無限の行き違い
3.14159265359……なんて大嫌いだ。その文字の羅列を見るだけで吐き気がしてくる。
終わりのない、無限の数列。思い出したくもない、甚だ業腹なことだが、幼少期の私はこの円周率を暗記するという恐ろしい業に取り憑かれていた。
数学教授であった父の影響である。母はそうした趣味に没頭する私のことを褒めそやし、神童だ、天才だと、いずれは海の向こうにある名門大学に入れるようなつもりだった。
朝食のテーブルクロスに昨日一日で覚えた桁を書き込み、諳んじ、それから三食と家庭教師のレッスンの間を除いた殆どずっと、そのことと付き合い続ける。
父からもらった小型の端末にはずっと数字が絶え間なく溢れていて、それを目で追うだけで楽しかった。そう、楽しかったのだ。ではいかにして、それがにくいと感じるようになったのか?
私が7歳になった頃、国と家庭の方針に従って初等学校に入学した。王族や、将来の大臣や、名だたる顔ぶればかりが卒業しているような仰々しい所だった。
門までもが黄金で、家にこもって家庭教師や両親とばかりコミュニケーションを取ってきた私には少し気後れするような所でもあった。同時に誇らしくもあったけれど。
選りすぐられた子どもたちが集められたその学校でも、当然順位というものは存在する。私はもちろん一番の成績で入ることができたが、問題はその二番目だった。
ユリイカという女の子が居た。ユリイカ・ファーナポッツ。
そばかすだらけで、女の子にしては背が高く、瞳はいつも違ったものを見ているように輝いていた。親は商人で、そんなに地位があるわけでもない。
しかし彼女自身は街一番の才女を自称していて、とにかく負けん気が強かった。これまでの実績としては自動で靴下を干すことができる機械だとか、飴を降らせることができる機械だとかを発明したらしい。
「あたし、一番にならなきゃならないのよ。そういった意味で、ラジアンくんってライバルね」
「はあ?」
入学早々目をつけられた私は、それからことあるごとにユリイカにつきまとわれるようになった。これには辟易した。私が休み時間にも、これまでのように円周率の桁を覚える作業に没頭しようとすると、端末を後ろから覗き込んでぶつくさ呟くのだ。
最初のうちは無視をしていた。二回目も許した。しかし三回目の休み時間、あまりに邪魔で彼女を睨みつけると、ユリイカはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それ、今どこまで覚えてるの?」
「……16万桁」
「じゃああたしは20万桁まで覚える。一週間で! それで週末に勝負しよう」
私はこの挑戦に興奮に近い感覚を覚えた。いや、一方では馬鹿にされたと思った。私がこれまで費やしてきた時間を差し置いて、たったの一週間で20万桁までなんて。
「ぼくは紳士だから、忠告してあげる。絶対に無理だよ。賭けたっていい。そんな時間で覚えきれることじゃないんだから……」
「勝負から逃げるの? ああ、そう。あたしに負けるのが怖いんだ」
「そうは言ってないだろ。きみのほうこそ、負けたってぴーぴー泣き喚かないでくれよ」
このような約束をして、私は帰宅すると同時に残り4万桁の暗記に入った。これまでのことを考えれば難しいことじゃなかった。それに、プライドがある。ユリイカよりずっと円周率に打ち込んできたはずなのだから。
しかし他のことをおろそかにして体を壊しては元も子もないので、家庭教師の授業も、寝食も、コミュニケーションも完璧にやりつついつもよりペースを上げていた。
それからあっという間に一週間が経った。この勝負は公園を貸し切って行われることになり、私は家庭教師に小型端末を明け渡して、答えが合っているかどうかを確認してもらうことにした。
20万桁を諳んじるとなると二日とちょっとかかる。1万桁ごとの休憩、ご飯と眠る時間は休戦として、しかしもちろんカンニングなどはいけないということで同意した。
母ははりきってサンドイッチなどをこしらえて、私を応援した。
朝早くに家を出て公園に向かうと、ユリイカはすでに待っていた。なんだ、一張羅と思しきワンピースなんて着ている。
ユリイカ側の審判は商人の父親だそうで、分厚い円周率の本を抱えていた。私とユリイカはそれぞれ、隣合わせになるようにして設えられた席に腰かけた。
「調子いいみたいじゃん」
「もちろん。万に一つも負ける訳にはいかないからね」
そう言葉少なにかわし、開始の合図を待つ。何も心配なんてない。
審判たちが真ん中の鐘を叩く。私たちは全く同じスピード、同じ声量で数字を諳んじ始めた。
後から思い返してみると、その時間だけはとても心地の良いものだった。ユリイカの声はよく通るし、まるで合唱で、ぴったりと音と音が合わさっているような、得も言われぬ心地良さがあった。
私は青く眩しい空を眺めながら、頭を無にして記憶のフィルムを引っ張り出す作業に集中していた。彼女も同じようだった。貸し切った静かな公園に、私たちの声だけが響く。しかしその実、水面下では激しく切りつけあっている。
己のプライドとプライドとをぶつけ合って。1万桁の半ばまできたあたりで、一旦休憩の鐘が鳴らされた。
私たちはぴったりと口を閉じた。一方で喉が乾いていた。私は傍らの水をごくごくと飲み干して、それから母の手製のサンドイッチを食べた。
1万桁なんてほんの序盤だ。しかし……。ユリイカは涼しい顔でたっぷりとした蜂蜜を舐めている。それがやけに美味しそうで、私は視線をそらした。
多分、言えば分けてくれただろうけれど。敵からの施しは受けたくなかった。
それから1万桁……また1万桁と諳んじていく中で、私はほんの少し焦りを覚え始めていた。
体調が悪くなってきたとか、ど忘れするなんてことはない。ユリイカが私のペースについてきていて、しっかり暗記しているのに内心驚いていた。
だって、たったの一週間だ。正直、もっと早くで行き詰まると思っていたのだ。ひょっとして彼女は大ほら吹きじゃなくて、本当に才女……もしかして、天才なのでは?
それを認めるのは怖かった。私のこれまでの努力を一週間で追い越されているような気がした。7万桁目の休憩で眠る時間が訪れたものの、そこまでくると動揺は大きくなっていくばかりだった。
設えられたハンモックに寝そべると、星がよく見えた。どこまでも広がっていく星が数字の一つ一つに見えて、私は焦って、かたく目をつむった。
翌朝、朝食と支度を済ませて私たちは再び相対した。楽しげなユリイカとは対照的に、私はどんどん元気をなくしていた。
合唱するようなこの時間は楽しい。でも……。昨日湧き上がった疑念が拭えないまま、恐ろしい事実に行き当たる。
もし私とユリイカが引き分けであっても、最終的に一週間で覚えきった彼女のほうが『すごい』ということになってしまうのではないだろうか?
そうしたら、この勝負のどこに意味があるのか? いや、いや、きっと何か……どこか……無駄にはならないはずだと思いたかった。
私は動揺を押さえつけ、頭を空っぽにして諳んじ続けた。自分は円周率のことが大好きな機械だと思い込むようにして、それを乗り越えようとした。
両親も、家庭教師も、学校の先生も、周りの大人達は皆期待している。ゆくゆくは海の向こうの名門大学に入る。一番を明け渡したくなんてない。
どのくらいの休憩が入ったのかも考えなくなったあたりで、初めて私とユリイカの言葉が別々の数字を呟いた。
鐘がまた鳴らされた。あ、と呟いたのは私の方だったか、彼女の方だったか。
審判がそれぞれ確認し、それから家庭教師のほうが「今、ユリイカちゃんが間違えました」と告げた。
つまり、勝った? 私のほうが、ちゃんと覚えていられた? 心は一瞬沸き立ったが、隣のユリイカを覗き込んでそれがすぐにしぼんだ。
その瞬間の彼女の表情は、忘れようにも忘れられない。大きく口を開いて、ぽかんとして。まるで普通の女の子みたいに。それから更に、じわじわと瞳に涙を浮かべて。
審判たちが桁数を確認して、それから私は勝利者として持ち上げられた。両親は当然だという顔をして、ユリイカの父親はそれでも我が子を誇らしく思っているような顔だった。
違う。19万8765桁。私たちはそこまで来たのだ。ほんの手前のところだったのだ。こんなことを望んだんじゃなかった。再び"天才"の座に収まった私と、動きもせず席で縮こまるユリイカ。
もっと晴れ晴れとした気持ちになれると思っていたのに。
「ここまで覚えられただけでもすごいよ」と、月並みな言葉すらも喉の奥から出なかった。
勝負はかたがついた。その晩、私は自宅で豪華な夕食と、温かいお風呂と、ふかふかの布団に出迎えられた。
ユリイカは公園で別れてから、全く口も利いてくれなかった。でも、彼女も同じように……もしかしたら私以上に両親に慰められて、過ごしているはずだろう。
そうやって心を落ち着けて、気がついたら眠っていた。翌朝同じように登校すると、ユリイカは確かにそこにいた。
しかし、もう二度と私につきまとうことはなかった。彼女は二番目に甘んじることにしたようで、独創的な機械の話も、はっとさせられるようなアイディアの話も、何もしてくれなくなった。
かわりにどんどん社交的になって、私とは系統が違う子たちとつるむようになった。
すごく可愛くなって、すごく……。街一番の才女だと豪語する彼女はだんだん姿を消していった。
私はその後から、円周率が憎くてたまらなくなった。あんなに大好きだったのに、もう見たくもなかった。
19万8765桁、それが私の最終的な過ちであり、傷跡でもあった。
ああ、だから、円周率なんて大嫌いなんだ。
お題:打算的な円周率
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