4-7 言葉のない世界

 ショートメールが届いた。差出人は立華だ。静佳を預かっているから引き取りに来てくれという内容だった。

 またかと我知らずのうちにため息をついた。ため息をついてしまったことを梓は恥ずかしく思った。すぐに行くと返事をし、梓は立華の畑へと向かった。

 立華のガレージで静佳はアンプの上にちんまりと座っていた。紫色の花を手に、両足をぶらつかせて子供のようにはしゃいでいる。

「自分でこの場所に来たがったんで、連れてきた。どういう場所なのかはわかっているみたいだな」

「記憶はそのままみたいなので、わかってはいると思います。歌いたい気持ちもあるし、体も覚えているんだろうけども……歌えないと思います」

 アンプの上に座る静佳は紫色の花をマイクにみたて、口の前にたてている。だが、その口から歌声は出なかった。

「すいませんでした。立華さんに迷惑をかけてしまって。森川さんには僕から連絡しておきました。少し時間はかかってしまうかもしれないけど迎えに行くとおっしゃってました」

「ありがとう。俺が家まで送っていってもよかったんだが、今日はあいにくと人が来る予定で家をあけられないものだから」

「今日は静佳は何をしたんですか?」

「その花を――」と立華は静佳の手にある紫色の花に視線を向けた。

「欲しがったんだ。店主にしてみれば『盗もうとした』ということになってしまうんだが……。俺の畑の花を扱っている花屋で、たまたま俺が店にいたから、事情を話して金も払って穏便に済ませておいた」

「すいません、何から何まで。花代、僕が出しておきます」

「たいした金額じゃないから、いいんだ。静佳にあげるつもりで買ったんだし」

「すいません……」

 梓は深々と頭を下げた。

 意識を取り戻した静佳だったが、失ったものがあった。それは言葉だった。静佳は、言葉というものを認識できなくなっていた。

 意識を取り戻した時のことだった。泣くばかりの静佳に梓は自分のスマホを渡した。言葉を口にすることが出来なかった静佳はスマホに文字を打ち込んでコミュニケーションを図っていたからだ。

 スマホを受け取った静佳は不思議そうな顔をしてみせた。まるでどう使ったらいいかわからないといった風に、裏返しにしたり上下さかさまに持ってみたりとおもちゃのようにもてあそぶだけだった。

 「文字を打って」と梓が言っても、静佳は首を傾げるばかりだった。梓の言っていることの意味がまるでわかっていないようだったため、梓は不安を感じながらも、ここをこうしてと説明しながらスマホに文字を打ちこんでみせた。静佳は梓の真似をしてスマホをいじったが、打ち込まれた文章は文字の羅列に過ぎず、何の意味も成していなかった。

 静佳の世界から言葉が消えてしまった。人の言っていることも理解できず、自分から発することも出来ない。静佳は赤ん坊のようになってしまった。

 森川氏は、生きてさえいてくれたらいいと言う。梓も同じ気持ちだ。だが、言葉を持たずにいる静佳を見ていると切なくなってしまう。

 人の言うことが理解できず、自分の意思も言葉にして伝えられない静佳はたびたび面倒を起こした。立華の知り合いの花屋での出来事もそうだが、「お金」という言葉を持たない静佳は、「金を払え」と言われても「お金」が何かがわからない。そもそも「金を払え」がどういう意味すらも理解できない。だから、自分が欲しいと思ったものを手にしているだけだが、はたからは「盗む」という行為になる。静佳は欲しいという気持ちすら言葉に出来ないのだ。

「あッあッ……ああ……ああああ」

 静佳が歌いだした。歌は「風の街」だった。メロディは確かに「風の街」だが、歌詞はまるででたらめだ。

 立華が優しい眼差しで静佳を見、歌詞をつけて一緒に歌った。立華が歌う歌詞を静佳が追いかけて歌う。言葉として認識できない静佳の発音は、文字通り、音を発しているだけになってしまっていた。「風の街」は「かぜのまち」と音の羅列にしかならない。

「本当に、音だけなんだなあ……」

 立華が悲しそうに言った。

「そうなんです。誰かが言った言葉の音を真似て発することは出来るけど、しょせん真似なんです」

「録音した音をそのまま再生しているような感じなんだろうな」

「『かぜ』は静佳にとっては『か』と『ぜ』の音でしかないんです。意味のある言葉としては認識できていません」

「文字はどうなんだ?」

「だめです。文字も読めないし、前のようにスマホに文字を打ち込むことなんてとてもできません。漢字の方がひらがなより理解できるみたいです」

「漢字?」

「はい。『手』という漢字を書いてみせて、手を指さすと、手だとわかるみたいです。『手』という漢字が手の形に見えるからだと思います」

「象形文字だからか。形で理解しているんだろうな」

「でも、『て』と口で言っても手のことを言っているとは理解できません。ひらがなの『て』ももちろんダメです。『て』という音を文字にしているということも理解できていません。こちらが『て』と口に出して言うと真似して『て』とは言いますが、『手』と言っているとは静佳自身もわかっていません」

「何でそんなことになったのかねえ……」

 立華は深いため息をつき、何度も頭を横に振っていた。

「言葉のない世界を望んだのかもしれないです」

「言葉のない世界?」

「静佳は……言葉で人を傷つけて、傷つけられたから。そんな思いを二度としたくなくて自分の世界から言葉を消してしまったのかもしれない」

「やるせないなあ……」

 立華がまたため息をついた。梓も同時にため息をついたので、二人して顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

「でも、僕、思うんです。もしかしたら、言葉を失って静佳は楽になれたのかもしれないって。もう誰に何を言われても、静佳は何のことを言われているのかわからないから、傷つくこともないし」

 静佳はまだ吉元と顔を合わせていない。意識を失ったまま冬休みに入り、意識を取り戻して退院したとはいえ言葉を失ってしまっては勉強する意味がないため、学校には通っていないのだ。そうしているうちに春休みが近づいてきていた。父親である森川氏の判断によるが、学校に通い始めるとしても留年は決定で、吉元とは違う学年になる。梓とも学年が離れるわけだが、吉元と少しでも距離が遠くなるのは静佳にとってもいいことだと梓は思っている。ひょっとしたら退学し、特別な学校へ通うか、あるいは学校に通わないことになるか。いずれにしても吉元との接点がなくなる。

 梓は、アンプに腰かけている静佳を見やった。静佳は相変わらず花を手に歌う真似事をしている。メロディもきちんと追えているし、音程もあっている。立華が歌ってくれたおかげで歌詞もついているが、言葉にはなっていないため、ただの音にしか聞こえない。透き通る声は依然のままであるだけに静佳の歌唱力を知る梓には余計に悲しく聞こえてしまう。静佳本人が楽しそうにしていることだけが救いだ。

「感情はあるんだろう?」と立華が尋ねた。

「知能もあるみたいです。でも、言葉を介して理解できないし、考えていることや感じていることを言葉として相手に伝えることができないので、苛立たしい思いをしているみたいです。ってことは感情は人並みに持っているんです……」

「考えをまとめられなかったり、気持ちを伝えられないのは楽とは言えなっ……静佳?!」

 アンプから降りたかと思うと、立華の驚いた声を背に静佳はガレージの入り口にむかって勢いよく走っていった。

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