幕間 新宿の楠
一つ、世の中の人全員が知っているような、偉人の名言がある。努力の重要性を説くそれは彼が歩んだ栄光の道を象徴する言葉とされ、様々な人の心を打った。しかしその言葉には、皆が知らない一つの解釈があるという。
"Genius is one percent inspiration and ninety-nine percent perspiration."
天才とは、1%のひらめきと
β版ダンジョンシーカーズ。プレイヤー人口の多くが集結する東京の街では、連夜ダンジョン攻略が続けられている。プレイヤーの少ない他の地域とは違い、プレイヤー間での情報共有やチームの結成、人間という種の集団性を感じさせるその動きの中で。
彼女はいつも一人だった。
死別した父親から貰ったお気に入りの帽子を彼女は被って、一人ダンジョンに潜り込む。彼女はいくさびと。戦の中に戦を見出し、ただ一人戦い続けるのだ。
ダンジョンの中にある松明や石ころ。ありとあらゆる物全てが、彼女の武器となる。素手で妖異を縊り殺し、心臓を掴んで握りつぶす。灰を被り、突き進む彼女はあることに気づいた。
ダンジョン攻略に精力的になったプレイヤーが多いことに。
無限のように感じられたダンジョンも、多くのプレイヤーが攻めかかる現状を思えば、うかうかしていられない。安全にモンスターを倒し、アイテムを集められる下位のダンジョンを見かけることも少なくなった。
一刻も早く他のプレイヤーより多くのダンジョンを攻略し、大きな差をつけなければならない。そう考えた彼女は。
深夜の新宿駅前。なんの変哲もないネットカフェに、ある時から汚れた衣服を身に纏う女客が来るようになっていた。彼女は毎夜やってきてはシャワーを利用し、二時間だけ個室を使って、真新しい服とともに出て行った。これを毎日繰り返す彼女に、バイトの店員は不可解な視線を向けていたが、じきに慣れている。
楠は、泥のように眠る。アラームをつける必要なんてない。時間が経てば自ずと目覚めた。
新宿のダンジョンを全て制圧する。その目標を立てた彼女はまず、下位のダンジョンを全て狩り尽くした。一日に踏破したダンジョンの最高数は二十に上り、彼女はひたすら攻略を続けていく。新宿に基盤を置くプレイヤーを、自分以外駆逐しようとした。
もう、残っているダンジョンはC級以上の上位ダンジョンしかない。東京のプレイヤーの間でも、C級とD級の間には大きな溝があると言われていて、そこがトッププレイヤーと他のプレイヤーを隔絶する境界線だった。
C級以下のダンジョンを新宿から排除した彼女はそこで初めて、C級ダンジョンに突入する。
「アハハハハハ!! 楽しい! 蹂躙してくれるッ!」
巨人の伝承種に掴みかかる彼女はその肩に乗り、首を引き千切る。
その日彼女は、三つのC級を踏破した。
β版ダンジョンシーカーズがリリースされてから、時が経った。
プレイヤー間での情報共有手段も発達し、様々な情報が交換される中、ある噂が立ち始める。
どうやら新宿に一人、とんでもないプレイヤーがいるらしいと。複数人で構成されるパーティーを組み、何回かの偵察を経て攻略する上位ダンジョンを、彼女は一人で、たった一回の攻略で攻め落とすという。
その噂を聞きつけた一人のプレイヤーが、彼女へ接触を試みた。
忙しなく新宿の町を行く彼女の肩を掴み、男は声を掛ける。
「……貴方が、新宿の楠だな。話がある」
「……貴方、誰? 私は確かに楠だけど、新宿の楠って何よ?」
「……そう呼ばれていることも知らないのか」
彼は人気のない場所へ、彼女を連れ込む。
彼は楠に、彼女が他のプレイヤーたちからどういう扱いを受けているのかを説明した。
自身が関わる話であるというのに一切の興味を示さなかった彼女は、適当に相槌を打った後、次なるダンジョンへ向かおうとする。
「ま、待ってくれッ! 貴方は、他のプレイヤーに比べて明らかに……その、なんというかおかしい! 他のプレイヤーは貴方のように、ここまでダンジョンに潜ることができないッ! ぜ、絶対に何らかのスキルを習得しているだろうッ! それを教えて欲しい!」
「……何もないわよ。そんなもの」
「う、嘘だろう。教えていただけるのなら、ポイントやアイテムを渡す。だから、本当のことを公開してほしい!」
喚く男の姿を見て、楠はため息をついた。
「……じゃあ、そうね。私の生活サイクルを教えてあげましょう。まず、夜二時に寝床を出て、零時までダンジョンに潜ります。そして二時間休憩した後、また出発して、ダンジョンに潜る。それで終わりよ。食事は……戦いながら取るわ」
「……は?」
彼は絶句する。まずそもそも、ダンジョン攻略にかかわらず、たった二時間の睡眠時間で毎日活動を続けるということがおかしい。それに加えて、ダンジョンというのはひどく緊張する場所だ。どこからモンスターが現れるかわからないし、体は
「そ、そんなこと……不可能だ。貴方は……苦しくないのか?」
「……」
顎に手を当て、うーんと考え始めた楠の姿が、その答えを物語っていた。
「いや……別に、楽しいし。
彼女の言葉を聞き、男は理解した。ただ、レベルやスキルに差があるんじゃない。
小さな声で礼を述べた後、彼はそそくさと場を去った。
その後ろ姿を見送った彼女はまた、何事もなかったかのようにダンジョンへ向かう。
そうして、β版ダンジョンシーカーズで活動するプレイヤーの間で、また新たな噂が立った。
新宿の楠。あいつは
時が経つ。ダンジョンシーカーズが正式リリースを迎えてから、二ヶ月以上。しがらみも増え、β版で活動していた時ほどの攻略を楠はもう行っていないが、それでも日常的にダンジョン攻略を続けている。
各方面からこれ以上上位の渦を攻略するなという警告を受けた楠は、渋々C級ダンジョンの攻略に訪れていた。ボス部屋の中。蛇型の伝承級の妖異は大量の魚たちに集られ、じわりじわりと噛み殺されていっている。
段差に座り込み、それをじっと眺めている楠の隣へ、空間の扉を開き眼鏡をかけた男がやってくる。それに驚きもしなかった彼女が、声をかけた。
「あら。空閑さんじゃない。お疲れ様」
「お疲れ様です。楠さん。調子はどうですか」
「貴方たちにB級を攻略するなって言われてから、退屈してるわよ。A級も挑戦しちゃダメだっていうし」
「……情勢が最悪です。絶対にやめてください。今、裏世界側を刺激するのはまずい」
眼鏡を一度取り、布で拭き始めた彼が楠を見て声を発した。
「しかし、私も反省しました。少々、今回は読めない動きが多すぎた」
「……あの桜ツインテのこと?」
「ええ。あの人は重家の重石になりうるというのに、絶対にやってはいけない負け方をしましたから。倉瀬さんに重世界へ堕とされ、今どこにいるのかもわからない……”八咫烏”という術式を確か持っているはずなので、迷うはずがないのですが……何かあったのでしょう。下手したら、裏世界に出て悪魔として処刑されているかもしれません」
「……まあ、大丈夫じゃないの。死んでも復活しそうだし。あの人。灰から人の形に戻るなんて、生き物としておかしいわ」
「……とにかく、今後は貴方に動いてもらう機会が多そうだ。楠さん。貴方はまだ分別がある。正直な話、貴方と彼が一対一になったタイミングで、『
ほっとするように呟いた空閑を見て、楠が答える。
「うーん。正直あの時は楽しすぎてかなりしたくなったし、使えば拮抗した勝負にはなるとは思ったけど……お互い痛手を負うかな。多分倉瀬くんに何匹かぶっ殺されて、私の生態系が崩れそうで嫌だなって。それと、倉瀬くんに楽しいか聞いたら無粋だって言われたからさ。白川?の家はどっちにしろ倉瀬くんに吹っ飛ばされそうで前金以上は貰えそうになかったし、貴方の依頼は達成したぽかったから、退いたわ」
「私が言うのもなんですが……かなり得しましたね。貴方」
「それで倉瀬くんにちょっと悪かったから一発殴らせてあげたけど……アレマジで痛かったわ。本当に。首吹っ飛ぶかと思ったわよ、今は友達だから許しますけども」
思い出すようにほっぺたを摩る楠が、うぅと呻く。
その後彼女は立ち上がって、左手に白色の輝きを灯した後、倒れこみ魚に集られているボスの息の根を止めた。崩壊するダンジョンを去ろうとする彼女に、空閑が声をかける。
「……今回の報酬。きちんと振り込んでおきました」
「ええ。ありがとう。今後も何かあったらいくさの内容とお金次第で動くから、よろしく。できれば今回と同じような、やりがいのある仕事がいいわね」
「わかりました。私にとっては都合が良いのでよいのですが……どうしてそんなに金を集めてるんです?」
報酬部屋へ転移する、魔法陣の手前。
立ち止まった彼女が、振り向いて呟く。
「そうね……実は私、重世界の生き物を集めた水族館を作りたいのよ。戦うのは楽しいけど、せっかくならこういう目標があった方が良いかなって。そんなところ」
完成した日のことを想像して、ふふっと笑った楠に微妙な顔つきで空閑が事実を伝えた。
「……もうありますよ。そういう場所。重家に」
「えっ……じゃあ、それよりもデカイやつ作るわ!」
ポジティブに笑った彼女が、この世界を去る。
DS最強プレイヤー。楠晴海。彼女は妖異殺しが持つ誇りなど抱かず、悠遠の海を泳ぐ大魚のように、自由気ままに生きていく。
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