第5話
事務所にはダンスや歌の練習をするためのレッスン室が二つある。一つは三階、もう一つは地下にあり、週明けの月曜日、風眞たちが呼びだされたのは後者の方だった。
こういった部屋の存在は知っていたが、足を踏み入れることはないと思っていた。フローリングの床は明かりを反射してまばゆく輝き、入った瞬間に目がちかちかする。しかしれそれは風眞だけのようで、他の三人はうきうきとした足取りで入っていった。
「お疲れさま」聞き覚えのある声に出迎えられ、顔を上げれば、部屋の中央に所長が立っている。やあ、と片手をあげて微笑む姿は気安い。「学校のあとに呼びだしてごめんね」
「いえ、別に。月曜日なんでそんなに疲れてませんし」
「ふふ、そう。なら良かった。とりあえずみんな、僕の前に座ってくれる? これからのレッスンについて話したいんだ」
「スケジュールが決まったんですか?」
「あれ、でも詳しいことはマネージャー通じて風眞先輩に連絡するて言うてませんでしたっけ?」
風眞が感じていた疑問を、麻黄耶が素直に口にする。きょとんと首を傾げる彼に、所長はくすくすと肩を揺らす。
「そのつもりだったんだけどね。教える側の人が、レッスンを始める前に君たちのレベルがどれくらいか見ておきたいってうるさくて。あ、ちょうど来た」
騒々しく扉が開き、びくりと風眞の肩が跳ねる。反射的に振り返ると、見知らぬ男がレッスン室に入ってくるところだった。
なんとなくガラが悪そうな男だ。山吹色に染まった髪はつんと整えられ、少し垂れ気味の眦は穏やかそうなのに、眉間にしわが寄っているせいで目つきが悪く見える。扉を開けた時の騒がしさと違い、彼は音もなく歩いて所長の隣に並んだ。
誰だこいつ、と思いつつ、静珂たちを横目で見やる。
風眞と似たような反応を示しているのは那央だけで、静珂と麻黄耶は目を輝かせていた。ということは、そこそこ有名人なのだろう。睨まれたりしないかと恐る恐る男に目を向けて、ふとなにかが引っかかった。
――なんかこの人、どこかで見たことあるような。
「扉くらい静かに開けられないんですか。学生の子たちがびっくりしてるでしょう」
「うるせえな。勢いがついちまったんだから仕方ねえだろ」
「ああ、また『押すんだか引くんだかどっちだ』って迷って適当に押したら開いた感じですね」
「テメエ次それ言ったら殴るぞ」
――どういう関係なんだ、この二人。
所長が丁寧に話しかけるということは外部の人間だろうか。いや、丁寧に思えて、よく聞けばからかっているような響きもある。慣れたやり取りなのか、男に嫌悪感は無さそうだけれど、面倒くさいと思っていそうなのは表情から見て取れた。
「なあ、
「お前さあ、自分が所属してる事務所の副所長の顔すら覚えてないわけ?」
「副所長?」
あの不良じみた男が事務所のナンバーツーなのか。所長とはよく顔を合わせるために否応なく覚えるが、副所長とはこれまで会話をした記憶が無い。道理で覚えていないはずだと自分を納得させていれば、静珂は呆れた様子でさらに続ける。
「うちに雷モチーフの〝
「はた……えっ、マジで?」
にわかには信じがたく、思わず副所長を二度見してしまう。
霹靂神の動画を見た数はそれほど多くないが、迫力のあるステージが記憶に残っていた。しかしメイクも衣装も違うせいで、受ける印象がまるで違う。ライブでは照明の影響もあるし、ひと目で霹靂神であると気が付けなかった。呆れられるのも無理はない。
「声もなんか厳つくねえか。歌ってる時はもうちょっと高めだったような」
「地声と歌声で違うのなんてよくあるよ。副所長はそのへんかなり変わるタイプだし」
「そういうもんか。……で、なんで事務所のツートップがそろい踏みしてんだよ」
「話の流れから考えて、多分、」
「そこ、なにひそひそしてやがる」
どうやら風眞たちの声が耳に入っていたらしい。不愉快げにじろりと睨みつけられ、二人は口をつぐみ背筋を伸ばした。
所長はどこから取り出したのか、クリップでまとめた書類を副所長に渡す。彼はそれをめくりつつ、四人の顔を順に確認してくる。各々のプロフィールでも記してあるらしい。ざっと目を通すまでの間、妙な緊張感がレッスン室に漂っていた。
「だいたいの経歴は分かった」と副所長は書類を所長につき返し、威圧的に腕を組む。「とりあえずお前ら、今から順番に歌え」
「えっ」
「『えっ』じゃねえよ。なに戸惑ってんだ」
「『まずはみんなの歌唱力を把握したい』って一言が抜けてるからですよ」
所長が肩をすくめながら言えば、副所長はどことなく居心地が悪そうにふんと鼻を鳴らす。言葉が足りていない自覚はあったのか。
「ちょ、ちょっと待ってください。歌唱力を把握したいって、なんで」
「ボクたちの歌を指導してくれるのが副所長ってことだからじゃない?」
風眞の疑問に答えたのは所長たちではなく静珂だ。その声はどことなく明るく、副所長が「そういうことだ」とうなずいた直後にはより一層目を輝かせていた。麻黄耶も両手でガッツポーズを作り、那央はいまいち分かっていなさそうながらもぱちぱちと手を叩いている。
――現役トップレベルの副所長が、アイドルになるって決まったばっかりの
――所長はそれだけ俺たちに力を入れてる、これから伸びるって期待してるのか。
考えながら所長を見れば、視線に感づいたのか目が合った。
不安か困惑か、自分はどんな表情をしていたのだろう。彼にふわりと微笑みかけられ、なんとなく顔をそらしてしまった。
予定があるから、と所長は出て行ってしまい、レッスン室には四人と副所長だけが残される。彼は床にあぐらで座ると、パーカーのポケットからスマホを取り出した。
「んじゃ、まずは右の眠そうな奴からだ」
眠そうな奴、と指をさされたのは那央だ。
「音源は俺が流す。曲名は?」
「んー、どうしようかなぁ」
ゆるゆると立ち上がりつつ、那央が提示したのは最近公開されたアニメ映画の主題歌だった。サビ部分はCMなどでよく流れているため、風眞も聞いたことがある。かなりアップテンポで早口になる部分もあるが、のんびりとしている那央に歌えるのだろうか。
心配は杞憂だったと、すぐに思い知らされた。
スピードに置いていかれることなく、歌詞を滑らかに紡いでいる。普段の那央からは想像もつかないほどで、高らかな歌声は透き通っていて雑味が無い。音も外れていないし、カラオケに行けば間違いなく九十点以上を叩きだしているだろう。
――だから善利はこいつをユニットに引き入れたのか。
幼なじみで仲が良いという理由だけで加えたのではない。彼の実力を知っていたからこそ、静珂は那央を招き入れたのだ。
伸びやかに一曲歌い終えると、那央はへらりと副所長に笑いかけた。
「こんな感じでいいですかぁ?」
「おう。じゃあ次。横の小さいの」
指名されたのは静珂だ。小さいのと称されたことには多少むっとしていたが、間違っていないため否定も出来ず――なにせ四人の中で一番背が低い――素直に立ち上がっていた。
静珂が歌ったのは風眞の知らない曲だった。あとで聞いたところ、とあるミュージカルの定番ナンバーだという。高音が少し苦しそうであったものの、特に下手とは思えない。那央のあとに聞くとどうしても霞んでしまうのだ。
次は風眞だ。人前で歌うなんて、音楽の授業以外でしたことがない。カラオケも一人で行く派である。
同級生や後輩だけでなく現役アイドル、それも副所長の前で歌うなんて、恥ずかしさと緊張でどうにかなりそうだった。声が何度か裏返ったし、音程も外した。お世辞にも上手いとは言えない。それでもなんとか歌いきり、マラソンを走り終えた後のような疲労感で座りこむ。
「ほんなら最後はオレやな!」
副所長に指名されるより早く、麻黄耶が意気揚々と立ち上がる。片手には以前も見かけた魔法少女の杖を握っていた。
「『あなたのココロにハートマッスルチョップ!』歌います!」
「なんだその曲名」
「魔法少女ポリアンサのメインテーマです! 変身するときにいっつも後ろでかかっとる曲で、イントロが流れてきただけでテンション上がるっていうか」
「なんでもいいからさっさと歌え」
熱弁をさらりと受け流して、副所長はひらひらとスマホを揺らす。
麻黄耶は杖をマイク代わりにして歌い始めたが、やはり那央には及ばない。レベルとしては静珂と同じ程度だろうか。途中でキャラクターの台詞と思しき一節があり、溢れんばかりの感情がこもっているのは声と表情から感じられた。
一通り確認し終えたところで、副所長は考えをまとめているのか黙ってしまう。四人の中で最も下手くそだった自覚があるだけに、ひどくこき下ろされないかと風眞は膝を抱えた。
――いや、いっそのこと「下手だからアイドルやめろ」って言われた方がいい、のか?
それはそれで傷つく気がしなくもない。もやもやと唇を引き結んでいると、「とりあえず」と副所長が口を開いた。
「音程取れてねえ馬鹿は何人かいたが、声は出てるし、まあ上手い方だろ。ただしあくまで『その辺の素人に比べれば』って意味でな」
つまりプロの中でやっていくにはまだまだということだ。
「まずはそこの白髪頭」
「……俺ですか」
「他に誰がいるんだよ。お前は緊張で力み過ぎだ。だから声が裏返る。もう少し肩の力抜きゃあ良くなるだろ。横の小さいのもだ。感情の入り方が中途半端。その状態だと、聴いてる客に伝わるもんも伝わらねえ」
はい、と二人そろって答えた声は少しだけ震えていた。
「感情云々で言うと、そっちの喧しいの」
「ん? もしかしてオレのことですか? よう言われるんですよ、賑やかで良えねって!」
「うるせえ」と副所長は耳をふさぐ。「感情はじゅうぶんこもってたけどな、そっちに集中しすぎて音程がふらふらしてやがる。そっちを疎かにすると聴いてる方は逆に不安になるぞ。で、正反対なのがそっちの眠そうな奴」
副所長の指摘に、那央はわずかに首を傾げる。
「感情が全くこもってねえんだよ。機械的に音を合わせてる。安定はしてるが面白みが皆無だ。喧しいのと足して割ればちょうどいいかもな」
三人の顔色を横目でうかがうと、凹んでいる様子もなく、言われたことに納得して素直に受け止めている。風眞も同様だ。自分たちと同じような素人からのアドバイスであればムキになっていただろうが、相手はプロだ。なにも言い返せない。
「お前らの曲が出来るまでまだ少しかかるみてえだし、ひとまずはうちに所属してる他の奴のを使って基礎を整えてやる」
よく聴いておけよ、と四人それぞれに渡されたのは、表面になにも書かれていない一枚のCDだった。〝ランディエ〟のデビュー曲を収録してあり、テンポはそれほど速くなく、極端な高音や低音も無いため、風眞たちの練習にちょうど良いそうだ。
副所長にも他の仕事があるし、レッスンは毎日ではない。CDと一緒に一ヵ月分の予定表も渡されたが、だいたい二、三日おきに指導してもらえるらしい。
――それならまあ、多少は自分の時間も取れそうだよな。マジックの練習しながら曲聴いて覚えれば一石二鳥だろ。
「あの、すみません」
頭の中で予定を組み立てようとしていたところで、静珂の声が割りこんだ。
「ダンスも副所長が指導してくださるんですか?」
――……ダンス。そうか、ダンスのレッスンもあるのか!
確認されたのが歌唱力のみだったために失念していた。風眞は愕然と目を見開き、せっかく立ちそうだった予定を一瞬で崩す。
平日は朝から学校があるため、レッスンは必然的に夕方から夜の時間帯になる。歌が毎日ではないということは、他の日にはダンスの練習が入るかも知れない。
――いや、でも。ダンスも副所長が見るんなら、レッスンは同じ日で済むはず。それならマジックも……!
だが希望は「いや、そっちは違う」という一言であっけなく打ち砕かれた。
「最初は押しつ……任されそうになったけどな。歌と踊り、両方見てやれるほど俺は暇人じゃねえんだよ」
「ほんならダンスは誰が見てくれるんです?」
「踊りが得意な奴らがうちに居んだろ。さっきの片目野郎とかな」
もしかしなくても所長のことだろうか。彼の片目は常に前髪で隠れている。
ということは所長がダンスの講師を務めるのだろうか。しかし結局、誰が教えてくれるのか知らせてもらえないまま、今日は顔合わせだけだからとお開きになってしまった。
外に出て見ると、まだ空は明るい。夏が近づくにつれ、少しずつ日の入りが遅くなっている。
「あ、くそ。デビューの日聞くの忘れてた……!」
「いつなんだろうねぇ」
「けど、副所長直々に教えるってことは、それだけ一気にボクらのレベル上げようとしてるんだろうね。プロ意識すごく高い人だし、適当なやり方で教えるようなことはしないと思う」
「そのぶんハードそうやけど、でも楽しそうやんな!」
「その思考回路が羨ましいわ」
「お、褒めてくれたん?」
「褒めてねえよ」
ひとまず家に帰ったら先ほど渡されたCDを聴かなければ。歩き出そうとしたところで、「ねえ」と静珂に呼び止められた。
「三人とも少し時間ある?」
「あるよぉ」
「ある!」
「……無いわけじゃねえけど」
「じゃあさ、ちょっとあそこ行かない?」
言いながら彼が指さしたのは道路を挟んで向かい側に立つビルだ。窓ガラスには大きく「カラオケ」の四文字が躍っている。
「ランディエの曲聴きながら色々考えようよ。ボクらのユニット名、とかね」
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