3-18 声に自由を

 星加ほしかくんと会う日は、翌日の十六時に決まった。

 大学の三限目の講義が終わったあとで、スマホのメッセージアプリで予定を再確認した私は、巴菜はなちゃんにメッセージを送信した。

 ――『話があります。今夜、電話させてください』

 星加くんとこれから会うことは、書かなかった。電話に応じてくれるなら、そのときに全て話すつもりだ。いつもなら勉強で立ち寄る大学図書館を素通りして、待ち合わせ場所を目指す私の長い髪を、潮風が柔らかく撫でていく。今日の空と同じ色のワンピースも、真夏の熱気を受けてひるがえった。ゼミの飲み会に参加した日も、私はお気に入りのワンピース姿だった。以前は慌ただしい朝に追い立てられてそでを通したけれど、今日は違う。絢女あやめ先輩が選んでくれた服を着ていたら、りんとした自分でいられる気がした。

 アリスが勤めている英会話教室が入った駅ビルのそばを通過すると、私のスマホは一度だけメッセージを受信した。けれど相手は巴菜ちゃんではなく絢女先輩で、今日の私の予定について訊ねる内容だった。

 昨夜の一件で、心配を掛けた所為だろう。これから星加くんと話してくると返信すると、場所を細かく訊き返されたので、われるままに文字を打ってから、駅から離れるにつれて街路樹が増えていく道を、せみの声にみちびかれるように進んでいく。

 緑の道を抜けると、潮風の香りが濃くなった。海沿いの自然公園は、絢女先輩がかつての恋人とデートした場所だ。今日もカップルの姿が多いけれど、居心地の悪さを感じないのは、芝生に寝転ぶ家族連れの姿も多いからだろうか。温かな空気に励まされた私は、海に面して等間隔に置かれた白いベンチを繋ぐように、遠くに見えてきた円形の噴水へ歩を進めた。

 目的地には、ゼミ仲間の男の子が先に着いていた。くすんだブルーのトップスに袖を通したたたずまいは、初めて『フーロン・デリ』に来てくれたときと同じ格好だ。噴水がキラキラと青空を輝かせて水面をさやかに叩く音が、待ち合わせ場所に近づく私の耳にも聞こえてくる。真面目な表情の男の子も、私に気づいた。海に向かって刻一刻と吸い寄せられていく太陽が、トパーズ色の髪を照らしている。

「星加くん。お待たせ」

「来てくれて、ありがとうな」

 星加くんは、薄く笑った。今日は雲一つない快晴なのに、バーベキューの日の巴菜ちゃんが、アリスに見せた空元気の笑顔みたいに、星加くんの笑顔にも、薄い雲が掛かっている。後戻りができない現実を、私たちは歩き続けている。

「倉田さん。……こないだは、本当にごめん。倉田さんにとって大事な人のことを、悪く言って」

「……うん」

 私は、ただ頷いた。自然公園で歓談かんだんしている恋人たちの目には、今の私と星加くんは、どんなふうに映るのだろう。他人にどう思われても、どうでもいい。私たちの立ち位置は、私たちが分かっていればそれでいい。そう割り切ると、ゴッホの『ひまわり』みたいに花瓶にした言の葉の中から、望む一輪に手を伸ばせた。

「星加くんは、どうして私が笹山ささやまゼミを選んだのかって、前に訊いたよね」

 星加くんは、意表をかれた顔をした。私は、淡く笑った。

「私は、勉強が好きだからって答えたよね。日本文学だけじゃなくて、海外との繋がりを研究するゼミに、興味を持ったから。そんなきっかけをくれたのが、彗なの」

 彼氏とは言わずに、彗と言った。絢女あやめ先輩が言うような『ぞくっぽい言葉』でしか伝わらないことが、世間にはきっとあふれている。けれど、私にとって彗は彗だ。友達と正面を切って話す間は、ありふれた定義で名前を縛らないで、声に自由を乗せたかった。

「私は、自分の好きなものとか、将来どんなことをしたいとか、自分のことがよく分かっていない、ぼんやりした子だったから。彗に会って、一緒に過ごして……身の回りのさまざまなものには意味があって、その意味を表現するために言葉を尽くすことの奥深さとか、美しさが分かったの。二年で卒業するはずだった大学に、編入試験を受けてとどまりたいと思うくらいに、私が勉強を続けたくなったのは、彗のおかげ。三年生になって、笹山ゼミに入って……星加くんに、会えたことだって」

 まぶたの裏側が、熱を帯びてくる。でも、一番泣きたいのは私じゃない。星加くんは、傷ついた顔をしていたけれど、まだ真剣な顔で私を見ているから。私の思う誠意をちゃんと届けるまで、私は絶対に泣かない。

「私は、彗と一緒にいたい。だから、星加くんの気持ちにはこたえられない。ごめんなさい。でも、私のことを、好きだって言ってくれて、嬉しかった」

「それでも、諦めたくないって言ったら?」

 星加くんが、苦しそうに言った。私は、かぶりを振った。

「星加くんは、巴菜ちゃんから聞いた『相沢彗』のことしか知らないから。私が知っている彗のことを教えたら、彗に対する見方がきっと変わると思う。でも、ごめんね。私が巴菜ちゃんに話した以上のことは、言えない。それは、誰が相手でも同じなの。私たちの思い出は、私たちだけで大事にしたいから」

「好きなんだ」

 万感ばんかんの思いがこもった告白が、午後四時のぬるい空気を引きいた。切なげに顔を歪めた星加くんは、けれど私までの距離を詰めなかった。オレンジ色に染まり始めた空の下で、また少し海に近づいた太陽が伸ばした影だけが、私のパンプスに重なった。

「初めてなんだ。こんなに、諦められないくらいに、誰かを好きになったのは」

「ありがとう……ごめんなさい……」

 声がのどつかえて、私は口元を手で覆った。好きな人に真っ直ぐな言葉を届けられる星加くんなら、私ではない別の誰かと、きっと素敵な恋ができる。星加くんが未来のどこかで好きになる人が、巴菜ちゃんかどうかは分からないけれど、その相手は幸せになれるはずだ。そんな希望と祈りを込めて、星加くんを見つめ返したときだった。

 遠くから――切羽詰まった響きの声で、私の名前が呼ばれたのは。

「澪!」

 振り向いた私は、驚きのあまり掠れた声で、相手の名前を呼び返した。

「彗? どうして……」

 私たちのいる噴水まで、一目散に走ってくる長身痩躯そうくは――相沢彗だった。見慣れたシャツとズボンの上に、絵具まみれのエプロンを普段通りに身につけたままだったから、度肝どぎもを抜かれた。アトリエを慌てて飛び出してきたとしか思えない格好だ。しかも、息を切らせてこちらに急ぐ彗は、星加くんに負けず劣らず真剣な顔をしている。

 そもそも、どうして彗がここに? 混乱している私の隣で、星加くんが呟いた。

「この人が、倉田さんの……」

 星加くんは、私に対しては詰めなかった一歩を、彗の方角へ踏み出した。びっくりした私が「星加くん?」と呼ぶと、かたい声が返ってきた。

「倉田さんの気持ちは……分かった。でも、だったら俺は、なおさら知りたいんだ。倉田さんに何も言わないやつが、何を考えてるのか。本当に、倉田さんが大事なのか。ちゃんと自分で確かめて、納得しないと気が済まないんだ」

「何を考えてって……星加くん、待って!」

 私の制止を振り切った星加くんは、噴水のそばに到着した彗に詰め寄った。

「相沢彗さんですよね。俺は、倉田さんと同じゼミに所属してる、星加大祐だいすけです。俺は、あなたに話があって……」

 そのとき、呆気に取られて黙ったのは、星加くんだけではなく、私も同じだった。

 肩で息をした彗は、話しかけている星加くんを相手にせずに、真っ直ぐに私の正面に来たからだ。よほど急いで来たのか、ここまで呼吸を乱した彗は初めて見た。我に返った私が「彗、大丈夫?」と声を掛けて寄り添うと、骨ばった左手が私の肩にのせられた。そのまま項垂れるように深く俯いた彗の声が、かろうじて聞き取れた。

「どうして、全部、一人で悩んで、一人で決めて……僕のことでも、あるのに……」

「彗……?」

 私は、いよいよ唖然あぜんとしてしまった。途切れ途切れに耳朶じだを打つれた声は、おそらく相沢彗が私に初めて向けた抗議こうぎだった。前髪で隠れた表情を見上げた私は、視界の端で星加くんが、頬をあけに染めた姿に気づき、はっとした。

 透明な空気に、夕焼けの赤色が染みついたみたいに、彗に無視された形になった星加くんのいきどおりが、風に乗って伝わってきた。

「シカトしてないで、話を聞いてくれませんか!」

 声を張った星加くんが、右手を伸ばした先は――彗の右腕だった。画家としての未来を閉ざしかねないほどの怪我を負って、今も病院で経過を観察中の右腕。絵画の世界にのめり込んだ彗の夢を、長年に渡って支え続けて、アトリエで私をぎこちなく抱き寄せた右腕に、何も知らない友達の指先が、届く前に――私の声が、青天に突き抜けた。

「だめ!」

 私は彗の左手を振りほどいて、驚く彗の隣へ倒れ込むように、星加くんの腕に掴みかかった。突然の私の行動に、星加くんも泡を食って動揺している。

 無我夢中で動いた私は、なんとかこのまま星加くんを、彗から遠ざけようとして――勢いがつき過ぎて、止まれなくなった。

 青空が、ぐるりと回る。噴水の縁石の灰色が、視界に割り込んで迫ってくる。膝が縁石に強くぶつかって、浮遊感に足を取られる。事態を理解したときには手遅れで、私と星加くんは、揃って噴水に落ちていた。

 ガラスを盛大に叩き割ったみたいな水音が、午後のデートスポットに響き渡った。透明な水飛沫しぶきでキラキラとけぶる視界に、愕然と目を丸くした彗の顔が、一瞬見えて、すぐに白い泡に隠されて見えなくなった。

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