する生徒もいる。だから今回の事故が野球部にとって、特に藤井くんには辛いことだろう。その精神的な苦悩は考えることは難しい。
今日の議題には野球部のことが挙がった。挙がったと言っても事故なのだから、私たちが何かをする必要はないだろう。しかし当校の風紀委員は違う。あの愛木先輩がいるのだ。何かしからのアクションを起こすことは間違いない。とは言え、上位組織である生徒会が「ノー」と言えば活動は自粛しなければならない。なんとも煩わしいものだ。
定例会議が終わった後に、私は運動場に寄ってみた。野球部はいつものように練習に勤しんでいる。立派なものだ。しばらく眺めていると、松葉杖をつく痛々しい坊主頭が横に並んでいることに気づいた。坊主頭でも彫りの濃い顔立ち、しなやかな体躯、爽やかな性格なので女子人気が高い。スポーツマンにしては、汗の匂いがしない。制汗剤だろうか? とても清潔感のある匂いがする。藤井くんは悲しげに運動場を見ていた。そんな気がした。
「野原さん? 昨日はありがとう」
「いいえ。全然大したことないですよ。当然のことをしただけです」
「そっか。頼もしいな。さすがは風紀委員」
「そんなことはないです」
「謙遜だな」
私の中に浮かんだのは愛木先輩だった。あの人に比べたら私なんて、一般人である。モブキャラだ。
「礼が言えたのは良かった。最初は野次馬かと思ったから、気づいてないフリをしていたんだ。自意識過剰になってまってな。あと少しで恩人を無視するところだった。すまん」
藤井くんは指先で頭を掻いた。その仕草は恥ずかしさを表しているのだろうけど、藤井くんの場合は自意識過剰なんてことはないだろう。プロから注目を浴びている人材が、松葉杖をついていたら、なおのこと目立つ。彼の立場なら、好奇な視線に晒されるのは当然のことだと思う。
「どうして謝るの? 藤井くんが大変なのはみんな知ってることだよ」と私は藤井くんの気持ちを尊重したつもりだったけど、当の藤井くんは複雑そうな顔色をした。それは嫌悪みたいなマイナスなイメージを浮かべさせた。
「派手にやっち待ったよ。階段で転んだんだ。一人でいたから君が偶然通りかかったのは運が良かったよ」
「そう聞いたけど、本当なの? 今だに信じられない」
ずば抜けた運動神経の持ち主が階段を踏み外したなんて、どうにも信じられない。けど本人がそう言うのなら真実なのだろう。
「まぬけなんだよ。必死こいて練習して、チームの誰よりも速い球が投げられても、簡単なことができないんだぜ。笑っちまうよ」
「笑うなんて」
自暴自棄になってるのかと思うと、私もなんだか悲しくなる。
「毎日のように降りるあの階段だ」と藤井くんは指を向ける。その先には校舎からグラウンドと体育館を結ぶ外階段があった。年季の入った階段で、雨風によって白い塗装がハゲて、所々コンクリートが剥き出しになっている。私が見つけたのは校舎側の3階の踊り場だった。
「嫌になるよ」
その藤井くんの言葉が虚しげで、かけるべき言葉を失った。
●
どうしてか藤井くんが気になる。昨日の放課後に話した内容や、その時に彼が見せた表情。世間を注目させる運動能力を可能とした肉体。それを作り上げた精神でさえも、弱さを見せてる。そう思うと行動を起こしていた。
放課後になると私は、藤井くんが怪我をした現場に向かった。階段からの景観は、運動場がよく見えて夕焼けが綺麗である。もしかしてこの景観に見惚れて、階段を踏み外したのだろうか。そんなわけはないだろうけど。
「野原さんじゃない。何してるの?」
「あ、あ愛木先輩ではないですか!! 何をしてるんですか」
階段を上がってきたのは愛木先輩だった。まさかの展開に私のIQが著しく低下していく。だって、心の準備が。
「私が質問をしたのだけれど。相変わらず野原さんは元気そうね。元気溌剌な声で羨ましい」
「そんなことはないですよ」
私からしたら愛木先輩の儚げな雰囲気がとてもかっこ良く映っているし憧れる。簡単に模範できることではない。天性の才能であると私は思ってる。
「ところで昨日はご苦労様ね。藤井くんを助けたのは野原さんなんでしょ。立派ね」
「えー。そんなことはないですよ」と口にはしているが、多分私はめっちゃくちゃニヤニヤしている。感情がここまで溢れ出すなんてことは、なかなかない。幸福とはこのことだろう。
「ところでだけど。ここで事故があったのよね?」
「そうです。ちょうどここで藤井くんが膝を抑えて、もがいてました」と私は指を指して、愛木先輩に伝わるように努力した。
「そう。ここでね」
愛木先輩は顎に指をそえる。何だか探偵のようだ。しばらく愛木先輩は静かに佇んでいた。体感で5分くらい経過したので、私は我慢ならなくて「どうかしたんですか?」と聞いてしまった。愛木先輩の思考を邪魔したことに、悔やむ思いが押し寄せた。
「転んだって本当なのかなって?」
「え、どうしてですか?」
「転んだんなら足を痛めるだけで済んで良かったと思っただけよ。頭を強打したり、首や肩を痛めてなかったのかなって?」
どうしてそんなことを聞くのだろう。藤井くんは踊り場で蹲っていたし、本人も転んだと私に説明していたんだけど。私は藤井くんの事故現場と、先刻に藤井くんの証言を愛木先輩に伝えた。それと私が藤井くんを見つけるまでの行動も話した。忘れ物を取りに行く途中で、柊木さんに出会ったことも。
「ふーん。そうなんだ」と納得したとは言いがたい様子の愛木先輩は、うんうんと何度も頷く。藤井先輩の事故に隠された秘密があると疑っているのだろうか。愛木先輩が、誰よりも目敏いことは私は知ってる。愛木先輩は入学当初から幾度も学校の事件を解決してきたと言われてる。以前にもバス運転手の事件の秘密を暴いたと噂が流れた。きっと今回も藤井くんの事故に違和感を感じたのかも知れない。私は胸の高鳴りを感じた。
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点が線となって飛んでいく。全身で表現する投球は、ある種の芸術であった。これだけの投球をする下級生でも、二番手の投手だとすると、藤井くんはどれだけ凄いのだろう。藤井くんの投球で、私が一番驚いたのは、横投げから投じられた変化球であった。思わず「え?」と驚嘆の声を上げた。あの速度であんなに変化させるなんてどうなってるのだろう。物理的に不可能じゃない?
「キャッチャーの飯田くんに話を聞いてみましょう」
キャッチャーとは何を指すのかわからなかったが、飯田くんはわかる。愛木さんについていくと、甲冑みたいな防具を着ている子に近づいていく。頭部のプロテクターを外すれると、飯田くんだとわかった。
「愛木さん? 何しに来たんだよ。今は練習中なんだけど」
「そんな露骨に嫌がらないでよ」
「嫌がってはない」
私から見ても飯田くんは嫌悪が表情に現れている。風紀委員の愛木先輩は校内で警察みたいな印象もあるから、仕方ない反応だと思う。
「それで俺になんのようだ。練習中なんだけど」
「最近の藤井くんの調子はどうだったのかと思って」
「絶好調だったと思うけど」
「練習量が減ったとか、増えたとかないの?」
「いいやないな」
「ウエイトトレーニングとかは?」
「そう言えば、ウエイトトレーニングを取り得れてから急激に伸びたのもあったみたいで、2年になってからは筋トレに力を入れてるよ。最近も体作りに専念していたよ。夏を乗り切る肉体は大事だからて。そもそもなんでそんなことは聞くんだよ。いちいち掘り返すな。藤井は誰よりも頑張ってきたんだ。一番辛いのはあいつ自身なんだよ。外野は黙っていてくれ」
飯田くんの怒りはごもっともに思えた。私は愛木先輩の腕を引いて、辞去することにした。例の事故現場に近づくと、私は周囲を確認してから愛木先輩に自制するように言った。反応から察するに私の言葉は愛木先輩には響いてないようだった。そもそも私が愛木先輩を注意するなんておこがましい以外なにものでもない。すみません。
「あの……風紀委員の愛木さんですよね」
振り返ると汚れたユニフォームを着た坊主頭の下級生が、ペコペコしていた。
「そうだけど、どうしたの?」
「実は藤井先輩について相談したいことがあって」
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