3-11 どうして
飲み会を抜け出して駅を目指すと、途中で見つけた公園に寄り道して、水道でワンピースを軽くすすいだ。ビールが染みた生地が肌に貼りつく不快さを、冷たい水がほんの少しだけ和らげてくれた。
「倉田さん。ごめん」
苦しそうな声が、背後から聞こえた。振り向くと、
「俺がもっと早く気づいてたら、服がこんなことにはならなかったのに」
「星加くんの所為じゃないよ」
「でも、最初から俺が倉田さんの近くに座れたらよかったんだ。俺も、他の先輩に話しかけられて、なかなかそっちに行けなくて……ごめん。言い訳だよな」
星加くんとずっと話していた女の先輩のことを、私は思った。困っていた私を連れ出してくれた星加くんは、きっと
「私、たぶん……自分で思っていたよりも、傷つかなかったと思う。怖かったけど、嫌なことは嫌だって、
「……今、先輩たちからスマホに連絡が来てる。倉田さんには、次のゼミで会うときに謝りたい、って。他のゼミ仲間にも叱られて、反省したらしい。本当かどうか、知らないけどな。倉田さんが可愛いから、気を引きたかったんだろ」
「それは、違うと思う」
「え?」
「先輩たちが、私のことを可愛いって言ったのは……見た目とか、態度のことじゃないと思う。私が、先輩たちよりも年下で、お酒にも慣れてなくて、押しに弱そうで、自分たちの思い通りにできそうで……どこにでもいそうな、女だから。何かを考えたり、自分たちに意見したりする勇気がない、記号みたいな人間だって、思われたから。だから……もう先輩たちは、私のことを、可愛いなんて思わないよ」
自分の
かつての私は、存在感を自ら薄めて、率先して記号であろうとしていた気がする。なのに、生々しい人間であることを受け入れたら、記号であることを他者から強要されたときに、こんなにも苦しい気持ちになるなんて知らなかった。
いつしか私を振り返っていた星加くんは、ゼミから帰る
「星加くん。ごめんね。せっかく誘ってくれたのに、こんなことになっちゃって。でも、声を掛けてくれて嬉しかったよ。さっきは、助けてくれてありがとう」
「倉田さんって、変わってるよな」
「変わってる?」
「悪い意味じゃなくてさ。自分を持ってるっていうか、ちゃんと先を見てるっていうか……大学には遊ぶために来てるやつらが多いのに、倉田さんは勉強のために来てるだろ? それって当たり前のことかもしれないけど、俺はすごいなって思ったんだ」
――当たり前のこと。その一言を否定したくなる気持ちを、そっと呑み込む。代わりに私は「ありがとう」と重ねて言った。
「私が、勉強の楽しさと目標を見つけられたのは、大学に行かせてくれた両親と、大切な人たちのおかげだよ。自分の考えを伝える言葉を、みんなが教えてくれたから」
星加くんは、しばらくのあいだ黙ってから、全身で私に向き直った。改まった口調で「倉田さん」と呼ぶ眼差しは、
「好きです。俺と付き合ってください」
――
「ごめんなさい。私は、星加くんとお付き合いすることはできません」
「理由、言ってくれないんだ?」
「彼氏が、いるから……」
彗は、彼氏。でも、
「知ってるよ」
淡々とした
「知ってるよ。倉田さんには、二年付き合ってる彼氏がいるって。相手は、別の大学に通いながら、画家をやってるってことも聞いてる。それに、そいつは倉田さんに、はっきりと告白したわけじゃないことも」
「どうして……?」
――どうして、知っているの? 彗が、有名人だから? けれど、いくら絵の個展などで名前が知られ始めているとはいえ、絵画に興味を持たない人から見れば、彗は平凡な学生だ。それに、何よりも、私たちの
「好きだって伝えないくせに、倉田さんのことを大事にしてるって言えるのかよ」
この人も、
「星加くんは、彗の何を知っているの? 彗の
私の
――星加くんが、息を
「ごめん」
謝られて初めて、頬を伝ったぬるい涙に気づいた。飲み会で嫌な思いをしたことよりも、彗を非難されるほうが悲しかった。そんな心の動きを掴めているなら、不安に思うことなんて何もないのに、どうして私は誰かの言葉に傷つくのだろう。
星加くんは、視線を地面に落とすと「……先に帰る。何かあったら、連絡して。すぐ来るから」と言い残して、歩き出した。
公園の出口を一人で目指す後ろ姿を、私は涙の
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