第六十八話 雨下の伏竜
雨宮の重世界の中。豪雨が降るそこで、備えを続ける。今すぐにでも駆け出したい衝動を抑えて、戦意を研ぎ澄ました。
水を弾き、体を冷やさぬよう機能する陣羽織。雨粒のつく黒甲冑。どこからともなく降るこの雨が、焼きつくように熱い心身をどうにか冷ましてくれる。
見上げる空。竜の瞳を濡らす大粒の雨。
雨曇り。そんな中でずっと、小さな幸せを抱えてきた人生だった。それを失った後は、いつ死んでしまっても悔いなんてないみたいな、諦観の命。
しかし俺の大好きな里葉は、そんな曇天のような俺の人生を変えてくれて、俺は彼女と笑い合う晴れ晴れとした日々を過ごすことができた。あの一ヶ月間は、ずっと心が休まる時間で。
しかしまた、雲行きが怪しくなる。俺の道に、行先を暗ます雨が降る。
だけど、彼女と出会えた今なら、もう知っているんだ。
「……不幸なんて、ただの通り雨だ」
またもう一度。強く決意する。必ず彼女を取り戻し晴れの日を迎えると。
「よし。まだまだ仕掛けるぞ。ついてこい」
「ああ。分かった……たっく。なんでこんなことになったんだか……」
竜の宝物殿より取り出した槌を握る彼が、大きくため息を吐く。かなりの過密日程であることは理解している。それでも、備え続けねば。
戦は、準備の段階から始まっている。むしろ、大勢を決するのはそこだ。
土砂降り雨の中。バチャバチャと水溜りを駆け抜け、やってきた雨宮の者が俺に手を振っている。
「倉瀬様! 片倉大輔なる者が、面会を求めております! あの男も、協力者でしょうか!」
その言葉を聞いて、ひどく驚いた。なぜ彼が雨宮の、いや、俺の居場所を知っているのか。
「……協力者じゃない。だけど、通してくれ」
雨脚はどんどん早くなっていく。雨具も持たず全身を濡らし、彼は橋の上に立っていた。
彼は俺を見てふっと笑った後、俺の周りに立つ武装した面々とこの城を見つめては、驚きの表情を見せている。自分がどこに身を置いているのか、今分かったらしい。
静かに、されどはっきりと認識できる声で、彼は言った。
「……倉瀬さん。あなたを、ずっと探していました」
「……」
「命を救われた恩を返すこともせず、のうのうと生きるわけにはいかないのです。貴方の力になりたい。どんなことだっていい」
真正面から俺を見つめる彼の姿を見て、周りの者たちが何故かたじろいだ。彼らは、一体何に驚いたのだろう。
「……先ずは、わざわざこうして来てくれたことに、礼を述べたい。しかし、恩に着る必要はないですし、不要です」
彼のその思いを、嬉しく思う。しかし、あの時俺が彼を助けたのはただの偶然で、気まぐれだった。それを切っ掛けに、命賭けの戦いへ彼を巻き込みたくはない。
「あの時俺が貴方を助けて、あのアイテムを渡し場を去ったのは、俺にとっては非常に些細なこと。実を言うと、今来ていただいて初めてそのことを思い出しました」
重苦しい沈黙が雨音に紛れる。
彼はゆっくりと、雨空を見上げた。
「……それでも、その恩に報いたいと考えるのです。貴方にとってはただの気まぐれでも、私にとっては人生を変えるほどの出来事だった」
瞳を閉じ、雨に濡れる彼の姿は美しい。
「……恥ずかしながら私には、親の事業から引き継ぐことになってしまった多額の借金がありましてね。家族に迷惑をかけながら、DSで借金を返そうと躍起になっていました」
「しかしご存じの通り、無理をした私はダンジョンの中で命を落とすところだったのです。そして貴方に命を救われた。……その後私は、恐る恐る頂いたアイテムを換金してしまいました」
「借金を全額返済しても、有り余るほどのものでしたよ……あれは。これからは、家族に迷惑をかけずに済むし、娘を……我慢させてやらずに済む」
彼の言葉に、不思議と皆が耳を傾けていた。
「ここまでの恩を受けて、何もせず、のうのうと生きることは私には出来ません。何もしなければ私はきっと、罪悪感に苦しみながら生きることになる。そうやって思い悩んでいたら、妻に背中を押され、娘には……パパ頑張ってと応援されてしまいました」
彼が、深く頭を下げる。俊敏なその動きで、水飛沫が舞った。
「改めてお願い申し上げます。どうか、私に恩返しの機会を」
彼をじっと竜の瞳で見つめる。なんと清廉な魂。高潔なる信念。
横から槌を握る彼が、小声で耳打ちしてくる。
「おい。あの片倉ってのは、プレイヤーの間じゃ結構有名だぞ。正式リリースから出遅れて始めたってのに、かなりのスピードで成長した有望株だ」
……これを拒絶するのは、義に反する。
城門の上。彼の元へ飛び降りて、雨水が大きく舞った。
「片倉さん。よろしく頼む。どうか、力を貸してほしい」
「……尽力させていただきます」
片倉大輔。東京に来た初日、初めて出会った彼が仲間として俺たちに合流する。今は一人でも多く、人手が欲しかった。
……彼を迎えたことがとてつもない英断になることを、今この時は知らない。
そこは、とっても不思議な場所だった。
部屋のあちこちには不思議な武具、装備や美術品の類がぶら下がっている。重家の立派な屋敷に比べれば随分と質素で、古き時代の民家に近いな、と感じていた。
囲炉裏からぱちぱちと、薪が燃える音が聞こえてくる。夕餉の支度をせよという命令を受け、他にやることもないから、しぶしぶ彼女の命令通り食事を用意した。竃を使って調理するのは、随分と久しぶりだったけれど。
爪楊枝を咥え、寝転ぶ彼女が頭を掻いている。
目の前にいる彼女とずっと相対してみて、彼女の魂が捉えられないような形をしていることに気づいた。
すでに、結構な時間が立っている。何日経ったのか、具体的には分からないけれど。
彼女と交戦した折、白川の者が追従していたことを考慮すれば、老桜の元に身を寄せているものの、白川に身柄を確保されていると解釈していい。
間違いなく雨宮は、窮地に陥っているだろう。どうにかしてここを脱出し、再び刃を手に取りたいが、そんな隙、どうやってこの人から見つけ出せば良いというのか。
武装は全て没収された。唯一奪われていないのは、ずっと透明になったままの、左手の白藤のみ。まだ体調は万全であるとは言い難く、能力の行使がスムーズにできない。
「……いつまで私はここにいることになるのですか。老桜様」
正座をしたまま、寝転ぶ彼女に話しかけた。問いを投げかけても、彼女が返答する気配はない。今雨宮が、姉様が、ヒロがどうしているのか知りたいのに。
右手で左腕を掴む。ぎゅっと力を込めて、彼らの無事を願った。
この空間の中で、時間だけはずっとあった。その中で、私が白川に捕らえられた後の想定を何度もしたけれど、形は違えど全て絶望的な状況のものばかりだった。
ああ。頑張って頑張って、どうにかヒロと一緒になりたいってやってきたのに。
ヒロ、私がいなくて、寂しい思いをしてるかな。ささかまにちゃんとご飯はあげてるかな。勝手に東京のダンジョン潜ったりしてないかな。私のこと、心配してるかな?
いやだ。ヒロとがいい。行きたくない。ヒロと離れたくなんかない。行きたくないよ。
でも、相手は白川。加えて、老桜という最強の妖異殺しまでもが彼らについているし、私が知らないだけで、もっともっと多くの敵がいるだろう。
……私が大好きなヒロはきっと、怒り狂って私を取り返すために戦いを始めるだろう。しかし、彼は強すぎる。竜であるということに重家の峰々が気付けば、集中砲火を浴びかねない。それにそもそも、白川の家と保守派そのものを相手に戦おうとしたら、間違いなく負ける。いかに竜といえど、一人ではどうにもならない。
ヒロがもし……しんじゃったら……
あの日。あの空想種が口を開けて、彼を喰らおうとした光景が頭を過る。嫌だ。嫌だよ。私はどうなってももういい。でも、ヒロだけは。
「小娘。泣きベソをかくでない。我の知る雨宮は、そんなヤワな連中ではないぞ」
俯き、何も見えてなかった視界の中。顔を上げると、目の前には黒桜の彼女がいた。
「それに、
「…………黙れ。早くこの身を、白川にでも誰にでも渡せばいい。雨宮として、私は誇り高く死ぬ」
「ほほう! ここにきて、勇んで死のうとする理由があるのか! 誇りなどと、よく言うものよ。何か隠しておるな」
口角を吊り上げ笑ったその姿に、ゴクリと生唾を飲み込む。この人は、この状況を楽しんでいる。
「…………まあ、よいよい。果報は寝て待てと言うしの。しばし待て」
そう告げた彼女は、再び床に就いた。いびきをかき熟睡しているように見える姿に、隙はない。
本当、嫌になる。壁に掛かっている妖刀が目に入った。剣を抜く必要すらない。魔力を纏わぬまま触れてしまえば、きっと。
「小娘。それはやめておけ」
刀の柄に人差し指が触れそうになったところで、彼女の声が聞こえた。
そこで初めて、私は思いとどまった。そうだ。それだけはダメだ。ずっと死んでしまえって思ってたって、ずっとずっと諦めてたって、生きてたから彼に会えたんだから。
ぼろぼろと流す涙が、頬を渡る。
もう一度生きよう。生きてみせよう。
穢れなき祈りを、空に捧ぐ。
目の前に眠る彼女は、今度は一言も発さなかった。
時が経つ。
白川の重世界にて。私は一人、壇上に身を置いた。
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