4-9 心、とかして
「すみません、遅くなりました」
森川氏が息せききってガレージにかけこんできた。
森川氏の姿を認めると、静佳が「ああ……あああ……」と声を出した。
「こら、触っちゃダメだよ」
森川氏は、ギターを触っていた静佳をやんわりとたしなめた。叱られていることがわからない静佳はギターの弦から指を放そうとしなかった。
「ほうら、ダメじゃないか」
たしなめる森川氏の声音も言い方も柔らかいせいか、褒められているとでも思ったらしい静佳は森川氏にむかって笑顔をみせた。完全に音だけで判断しているのだなと梓はやるせなくなった。
「さあ、家に帰るよ。お手数おかけしました」
梓たちにむかって頭を下げ、森川氏は静佳の手を引いた。ガレージを出て行こうとする森川氏だったが、静佳の思わぬ抵抗にあった。
「ああ……あああ……ああ」
声をあげながら、静佳は森川氏につかまれているのとは反対の手、右手を梓たちの方にむかって伸ばした。
「帰りたくない」と言っているつもりなのか、梓の名前を呼んでいるのか、静佳が言おうとしている言葉を梓は推し量ろうとした。静佳が発した音は例の五音だったから、「帰りたくない」でも梓の名前でもない。「め」「こ」「い」「な」「さ」を組み合わせて出来る言葉なのだろうが、まるで組み合わせが思いつかない。
「どうした、静佳?」
「ああ……ああああ……あああ」
順番こそ異なるが、例の五音だ。静佳は伸ばした右手をむすんでは開くを繰り返した。何かを握ろうとしている仕草のようだった。静佳と握る動作といえばマイクが思い浮かぶ。
ガレージにはマイクスタンドもマイクもある。歌いたいのだろうかと梓は静佳を見やった。静佳の視線はマイクスタンドには向いていなかった。
「ああ、これが欲しいんだね」
静佳の視線の先にいた土橋哲司が腰かけていたアンプの上をさぐった。紫色の花を手に土橋哲司は静佳に近づいていった。
「はい、どうぞ」
土橋哲司が紫色の花を静佳の手に握らせた。静佳は声を発した。「ありがとう」と言ったのかと梓は思ったが、音は例の五音であったから、「ありがとう」ではない。
静佳は、受け取ったばかりの紫色の花を森川氏に差し出した。そして例の五音を発した。「これ、あげる」でも「お父さんに」ではない。そもそも、梓の推測する言葉が「め」「こ」「い」「な」「さ」の組み合わせになっていない。お手上げだった。
「ありがとう。きれいな花だね」
森川氏が少し寂しそうな笑顔で静佳の頭を撫でた。静佳は、森川氏にむかって紫色の花を突き出すような仕草をしてみせた。もらえると思っていた森川氏は当惑していた。
その花を欲しがって面倒を起こしたんだっけと梓はぼんやりと思い返していた。紫色の小さな鈴のような花がたくさんついた花だ。静佳が手にしている様子はまるで鈴をならしている姿に見える。シャンシャンと音まで聞こえてくるような気がしてきた。神社だか寺だかで聞く凛とした音色だ。あの鈴を何といったか、あの花の名前は何だったか――
カン……
最初の二文字しか梓は思い出せなかった。花の名前は今はどうでもいい。重要なのは花言葉の方だ。その花の花言葉は確か……「ごめんなさい」だったはずだ。
「ごめんなさい」――「ん」は含まれていないが、残りは「め」「こ」「い」「な」「さ」の組み合わせだ。「ご」は「こ」と考えてもいいだろう。
「静佳、もしかして『ごめんなさい』と言っているの?」
梓は静佳に語りかけた。花を振る静佳の動きが止まった。
「『ご、め、ん、な、さ、い』」
音節を区切りながら、梓はゆっくりと言い、唇を大げさに動かした。梓が発音している間、静佳は梓の唇の動きをじっとみつめながら自分の唇を動かしていた。
「ご、め、ん、な、さ、い」
梓を真似た静佳の目から涙が流れ出した。
「いいんだよ。心配したけど、静佳の身に何もなかったんだからね」
森川氏は静佳の頭をそっと撫でた。ふらふらとしていたことを静佳は謝っていると思っているようだった。
静佳の目からは涙が溢れ出ていた。まるで「ごめんなさい」という言葉が堰となって止めていたかのようで、「ごめんなさい」と吐き出してしまった今は感情も涙もとどまることを知らず、静佳は声をあげて泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
静佳は繰り返しそう言いながら、叫ぶように泣いた。あまりの泣きように森川氏は戸惑っていた。戸惑いながら、森川氏は静佳を泣かせるにまかせていた。
静佳は地面にぺたりと両ひざを開いて座り込んで泣き続けた。森川氏は、泣いている静佳の丸まった背をトントンと優しく叩き続けた。
静佳の泣き声がおさまりかけた時だった。静佳の背を叩いていた森川氏の手がとまった。右手を宙に浮かせたまま、森川氏は梓たちを振り返った。
「今の、聞こえましたか?」
そう尋ねる森川氏の声が震えていた。静佳の泣き声以外は聞こえなかった梓たちは全員、首を横に振った。
「でも、今、確かに」と言って森川氏は黙り込んだ。森川氏が何を聞いたのかと梓たちも息をひそませ耳をそばだてた。
「さん……ごめんなさい、お……とうさん、ごめんなさい」
しゃくりあげながら、静佳が「ごめんなさい」以外の言葉を発していた。
「お、と、う、さ、ん。お父さんと言ってますね」
「そうですよね!?」
梓にむけた森川氏の顔は興奮のあまり赤くなっていた。
「静佳、今、『お父さん』と言ったね? しゃべれるのか? 言葉がわかるのか?」
「おとうさん……ごめんなさい、お父さん。おかあさんを死なせてしまって、ごめんなさい」
静佳は森川氏の両腕をつかみ、泣きながら言った。泣いてはいても贖罪の言葉ははっきりと聞き取れた。
「お母さんが死んでしまったのは僕のせいなんだ。くだらないケンカで僕が簡単に『死ね』なんて言ってしまったから。お母さんの悲しそうな顔を見て、すぐに後悔したんだ。でも、『ごめんなさい』が言えなかった。つまらない強情を張るんじゃなかった……。『ごめんなさい』と言って仲直りして家にいれば、二人そろって火事から逃げられたかもしれなかったのに」
泣き崩れる静佳の体を森川氏が抱きしめた。声をあげて泣く静佳の体を抱きかかえ、森川氏も両足を地面に投げ出して座り込んだ。そうして静佳を泣くにまかせていた。
「もう胸のつかえは取れただろう? さあ、立ちなさい」
泣き疲れてぐったりとなった静佳の体を森川氏が抱き起した。静佳を立ち上がらせ、森川氏も立ち上がった。
「もう気が済んだだろう? 厳しい言い方になるが、変えられない過去の過ちについていつまでも自分を責めているのは自己憐憫でしかない」
「じこれんびん?」
「自分を哀れむことだ。後悔している自分を哀れんで欲しいという気持ちが前に出てしまっている。考えているのは自分のことだけ、そこにお母さんへの気持ちはない。だってそうだろう? お母さんはもういないんだから。生きていれば、お前をゆるしたかもしれない、ゆるさなかったかもしれない。でも、死んでしまった今、お母さんがお前をゆるしたかゆるさなかったかはお前自身の想像にゆだねられてしまっている。そしてお前の中のお母さんはお前をゆるさなかった。それは本当のお母さんではない。お母さんははじめから怒っていなかったんだ。悲しそうな顔をしたと言ったじゃないか。お母さんは悲しかったんだ。だから、ゆるされない自分でいることは結局、お母さんの思いを無視して自分で勝手に哀れみのぬるま湯に浸っているだけなんだよ」
森川氏は静佳の頬の涙をぬぐった。静佳をみつめるその顔は青ざめていても優しかった。
「もう自分で自分をゆるしなさい。そして前を向いて、お母さんを悲しませないような生き方をしていきなさい。お前がお母さんにしてあげられることはそれだけなんだから」
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