Ⅴ. やさしい闇

 微かに、生き物の肉が焼けた匂いがする。それはおそらく、己の醜い肉が放つ悪臭なのだろう。

 男は全身の感覚が限界を超えて麻痺している中で、僅かに反応を示した嗅覚を頼りに意識を無理やり浮上させた。

 いったい、どれほどの間気を失っていたのだろうか。


「……」


 ふと、声が聴こえた気がして、男は唯一己の意思に従った重い瞼を持ち上げる。

 仄暗い闇で覆われた視界。その端で、闇の中では淡白く光って見えるか細い手が、何やら繰り返し同じ動きをしていた。

 その手は、どうやら男の額付近で動いているらしい。そこから伝わる柔い温もりが、徐々に男の麻痺した全身を覚醒させてゆく。

 口の中を占めるのは、ぬめった鉄の味。

 身体中の骨は軋み、あちこちの肉が焼けただれたように熱く、ひたすらに痛い。

 四肢は痛みに震えることすらままならず、喉はとうに枯れ果てたようで、声は音になることはなかった。


「……い……さ、い……」


 今度こそ、確かに声が聴こえた——間違えようもない、少女の声であった。

 男は焦点を失っていた青い眼を何とか従えさせ、時間をかけて視線だけを巡らす。そうすると、身を小さく縮こまらせて蹲っているような少女の姿を、すぐ隣に見つけた。


「……っぐ、うっ……ふ、う……」


 少女は抱えた膝に小さな顔を埋めて、泣いていた。

 いつかのように、若旦那に乱暴されたようなあとは見られない。それでも少女は、その華奢な身体を大きく震わせて、確かに泣いている。

 しかし、少女の小さな左手は依然として、男の額とひよこのような髪へと繰り返し触れていた。まるで、生まれたばかりの子猫でも撫でるような手つきで。恐れるような、いつくしむような——触れられた箇所から溶けてしまいそうな。そんな、あまりにも柔らかな温もりが、無償で男に与えられ続けた。


「ごめっ……ごめんなさ……ごめんな、さい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 かわいそうなほど引き攣れた泣き声で、少女はうわ言の如くそう繰り返している。


(どうした。何があった。若旦那に、何かされたのか? 見えないところを、殴られたのか?  どこが痛い? どこが苦しい? 死にたくて、たまらないのか? 俺に言ってみろ。何でも聴いてやるから、なあ、お嬢さん)


 今にも消えてしまうのではないかと恐れるほど、少女が痛々しく泣き続けるものだから、男は気が気でなくて、動かない腕を伸ばそうと渾身の力を込める。

 すると、一瞬微かに持ち上がった腕に何かが触れた。これでは、ただでさえ今は役立たずな己の手が少女に届かない。そう思った男は、視線をさらに巡らせて——はっと息を呑んだ。

 裸であったはずの男の身体には、所々緩んでいたりと不格好ではあるものの、いつの間にか包帯が巻かれている。そして、その上から少女が身に纏う純白のドレスの裾が、男の大きな身体の半身を隠すように掛けられていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい。ごめんなさい。傷つけて、ごめんなさい。正しい方へ導けなくて、ごめんなさい。何もできなくて、ごめんなさい……! もう、この人から何も奪わないでください……おねがい、おねがいします……」


 その時、男はようやく理解した。

 なぜ、少女が虫の標本箱を若旦那と己の前で壊して見せるのか。

 なぜ、わざわざ痛い思いを何度もして、若旦那の気を引こうとするのか。

 なぜ、かつてあの物置で、己の前で泣いたのか。「かなしい」と泣いたのか。


(すべて、俺のためか)


 こんな真夜中、こんな汚い部屋で。焦げた悪臭を放つ、醜い裸の男のそばにいるのも。

 誰かに施したこともなかったはずの手当ても、脂汗と血で汚れた髪と額に触れてくれるのも。小さな身体をがたがたと震わせて、声が枯れるまで嫌いな祈りの言葉を繰り返すのも。ぜんぶ——


(俺を、おもってくれたのか。俺なんかのために——泣いて、くれるのか)


 そう理解した瞬間。男の青い眼から、熱い水が堰を切って溢れ出す。

 男は、心から嬉しく思った。同時に、苦しくて——あまりにも苦しくて、たまらなくなった。


(ああ)


 男は、未だに額を撫で続ける少女の温もりを感じながら。音にならない声を漏らして、生まれて初めて嗚咽する。

 少女はずっと、男のそばで寄り添い続けるやさしい闇であったのだ。

 男はずっと、少女のやさしい闇に守られていたのだ。


(お前は、間違いなくやさしい闇だ。そして——俺の道を照らす、光だ)


 このやさしい闇の少女のそばで生きたいと、心の底から願うのと同時に。この少女は、もっと広い世界で〝光る〟べきだと男は思った。少女はやさしい闇でもあるが、誰かの足元を照らすことができる〝導きの光〟でもある。

 男は、この少女がもっと広い世界ではばたく姿を、どうしても見たくなった。

 今までは、自殺する少女を己が阻止し、死に損なった彼女から教えを乞う——そんな時間が永遠に続けばいいと。現実から目を背けて、そう祈っているばかりだった。

 だが、それでは駄目だ。どれだけ少女の自殺を止めることができたとしても、この屋敷にいる限り……遅かれ早かれ、少女はいずれ必ず死んでしまう。

 こんな屋敷の中で散らすには、やはり惜しすぎる。


(お前が照らしてくれたおかげで……道を、見つけた。決めたぞ。俺は)


 男はいつからかずっと目を逸らし続けていた、少女の魂のかたちに目を向けた。

 かつては硝子のように透明だった、少女の巨大な蟲の翅——それが今は、おびただしい数の子供の死体が翅の模様となって、四六時中、翅の中を所狭しと蠢いている。あわせて、少女の全身には、蟲と同じくらいの大きさをした子供の魂がびっしりと隈なく張り付いていた。

 目にするだけで、目が潰れて精神が壊れてしまいそうな——男にしか視えない、以前とは比べ物にならぬほど変容しきった、少女のおぞましい魂のかたち。

 おそらくこれは、〝しゅ〟だ。異様にこの屋敷には、子供の亡者の魂が彷徨っていたが——それらが少女に引き寄せられ、集まって、呪いとなってしまったのであろう。

 死者の魂は、純粋で心やさしい気性の生者の魂に取り憑きやすい。


(いくらなんでも、やさしすぎる闇だ……お前は。見知らぬ死者をこんなにも背負いよって。クソ馬鹿過ぎる)


 少女の魂のかたちは、既に巨大な〝呪〟と成り始めている。これはそのうち、屋敷全体を覆って——屋敷の人々を余すことなく呪い、狂わせ、破滅させるだろう。そうわかってしまうほどに、禍々しいものであった。

 おそらく、この屋敷には何か秘め事・・・がある。それを明らかにし、少女と屋敷中に取り憑いた無数の子供たちの魂を供養しなければ——〝呪〟へと変容しつつある少女は、自殺せずとも死んでしまう。

 もう男には、彷徨う死者たちの虚っぽな魂も、それらを伝えてくる闇も——こわいものは、何もなかった。


(お前が俺にそうしてくれたように——俺は、お前を守る闇と成ろう。お前の小さな光が、俺だけでなく……もっと広い世界で存分に、思うままに光れるまで)

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