3-11 どうして

 飲み会を抜け出して駅を目指すと、途中で見つけた公園に寄り道して、水道でワンピースを軽くすすいだ。ビールが染みた生地が肌に貼りつく不快さを、冷たい水がほんの少しだけ和らげてくれた。

「倉田さん。ごめん」

 苦しそうな声が、背後から聞こえた。振り向くと、星加ほしかくんは私に背中を向けていた。公園の遊具を照らす月明かりが、明るい茶髪を優しい青色に染めている。

「俺がもっと早く気づいてたら、服がこんなことにはならなかったのに」

「星加くんの所為じゃないよ」

「でも、最初から俺が倉田さんの近くに座れたらよかったんだ。俺も、他の先輩に話しかけられて、なかなかそっちに行けなくて……ごめん。言い訳だよな」

 星加くんとずっと話していた女の先輩のことを、私は思った。困っていた私を連れ出してくれた星加くんは、きっと絢女あやめ先輩みたいに、たくさんの人をきつけている。私は、カランをひねって水を止めると、濡れた手をハンカチで拭いた。バッグから取り出したカーディガンに袖を通して、濡れそぼったワンピースの前を隠すと、改めて星加くんの背中に向き直って、ぽつりぽつりと言葉を重ねた。

「私、たぶん……自分で思っていたよりも、傷つかなかったと思う。怖かったけど、嫌なことは嫌だって、曖昧あいまいにしないで言えたから」

「……今、先輩たちからスマホに連絡が来てる。倉田さんには、次のゼミで会うときに謝りたい、って。他のゼミ仲間にも叱られて、反省したらしい。本当かどうか、知らないけどな。倉田さんが可愛いから、気を引きたかったんだろ」

「それは、違うと思う」

「え?」

「先輩たちが、私のことを可愛いって言ったのは……見た目とか、態度のことじゃないと思う。私が、先輩たちよりも年下で、お酒にも慣れてなくて、押しに弱そうで、自分たちの思い通りにできそうで……どこにでもいそうな、女だから。何かを考えたり、自分たちに意見したりする勇気がない、記号みたいな人間だって、思われたから。だから……もう先輩たちは、私のことを、可愛いなんて思わないよ」

 自分の台詞せりふが、全て自分に跳ね返ってくる。けれど、不思議と胸は痛まなかった。

 かつての私は、存在感を自ら薄めて、率先して記号であろうとしていた気がする。なのに、生々しい人間であることを受け入れたら、記号であることを他者から強要されたときに、こんなにも苦しい気持ちになるなんて知らなかった。

 いつしか私を振り返っていた星加くんは、ゼミから帰る間際まぎわに私を呼び止めたあのときの再現みたいに、呆気あっけに取られた顔をしていた。私が可愛くない物言いをしたから、やっぱりつまらない女の子だと思われたのかもしれない。でも、自分では卑屈ひくつになったつもりはないから、私は大丈夫だということを伝えたくて、星加くんに笑いかけた。

「星加くん。ごめんね。せっかく誘ってくれたのに、こんなことになっちゃって。でも、声を掛けてくれて嬉しかったよ。さっきは、助けてくれてありがとう」

「倉田さんって、変わってるよな」

「変わってる?」

「悪い意味じゃなくてさ。自分を持ってるっていうか、ちゃんと先を見てるっていうか……大学には遊ぶために来てるやつらが多いのに、倉田さんは勉強のために来てるだろ? それって当たり前のことかもしれないけど、俺はすごいなって思ったんだ」

 ――当たり前のこと。その一言を否定したくなる気持ちを、そっと呑み込む。代わりに私は「ありがとう」と重ねて言った。

「私が、勉強の楽しさと目標を見つけられたのは、大学に行かせてくれた両親と、大切な人たちのおかげだよ。自分の考えを伝える言葉を、みんなが教えてくれたから」

 星加くんは、しばらくのあいだ黙ってから、全身で私に向き直った。改まった口調で「倉田さん」と呼ぶ眼差しは、一昨日おとといの大学の講堂で、幼馴染おさななじみの女の子に相談を持ち掛けていたときと同じくらいに、真剣そのものだった。

「好きです。俺と付き合ってください」

 せみの声が、遠のいた気がした。生暖かい風になびくトパーズ色の髪を、時が止まった世界で見ていた私の心は、この町の海のようにいでいて、きっと驚いていなかった。

 ――巴菜はなちゃんは、私に彗がいることを、星加くんに伝えていなかった。忘れていた呼吸を思い出して、酸素を肺に落とし込んでから、私は星加くんに頭を下げた。

「ごめんなさい。私は、星加くんとお付き合いすることはできません」

「理由、言ってくれないんだ?」

「彼氏が、いるから……」

 彗は、彼氏。でも、絢女あやめ先輩に指摘された通りだった。言葉に対するこだわりが、齟齬そごとなって声音に出ている。そんな言葉で表さなくても、彗は私にとって特別だ。ただ、そんな絆を星加くんに丸ごと伝えるために、どれほどの言葉が必要だろう。あるいは、そんな残酷さを薄めるために、絢女先輩が言った『ぞくっぽい言葉』が必要なのだろうか。

「知ってるよ」

 淡々とした台詞せりふが、顔を上げた私を絶句させた。星加くんは、真剣な顔のままだった。

「知ってるよ。倉田さんには、二年付き合ってる彼氏がいるって。相手は、別の大学に通いながら、画家をやってるってことも聞いてる。それに、そいつは倉田さんに、はっきりと告白したわけじゃないことも」

「どうして……?」

 ――どうして、知っているの? 彗が、有名人だから? けれど、いくら絵の個展などで名前が知られ始めているとはいえ、絵画に興味を持たない人から見れば、彗は平凡な学生だ。それに、何よりも、私たちのめに関わることまで、どうして星加くんが知っているの? ゴッホが描いた夜空みたいに渦を巻いた混乱が、私から声を取り上げた。まなじりを決した星加くんは、追及をやめてくれなかった。

「好きだって伝えないくせに、倉田さんのことを大事にしてるって言えるのかよ」

 この人も、絢女あやめ先輩と似ていることを言うのだ。でも、だけど――言葉が似ているだけで、意味は全然違っている。少なくとも、絢女先輩は、誰かの関係を否定なんてしない。どこかへ飛び立っていく蝉の声が耳朶じだを打ち、止まった時間が動き出した。ようやく、き止められていた声が出た。

「星加くんは、彗の何を知っているの? 彗の肩書かたがきとか、誰かに聞いたことしか知らないのに、そんな言い方をするなんて、ひどい。私は……」

 私の台詞せりふは、途中でたれた。感情の勢いも、たもてなくなる。

 ――星加くんが、息をんで、ばつが悪そうな顔をしたから。

「ごめん」

 謝られて初めて、頬を伝ったぬるい涙に気づいた。飲み会で嫌な思いをしたことよりも、彗を非難されるほうが悲しかった。そんな心の動きを掴めているなら、不安に思うことなんて何もないのに、どうして私は誰かの言葉に傷つくのだろう。

 星加くんは、視線を地面に落とすと「……先に帰る。何かあったら、連絡して。すぐ来るから」と言い残して、歩き出した。

 公園の出口を一人で目指す後ろ姿を、私は涙のあとを夜風に冷やされながら、見送ることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る