第15話 激動の始まり
帝国歴一八三八年四月、帝都では珍しく雪が降ったこの日、アーデルハイトはロスヴィータに誘われてシュテファニエも交えた四回目のお茶会に参加していた。
最初の頃は政敵ということもあって緊張していた彼女であったが、相手に敵意がないことがわかると次第に打ち解けてゆき、今では談笑程度なら普通にできるようになっていた。
(全ては娘のお陰ね)
詳しい理由までは知らないが、ロスヴィータが自分を誘うようになったのはマリアのお陰であることは、シュテファニエの話で察することはできた。
(息の詰まる宮殿生活だったけど、こんな日が続けば)
そもそもアーデルハイトは帝位争いや権力闘争などに興味はない。娘と穏やかに暮らせればそれで十分であったのだ。
(陛下には悪いけれど、私は娘を皇帝にするつもりもないし協力する気もないわ)
寵愛を受ける身とすれば、それはとても不遜な考えであろう。だが、それでもアーデルハイトは自分の意志を曲げるつもりはなかった。
そもそも彼女の中では一夜の恋で全て終わった話であったのに、十五年も経ったあとになって急にやって来て、いきなり権力闘争の渦中に放り込んだのだ。これで協力しろというのはあまりにも虫のいい話だと彼女は考えていた。
(そういえば最近はマリアに会えていないわ。忙しいから仕方がないのでしょうけど……)
ふとアーデルハイトはマリアのことを思った。思えば彼女が騎士団長に任命されて軍務の一端を担うようになってから、会う機会が少なくなっていた。
(危険な仕事ですものね。今度会ったらちゃんと労ってあげないと。それと何かプレゼントでも)
そんなことを考えながら、
アーデルハイトは二杯目の紅茶を口に含んだ、まさにその瞬間だった。
「!?かはっ」
突如として喉に焼けるような痛みが走り、次いで口一杯に広がる血の味。
何が起きたのか理解する暇もなく、アーデルハイトは大量の血を吐き出した。
「……っ!?」
突然の事態にロスヴィータとシュテファニエは目を瞠った。
「ごほっ!ごほ!」
その間もアーデルハイトの吐血するは止まらず、ついには椅子から転げ落ちてしまう。
「……っ!すぐに医者を呼びなさい。早く!」
いち早く我に返ったロスヴィータは、傍に控えていた侍女たちに指示を出す。
(毒……なんで……わ……私が……)
薄れゆく意識の中で、アーデルハイトはなぜ自分が殺されなければならないのかと、理不尽さを感じていた。
「意識を保って!アーデルハイト、しっかりして下さい!!こっちを見て!」
(よ……かった……少なくとも……彼女たちでは……)
必死の形相を浮かべるシュテファニエの叫びを聞いて、アーデルハイトは安堵した。少なくとも二人が自分を狙った相手ではないとわかったからだ。
(……マリア……最期に……一目だけでも……)
愛する娘マリアの顔が脳裏に浮かび、それが彼女の人生で最後の光景となった。
その頃、私室にて休んでいたディートヘルムはぼんやりと椅子に座りながら俯いていた。
(偉大なる古代帝国の血を受け継ぎながらも、公爵家の言いなりなる父上を見て当時は情けないと思った。だが皇帝に即位して実感した。いかに三公爵家が強大かを)
最初は上手くやれると思っていたディートヘルムだが、結局はなに一つ上手くはいかなかった。何も決められず、何も出来ない。それが皇帝の現実だった。
帝国の政治中枢である宮廷は三公爵の息が掛かった者で独占されており、もはや皇帝自身が直接政治を主導出来る状態ではなかったのだ。
そして今や、皇帝の住まいたる宮殿すらも三公爵家の支配が進んでいた。
「陛下……」
「……どうした?」
突然前方から聞こえた声に顔を挙げると、そこには老年の男が立っていた。白い髪と髭を生やした男は燕尾服に身を包んだ執事長であった。
「――爺ではないか。この時間に如何したのだ?」
「御休み中のところ申し訳ありません。至急お耳に入れたいことが御座いまして参りました」
「構わんぞ。申せ」
「はっ!実は先ほど――」
老人の口から発せられた言葉に、皇帝は目を見開き、勢いよく立ち上がった。
「それは真なのか!?」
「はい……アーデルハイト皇妃殿下が……お亡くなりになられました」
「馬鹿な?!なぜだっ!!」
「……毒殺でございます、陛下」
老人は沈痛な面持ちで目を伏せる。それを見て全てを悟ったのか、皇帝は拳を握りしめて叫んだ。
「彼女は今日茶会に参加していたはずだ……まさかロスヴィータが仕組んだかっ!!」
「そこまでは分かりませんが、ロスヴィータ皇妃殿下に仕えていた侍女が一人、行方が分からなくなっているようで近衛騎士が宮殿内を捜索中です」
「おのれ……!許さぬぞッ!必ず証拠を見つけ出して殺してやるっ!!」
憤怒の形相をしたディートヘルムに対して、あくまで冷静に対応する執事長。彼は感情を爆発させる彼とは対照的にどこまでも冷静であった。こうなるであろうことは最初から予想されていたからである。
やがて罵倒を続けていたディートヘルムは椅子に勢いよく腰を降ろすと、天井を仰いだ。
「…三公爵どもはあらゆるものを余から奪い去った。権威、権力、威厳、尊厳、名誉まで。希望通り三公爵の娘たちを皇妃に据えて子も授けてやった。それがこの仕打か。余が真に愛した者さえ奪わないと気が済まないというのか……」
「……」
「余はもう疲れた。このまま死んでしまいたい気分だ」
「なりません、陛下!」
「これ以上生き恥を晒すぐらいなら死んだ方がマシだ。帝国などもうどうでも良い」
もはや生きる気力を失ったのであろう。ディートヘルムは虚ろな目で窓の外を眺めるばかりである。そんな主人の姿を前に、執事長は悲痛な表情で跪き頭を下げた。
「陛下、それではマリア皇女殿下はどうなるのですか?陛下が愛したアーデルハイト皇妃殿下と陛下の血が通った娘ですぞ。陛下がおらずして誰が守るというのです」
「……何も聞きたくない……下がれ」
その言葉を最後にディートヘルムは再び沈黙し、全てを諦めたかのように力なく項垂れたのだった。
◆◇◆◇
「殿下、母君がお亡くなりになられたと、宮殿から使いが来ました」
「……そうか」
帝都から離れた地で雨に打たれながブリュンヒルデと共に前を見つめていたマリアは、伝令としてやって来たガウェインに一瞬だけ視線を向けると一言だけそう呟く。その声からはなんの感情も読み取れなかった。
彼女は今、森の前にある小高い丘の上にいた。周囲は広々としており、地面に打ち付ける雨が雑草を揺らしている様子が見える。
「原因は?」
黙ってしまったマリアに代わってブリュンヒルデが質問すると、ガウェインは苦味潰したような表情になった。
「使いの者によると、ロスヴィータ皇妃殿下とのお茶会で突如血を吐いて倒れられたとのことです」
「毒殺か」
「はい」
二人の会話を聞きながらマリアは小さくため息を吐いた。
皇族殺しともなれば大罪であり極刑は免れない重犯罪、本来であれば間違いなく一族郎党皆殺しになるはずだ。
しかしマリアはそうならないことを知っていた。母を殺したい者など考えるまでない。
「……皇帝が本当に母上を愛していたというのならば、宮殿に呼び寄せるべきでは無かったのだ」
「仰るとおりです」
「仰せのとおりですな」
皇帝と呼び捨てたことで一瞬だけブリュンヒルデとガウェインは目を見開いたが、すぐに表情を戻して口を開いた。
皇帝の寵愛を一身に受けていたはずのアーデルハイトが何故このような結末を迎えたのか。答えは実に簡単だ。
それぞれの三公爵家から皇帝に嫁いで皇妃となった娘たちが牛耳る宮殿に、地方の伯爵令嬢などが入り込む余地など無いのだ。それも寵愛を一身に受けるともなればもっとだ。
「母上は慈愛に溢れ、優しかった。しかしそんなものは欲望と陰謀に塗れた宮殿では通用しない。故に殺された」
「……」
「そして私がここにいる理由もまた同じだろう。私は皇帝の血を引いてはいるが三公爵家や他の皇族たちから見れば邪魔な存在だ。タイミングも良いしな」
マリアの言葉にブリュンヒルデとガウェインははっとする。確かにタイミングが良すぎるからだ。
「やはりこの盗賊団を討伐せよという任務は殿下を暗殺するための罠であると」
「盗賊団の存在は偽装、あるいは暗殺者が潜んでいる可能性も考えられますな」
三公爵と皇族たちはそれぞれが帝国を我が物にしたいと考えている。それはなにも皇帝の地位や実権だけではない。
国の全てを牛耳ることこそが彼らの悲願なのだ。そのためにはどんな手を使うことも躊躇わない。
「ロスヴィータ皇妃殿下が画策したと思われますか?」
「自分の茶会でか?ディートフリート派閥かヴィルヘルム派閥のどちらかだろう」
ブリュンヒルデの問に答えたマリアは暗い空を見上げると、小さな声で呟いた。
「……潮時だな」
「と、申されますと?」
ポツリと呟くように発した言葉に反応したガウェインをチラリと見て、それから視線を再び正面へと向けた。視線の先にはどこまでも続く森が広がっているだけだ。だがその先にあるものを見据えるように目を細めた後、マリアはゆっくりと口を開く。
「母上が亡くなったことでもはや私に枷はない。帝都を離れる。地獄と呼ばれるレーゲンスブルク属州だ。きっと楽しいはずだぞ」
「お供いたします、殿下」
「私もお伴致します」
二人は迷うことなく即答した。それを見届けたマリアは嬉しそうに微笑んだあと、雰囲気を一変させた。
「ではその前に……身の程知らず共を叩き潰そうか」
そう告げてマリアが魔力を練り始めると同時に、彼女の瞳が紅く染まっていく。そして火球を何個も生成しては森の奥に向かって撃ち込み、森が炎上し始めたところで攻撃の手を止めた。
「森から出てきた奴は全て殺せ。一人も生かして帰すな」
それだけ言うとマリアは剣を抜いて、敵が焼け出されて来るのを待ち構えることにした。そんな彼女の横顔を見て、ブリュンヒルデとガウェインは親衛隊と騎士団に指示を飛ばしたのであった。
それから数日後、マリアは血塗れの姿のまま帝都へと帰還を果たした。
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