桃夭③ 公主、異国に嫁す

 皇帝の孫娘というのは、さぞ愛され甘やかされるものだろうと世間では思われているかもしれない。でも、必ずしもそうでないのは桂霄けいしょうが身をもって知っている。


 何しろ、彼女の父は先年亡くなった。疑いをかけられて、罪を問われる前に自死したのだ。遺される桂霄けいしょうたちを守るために、ということだったのだろうけれど、果たして父の遺志が尊重されるかは微妙なところだった。




 祖父のもとに参上すべく、後宮を進む桂霄けいしょうの耳に、密やかな囁きがいくつも届く。


「皇族の姫を蛮族に降嫁こうかさせるなんて、何百年もなかったことよ」

「陛下のたってのご希望よ。先日観た、公主降嫁の芝居がお気に召したから、と」

「演じさせたのは皇太子殿下でしょう。こうなると、分かっていたのではなくて?」

「近ごろ、ますますお芝居と現実の境が曖昧になっていらっしゃるから」

「無理もないわ。こうも悪いことが続いては──」


 悼むようで楽しげな囁きは、桂霄けいしょうの衣擦れの音が聞こえたとたんにぴたりと止んだ。沈黙の中、哀れみと好奇の視線が突き刺さるのを感じて、彼女は唇を噛む。他人事だと思って、好き勝手に言ってくれるものだ。


 妃嬪ひひんだか女官だかが囁く悪いこと、の最初のひとつは、陽春ようしゅんことだ。


 もう三年も前のこと、《桃夭タオヤオ》を舞ってから何か月も経っていない時のことだった。桂霄けいしょうには、天に輝く月か太陽のように眩しく神々しい存在に見えた彼は、ほかのから見れば目障りな子供でしかなかったということだ。死体さえ見つかっていない可哀想なあの子は、きっと人知れず朽ちている。


 次に、一番上の伯父が亡くなった。というか、殺された。当時、皇太子だった方だ。陽春を失ってますます気力を失くした祖父に、譲位を迫ったのが反逆になるとされた。やる気がないなら玉座から降りろ、と──とてももっともな主張のはずだったのに。


 次に皇太子になった二番目の伯父は、どうやら父を警戒したらしい。桂霄けいしょうには訳の分からないうちに、父は訳の分からない疑いをかけられて、気付けば死ぬか殺されるかの二択になっていた。祖父は、伯父にくみすることはしなかったけれど、特に父を助けてくれもしなかった。


 祖父の──皇帝の前に辿り着いた桂霄けいしょうは、恭しく頭を垂れて平伏した。重い鳳冠ほうかんを戴いた頭上に、掠れた老人の声が降る。


「そなたを嘉祥かしょう公主こうしゅほうじる。我が国の礼と威を蛮夷ばんいに示し、身をもって辺境を安らげるように」


 三年前の時点で老い先短いだとか言っていた祖父は、ますます萎びているようだった。声には張りも威厳もなく、平伏する前にちらりと見えた顔も皺に塗れていた。──でも、生きている。陽春がいなくなり、父は死なされたのに。凶事が続くと嘆きながら、何もしないままで。


(どうして……!?)


 言ってやりたいことは、いくらでもあった。殺されても良いから、どうして父を見殺しにしたのか、息子たちが殺し合うのを座視したのかと、問い詰めたかった。でも、桂霄けいしょうは結局のところ、地味な小娘に過ぎなかった。そこにいるだけで辺りを眩しく照らし出し、輝く笑みや天から降るような歌声で人を魅了した陽春のようには、いかない。


つつしんで、拝命いたします」


 だから──桂霄けいしょうは従順に平伏したまま、それだけを答えた。




 桂霄けいしょうが胸の裡の怒りや悲しみや憤りを吐き出したのは、その夜、闇に沈む庭園に向けて、だった。万感込めた罵声が、彼女の唇からほとばしる。


「ばかーーーーー!!!」


 陽春に教わった秘訣コツのお陰で、後宮の殿舎を揺るがす大声が出せた。眠りを妨げられた者もいるかもしれないけれど、構わない。ばかげた話なのは、誰だってわかっているだろう。


 明日、彼女は西の辺境に旅立つ。顔も知らない、言葉も通じない蛮族に嫁がされる。大昔の王朝の、似たような運命の姫君の芝居を観た祖父が、当代に再現してみたい、と思いついたというだけで!

 桂霄けいしょうの出立を見送った後、後宮では異国の情緒溢れる歌舞の宴が催されることになっているとか。くだんの芝居の一幕を再び上演したりして。そうして、桂霄けいしょうの結婚をという名目で、面白がって酒の肴にするのだろう。


「……死んでやろうかしら」


 庭園を望む欄干を、痛いほどに握りしめて、呟く。欄干の外側は、深い池になっているのは知っていた。すでに嫁ぎ先には話が通っているのだから、桂霄けいしょうが死ねばが代理に選ばれるだろう。父を亡くした身だから、後ろ盾もないからと、彼女にこの役を押し付けたへの、せめてもの嫌がらせにならないだろうか。


 闇のほうへ、身を乗り出した時──桂霄けいしょうの耳に、澄んだ歌の声が届いた。



 桃之夭夭 灼灼其華  若々しい桃 その花は燃えるよう

 之子于帰 宜其室家  桃のようなこの娘は 嫁ぎ先で喜ばれる



 涙が出そうなほど美しく、そして懐かしい声だった。深夜、絶望の中にいても目に浮かぶよう。陽光に燃える桃の花、甘い果実の香り、輝く若葉。素朴な歌詞に込められた、祝福の想い。かつて、あの子がうたと舞で描いた情景が、再び桂霄けいしょうの胸に湧き上がる。


「……陽春? 貴方なの?」


 問うても、答える声はない。当たり前だ。あの綺麗で可哀想な子は、もうこの世にいないのだろうから。生きていたら、もっと背も伸びて、そろそろ声変わりもしていただろう。それでもきっと、あの眩しさにはかげりなんてなくて。……父を助けてくれただろうか。今、桂霄けいしょうに歌を届けてくれたように。都合の良い幻に過ぎないのかもしれないけれど、彼の声が、彼女を踏みとどまらせてくれた。


「私……貴方みたいに綺麗じゃないのに……」


 桃の花の可憐さ、果実の芳醇さ、若葉の瑞々しさ。そんなものは何ひとつない、皇族に生まれたというだけの、有象無象の小娘に過ぎないのに。父が政争に敗れたゆえに、辺境に送られようとしているのに。嫁ぎ先で歓迎されるなんて、信じられない。


 でも、彼女はまだ生きている。陽春のように歌い、舞うことはできなくても、足掻くことはできる。


「やって、やろうじゃない」


 食いしばった歯の隙間から、絞り出す。父や陽春を殺した者たちの思い通りに、泣いて旅立ったりするものか。思い通りに、不幸になってやるものか。強い決意は、遥かな辺境までの旅路で、桂霄けいしょうを支える杖になってくれる。


 無事に辿り着けることを、桂霄けいしょうはもう確信していた。陽春が見守ってくれているなら、あの美しい声が風も嵐も退けてくれるだろう。


      * * *


 桂霄けいしょうの一行は、確かにつつがなく旅路を終えた。つつがないと、少なくとも護衛の武官や使者の文官は主張した。砂を帯びた激しい風も、険しい山道も、灼熱の昼も凍える夜も、どれひとつとして当たり前のものだとは彼女には思えなかったけれど。芝居の衣装を参考に、祖父が贅を凝らして作らせたという花嫁衣装は、早々に荷物の奥にしまい込まれたけれど。──ただまあ、無事に嫁ぎ先に辿り着いたのは、一応は間違いないことだった。


 いよいよ夫になる者に引き会わされる、ということで、久しぶりに花嫁衣裳を纏った桂霄けいしょうは、轎子こしを降りた瞬間に溜息を吐いた。ここが、彼女が骨を埋めることになる地。


「ああ……」


 砂漠というのか、荒野というのか。降り注ぐ太陽の熱は苛烈で、地に緑は少なく、そして褪せている。この地では桃は生えないのかもしれない。

 土と石で造った建物がまばらなのは、この地においても辺境の場所だから、なのだろうか。もっと栄えた都市めいたものもどこかにはあると、信じたいけれど。


 彼女が足を踏み下ろした場所には、精緻な織物が敷かれていた。そこだけは、緑滴り花が咲き乱れる花園であるかのように。絹が織りなす花の道を進んだ先には、見慣れぬ衣装の男が跪いている。


「貴方、が……?」


 折しも吹いた風が、桂霄けいしょうの呟きを砂塵と散らした。同時に、男の髪を乱し、肩にこぼれさせる。髪の色は、月の光の銀。それに、この地では男は髪を結わないらしい。信じがたい野蛮な風俗に、少し泣きたくなるけれど。


「────」


 その男が、顔を上げて何ごとか言う。聞いていた通り、この地の言葉は桂霄けいしょうが知らないもの。日に焼けた肌も、砂の色の目も、何ひとつ馴染みがなくて恐ろしい。でも、それでも伝わるものがある。男の声にこもった気遣い。遠い国から来た花嫁を、敬意をもって遇そうとしていること。労わるように差し出された手を取れば、ちゃんと血が通って温かい。


(私は、この人と……)


 桂霄けいしょうの目を零れ落ちる涙は、悲しみや絶望ではなく安堵によって溢れたものだ。彼女を見捨てた故郷の後宮よりも、ここはきっと優しくて温かい。陽春が、祈るように守るように歌ってくれた通りだった。


 桂霄けいしょうは、嫁いだ先で喜んで迎えられたのだ。

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