3-12 正義面でふるう暴力

 殴られたいきさつについて吉元は母親に嘘をついていた。自分がしでかした悪事は棚にあげ、梓だけを悪者に仕立てて逃げ切るつもりでいるらしい。狡猾なやり口だ。言葉で殴られた傷は目には見えない。だが、梓が殴った痕は吉元の頬に、そして梓自身の手に残ってしまっている。傍目には梓が一方的に暴力をふるったとしかうつらない。

 卑怯者――梓は殴りたくなる衝動を抑え、吉元を睨みつけた。梓の強い視線などものともせず、吉元は横を向いたままでいる。相変わらずの仏頂面だ。梓を悪者に仕立て、責めたりなじったりするかと思いきや吉元は無口だった。釘でも打ち付けられたかのように身じろぎ一つせず、横を向いた姿勢を変えずにいる。端正な顔立ちなだけに、インテリアとして置かれた美しい人形のようだ。

 一言も発しない吉元にかわって母親の吉元明子だけが一方的にまくしたてている。息継ぎする間も惜しいといわんばかり、言葉があぶくのごとくに延々と口から吐き出されていく。

 なぜ吉元は押し黙ったままでいるのだろう。薄気味悪く感じると同時に奇妙にも思えてきた。自分を殴った相手が目の前にいて、頭を下げている。罵詈雑言浴びせかける絶好のチャンスだというのに、今日に限って吉元は何も言わない。吉元が言いそうなことは母親の吉元明子が口にしていた。

 責められるにしてもなじられるにしても、吉元の口から聞きたいと梓は思い始めた。殴った相手は吉元だ。「痛かった」だとか「ひどいことをしやがって」だとか、吉元の感情を吉元自身の言葉で知りたい。「ゆるさない」と言われても仕方ないと覚悟している。むしろ「ゆるさない」と言われるのなら吉元の口からでないとならないとさえ思っている。だが、吉元は頑なに沈黙を貫いている。

 二十分ほどしゃべり続け、さすがに疲れてきたらしい。吉元明子が咳をした。

「謝るだけ謝ってもう気は済んだでしょ? さっさと帰ってちょうだい。謝罪は聞きましたけど、だからといって許したわけではないのよ。まだ腹が立っていますけどね、あなたたちと長々と話をしているほど私は暇な身ではないの」

 口ではそう言いつつも、まだまだ話したりなさそうな吉元明子だったが、樹がすくっと立ち上がったので仕方なく口をつぐんだ。

「お忙しいところ、すみませんでした」

 樹が頭を下げ、梓も腰を折った。吉元は来た時と全く同じ姿勢を崩さなかった。


 秘書の男に見送られ、玄関を出たとたん、樹と梓は同時に大きく息を吸い込んで吐き出した。

「息苦しかった」と梓がこぼせば樹も樹で「窒息するかと思った」と苦々しげに言った。

「やっと新鮮な空気が吸えるー」

 梓は両手を思い切り高くあげてのびをした。

「『黙っているべきだった』っていっくんが言った意味、やっとわかった」

「どうわかったんだ?」

 鉄格子の門までの道を二人は肩を並べて歩いた。一刻も早く立ち去りたい思いで二人そろって速足だ。

「僕、吉元になじられたり責められたりすることはしょうがないなって思ってた。殴った当人だしね。でも、ふたを開けてみたら、吉元本人じゃなくて、母親がずっと僕に文句を言ってきてさ。言葉で殴られ続けているような感じだった。でも、彼女がやったことは僕がやったことと同じなんだよね。吉元の言葉に殴られて傷ついたのは静佳だったのに、僕の方が吉元に手を出してしまった。殴られたのは吉元なのに、僕に殴り返してきたのは吉元の母親。同じ構図なんだよ。僕がしゃしゃり出てはいけなかったんだ。静佳の気持ちを理解して代弁しているつもりだったけど、的外れもいいとこ。僕は正義面で暴力をふるっただけだった……」

「謝らなくてはならなかった意味がやっとわかったんだね。なら、梓はもう大丈夫」

 樹がほっとした笑顔を浮かべてみせた。

「僕、静佳にも謝らないと」

「何でそう思うのさ?」

「だってさ、僕は静佳のかわりのつもりで吉元を殴ったんだ。悔しい思いを晴らしてやろうって。でも、それは僕の勝手な思い込みだ。静佳がどう思っているかなんか考えていなかった。静佳の気持ちを勝手に解釈して、それを言い訳に暴力をふるったんだから、それは静佳の考えを無視した、利用したってことで、静佳を傷つけたことになる。だから謝らないといけない」

「そうだね。そのことに梓が自分で気づけたってことは大人になったんだね」

 感慨深い思いを噛みしめるように樹は言葉をゆっくりと発した。

「まあ、自分で気づいたっていうか、吉元を見ててそう思ったんだけどさ。お母さんばかりがずっとしゃべっていて、あいつ、何も言わなかった。僕と口ききたくない気持ちはわかるけどさ。でも、お母さんがあいつの言いたいことを代弁しているっていうんだったら、あいつはしたり顔していたっていいはずなのに、すごい不機嫌で。怒っているみたいだった。僕にじゃなくて、お母さんに対して。ちがう、そうじゃない、って言いたいようだった。自分の口から、自分の言葉で僕を罵りたかったんだろうなって。お母さん、あいつの気持ちや考えなんか無視しっぱなしだったもん」

「僕も気にはなっていた……」

 樹が考えこんで遠い目をしてみせた。

「いっくん、今日は注意してくれたり、謝罪に付き合ってくれてありがとう。それから、ごめんね。いっぱい心配かけちゃって」

 梓が照れながらそう言うと、涙をこらえたような表情を浮かべた樹は梓の頭をくしゃくしゃに揉んだ。

「急ごうか」

 樹が空を見上げてつぶやいた。空には重苦しい雲が垂れ込めている。空気が湿っていて、かすかに雨の甘い匂いが鼻をくすぐった。

「降りそうだね」

 そう言って鉄格子の門を出たとたん、大粒の雨が梓の額に落ちてきた。

 雨粒はたちまちのうちに本格的な雨となった。傘を持っていなかったため、梓たちはどしゃぶりの雨の中を走って家に帰るはめになった。

 帰宅早々、熱いシャワーを浴び、さっぱりしたところでスマホが鳴った。静佳からだった。

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