第9話
十三時過ぎに飛行機は瀋陽空港を飛び立ち、十五時過ぎに乗り継ぎのため、韓国の仁川空港に着陸した。保安検査の折、一行の一人が瀋陽空港の免税店で買った酒を捨てさせられるのをO氏は見た。ウイスキーらしい容器を係官が傾け、琥珀色の液体が流れ出ていた。O氏も日本を発つ際、ショルダーバッグの中にあったペットボトルの水を全部捨てさせられる経験をしていた。免税店で売っていたものでも駄目なのか、とO氏は理不尽を感じた。自分は財布を忘れるという不運な目に会っているが、不運は自分だけではないのだ、とも思った。O氏が財布がなくて酒を買えなかったのは怪我の功名だった。
福岡行きの便が出るまでの三時間余り、仁川空港で時間をつぶさなければならない。この時間はO氏にとって苦痛な時間となった。何で財布がないことに気がつかなかったのか。何で俺は性懲りもなく馬鹿をさらすのか。慙悸の念はますます強くO氏を苛むようになっていた。O氏の脳裡に、今朝ホテルをバスが出る前に見た情景がくり返し浮き上がった。朱蕾母娘がホテルの玄関前のスロープを忙しげに上っていた。あの時、バスの座席からそれを見ていた自分のズボンの尻ポケットには財布は入ってなかったのだ。あの時それに気づいていれば、すぐにバスを降りて部屋に戻り、財布を手にすることができたのだ。誰にも知られずに。発車まで時間はあったのだから。そうすれば問題は何も起きなかった。何も起きなかったのだ! 後の祭りだ、詮無いことだと思いつつ、O氏は無念でならなかった。
O氏は一行の人々からは少し離れた位置に座っていた。そこで本を読んでいた。井上ひさしの『一週間』は今朝読み終えていた。それで彼はもう一つ携行した月刊誌を読み始めていた。その月刊誌をショルダーバッグから取り出す時、脇の『一週間』に挟まれている栞が目についた。ああ、こんないいこともあったのだとO氏は思った。いい思い出ができていたのだ。その余韻を味わう心のゆとりも吹っ飛んでしまった、とO氏は悲しんだ。
一時間も読むとO氏は倦んだ。慙悸の念は読書中もO氏の心を散乱させ続けた。一行の中の誰もO氏に話しかけてくる者はなかった。司書の女性が話しかけてくるかもしれないとO氏は思ったが、それもなかった。O氏もそれを意外とは思わなかった。彼自身も彼女の姿を探そうともしていなかった。O氏には誰に対しても話しかけようという気は起きなかった。彼はすっかり落ち込んでいた。一行の人々は自分を憫れんでいるか、間抜けな奴と見ているという判断がすっかりO氏を萎縮させていた。また身構えさせてもいた。人を寄せつけない雰囲気をO氏は我知らず発していたのだ。
O氏は立ち上がった。喉が渇いたのでコーヒーでも飲もうかと思った。日本円しか持ってないので不安はあった。コーヒーショップの前に行って、O氏はポーチから取り出した千円札を差し出した。受けつけられなかった。両替を求めたが、千円札ではだめだと言われた。ポーチの中にそれ以下の小銭はなかった。
他の店を探してO氏は歩いた。長い通路を反対側から歩いてくる朱蕾の姿が目に入った。O氏は当惑を覚えた。困っている自分の姿を見られたくなかった。だが引き返すのも不自然だった。朱蕾から金を借りようかとふとO氏は思った。しかし、彼女にこれ以上迷惑はかけられないという思いがそれを打ち消した。O氏は近づいてくる朱蕾に笑顔を向けた。〈大丈夫ですか〉という言葉が彼女から発せられるのをO氏は懼れた。見透かされたくなかった。朱蕾は一瞬、O氏の表情を読み取ろうとしたが、何も言わずに微笑を返した。朱蕾とすれ違った後、O氏は目についた喫茶店に入り、千円札を出したが、結果は同じだった。喉の渇きも癒せないのかとO氏は思った。
財布を忘れるというチョンボをしなければ、帰る行程だけのこの日は最も寛いで過ごせる日になっていたはずだ。財布があれば今頃はコーヒーではなく、ビールを飲んでいるだろうとO氏は思った。往きの時もこの空港で待つ間、O氏はビールを飲んだのだ。ビールでほろよい気分になれば、一行の誰彼に話しかけることもできたろう。財布の不携帯が発覚するまで、この旅は基本的に順調で楽しいものだった。その旅を振り返って、結構弾んだ会話を交わすこともできたろう。ところがO氏は今、喉の渇きも癒せないという生理的苦痛と、慙悸と孤絶という精神的苦痛のなかでこの時間を過ごすほかはないのだった。
明日が仕事であると思うと、O氏はさらに暗澹たる気分に陥った。本当は旅から帰った翌日は休みたかったのだが、年休をこれ以上取ることは難しかった。授業の振り替えも限界だった。英気を養い、気分をリフレッシュさせるための旅行が、自分を一層ストレスで追い詰め、疲弊させるのであれば、何のために金と時間を費やしたのかとO氏は苛立った。しかし、誰を責めることもできず、己を罵るほかはないのだった。
仁川から福岡に向かう飛行機では、昨夜夕食のテーブルを共にした女子大の教授が隣席だった。この人も自分の失態を知っているだろうと思うとO氏は落着かなかった。昨夜は何とか自然な会話を交わすことができたし、年長である自分に配慮した彼の物言いにO氏は好感を抱いたのだった。だが失態を知った彼が自分に対する評価を変えているのではないかとO氏は不安だった。腹の中ではしっかりしていない人間と自分を見ているのではないかと思うと、会話も弾まなかった。
O氏の旅行はこうして最終日に暗転したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます