第四十五話 秘めたる想いは



 朽ちた木に石。水滴の落ちる音が、不思議とよく響く。透明化させた盾の上に乗り、空中で彼を抱えたままの私はため息をついた。


 『不撓不屈の勇姿』という特異術式を使用し気の流れも筋繊維もぐちゃぐちゃにして、百足姫を討ち取った彼が気絶している。私は、どうすればいいのだろう。


 渦の管理部屋である主の空間を抜けない限り、崩壊が始まることはない。彼が目覚めるまでここにいることはできる。


 ヒロはいつも、報酬部屋に行く時は楽しげにしていたし私が勝手に行ったら悲しむかな。


 百足姫が消えるとともに、全ての生命が消え去った私と彼だけの空間の中。大枝の渦を攻略してみせた彼の頭を撫でた。


 本当にすごい。ここまでの実力を備えれば妖異殺しに舐められることはないし、尊重もされると思う。


 そうなれば、彼一人でも。


(どうして、なんだろう)


 最初はただの仕事だった。だから私も一線を引こうとしたし、彼もそれに乗っかって私を利用しようとしているような感じだったと思う。だけど二人で時間を過ごすうちに、だんだんと心の距離が近づいていって。


 彼といると楽しい。すっごく、すっごくすっごく楽しい。


 彼は私を振り回しているように思うしそれは反省してほしいけれど、私自身振り回されることを楽しんでいるような気もする。


(こんなに楽しいと思ったのは……子供の時以来かな)


 無垢に思い出す景色。それを遮って頭の中をずっとちらつく、どうしようもない現実。そうだ。私は彼と過ごす間、それを忘れることが出来ていたんだろう。


 床に降りて、彼を寝かせる。何もないところに雑魚寝で怪我人なのにこの仕打ちはどうかと思った。だけどここには何もないし、私は彼のスマホを操作できないから中から何かを取り出せる訳でもない。


「あ……そうだ」


 正座をした後、寝かせた彼の頭を太ももに乗せる。泥と汗まみれの顔。乾いた血がこびりつく頬。黒髪を見て不思議な気持ちになる。


 最初は歪な笑みを浮かべる人だった。

 戦場の中で生きてみせて、死んでしまえって。


 だけど、二人で過ごすうちにその表情は増えていった。


 私のことを慮る色が出たり。楽しい嬉しいという朗らかな色を見せたり。私が少し怒れば、反省してしゅんとした顔をする。


 ……これは、私の魔力を使って彼を癒すためだから。近くにいないと。


「ふふっ……寝顔かわいい。ひろ」


 見上げる天井。


「本当に……こんな時間が、ずっと続けばいいのに」


 漏らした自分の独り言が、思っていた以上に暗いものだったことに気づいた。彼と別れる、いや、私が築き上げてきたもの全てと別れる日のことを思えば、胸がツンと痛くなる。


 胸が、痛い?


(『里葉! ごめん……ごめんね。絶対にお姉ちゃんが……あなたを助けてみせるから。里葉。里葉ぁ……』)


 あの言葉をかけられた時も、何も期待なんてしていなかった。生まれてこの方、諦観の上をずっと生きてきた自覚がある。その中で楽しみを見出したり暖かな気持ちになったりしたことはあったが、結局それは一瞬の出来事だった。


 苦しくはなかった。


 もう苦しいと思うことができないほどに諦めていたし、隠れて逃げてばかりだったから。


 辛くはなかった。


 もうどうにでもなれって。自分の心を殺してしまった。意志のない人形になった。



 だけどその心が今、欲望を取り戻そうとしている。私が感じている今この瞬間を、ずっとに変えたいって。



 安らかな表情をした彼の顔を見つめる。わからない。怖い。なんなんだろう。この感情の芽生えは。


 でもそれを許してはならない。

 私を覆してしまえる人なんてきっといない。

 そんな物語のような幻想は存在しない。救いなんてない。

 胸を両手で抑える。この痛みは、この欲求は、どうすればいいんだろう。


 (私には……そんなことはできない。私はいなくなっちゃうんだから。中途半端に終わって、彼に迷惑がかかる)


 頭を振って芽生えた想いを何とか振り払う。きっと、これ以上彼といちゃいけない。私はまた、我慢、すればいい。


 でも……楽しかったな。







 ゆっくりと瞼を開ける。目覚めた朧げな視界の中、彼女の姿が見えた。


「起きましたか? ヒロ?」


 寝ぼけたままの頭で、何も考えずに思ったことを口に出す。


「ほんとうにいつもきれいだな……」


 微笑を浮かべて、小さな声で彼女が呟いた。


「……今、いろいろ考えたばかりだから。そういう、決意を揺らがせるような不意打ちはやめてほしいです」


 体に力を込める。全身が破壊的に重いがこんなのはどうってことない。ゆっくりと体を起こして今、初めて彼女が俺に膝枕をしていてくれたことに気づく。


「……すまん。ありがとう。迷惑かけた」


「迷惑なんかじゃないです。ヒロ。じゃあ、二人で報酬部屋行きましょうか」


「ああ」


 立ち上がろうとしてふらついた俺。咄嗟に寄り添って俺を支えた彼女の横顔を見る。胸の鼓動がまるで戦っている時のように早くなって、やっぱり、本当に認めてしまったんだな、と思う。しかしそれは今、言葉にすべきものじゃない。







 報酬部屋。普段だったら血眼になって収容可能なアイテムを探すが、今日だけは話が違った。


 空を融かす昼夜のグラデーション。

 太陽はまだ昇らず、薄明の時を迎えている。


 今俺たちが立っているのは、水晶のように透き通った氷河の上。差し込む光を拡散し、幻想的な空間を作り出すそれに目を細めた。


 今の格好で氷河に訪れたら間違いなく凍死してしまいそうだが、涼やかな風が吹くだけのここでその心配はない。


「なんだか……叙情的ですね」


「……ああ。アイテムも大事だけど、こういう体験できない瞬間にこそ、価値を感じる」


 それも、彼女といれば。


「そう、ですね」


 緩い風が吹く。それは、枝垂れ柳のような金青の後ろ髪を小さく揺らしていた。彼女は横髪を耳にかけて、昇る日の方を見ている。


 その横顔に見惚れている俺に、彼女が気づいた。


「ヒロ。ここ、後どれくらいの時間いられますか?」


「後、十分くらいだ」


 金の正八面体を裾から落とし、盾を浮かぶベンチにした彼女が言う。


「じゃあそれまでの間……一緒にいましょう」






 B級ダンジョンが崩壊するまでの間、ずっとあの凍土にいた。そうして、表世界側に戻ってくる。

 緊張の糸が切れたのだろう。二人して倒れこむように、神社のベンチへ座り込んだ。


 音のない静かな神社の中。一人考え事をしている。

 映画みたいな夕焼けに晒されて、彼女と二人いた。


「里葉。流石に明日はオフにしよう」


「そうですねー……ってヒロ。もしかして貴方、明後日ダンジョンに行くつもりですか?」


「いや、そうじゃない。里葉。明後日は、俺と一緒に出かけないか」


「……ダンジョンですか?」


「いや違う。二人で、出かけたいなって」


 一息ついて、話を続ける。


「ここのところずっとダンジョンに潜り続けているし、少し疲れただろ? 息抜きとお礼に里葉が楽しいと思うようなところへ行きたいなって」


 ただいつも通り出かけるって誘うだけなのに、何故か緊張する。

 一度瞳を閉じ何かに葛藤した彼女が、ゆっくりと頷いた。


「……お礼というなら、まあ」


「よし。じゃあ、また連絡する」


 ふうと一息ついた彼女が立ち上がって、体を伸ばす。


「それじゃあ、帰りましょうか」


 にこりと笑った彼女は、夕日を背負っていた。



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