第54話

 








 公爵が立ち去ったのを、顔を赤く染めたまま呆然と見送ってしまった少女は、ふとその事実を認識して、唇を戦慄わななかせながら声音だけ忌々しげに呟いた。


「なんですの、あの男……っ!」


 怒りか羞恥か、耳までも赤く染めながら、しかし、表情はいつも浮かべる優しげな微笑のままに、ギリギリと歯を噛み締める。


 少女にとって男という生き物は、自分の美貌や言動で思い通りに操れるものだった。

 だが蓋を開けてみれば、良いようにされたのは少女の方である。


 耳に残る、低く艶のある声で、ともすれば怯えてしまうような内容の言葉達。

 思い出すだけで腰にゾクリした違和感を感じるという異常な事態に、少女の苛立ちはただただ募った。


「ふむ、やはりジュリエッタでは少々弱いかもしれませんね」

「……どういう事ですの、お爺様」


 祖父の言葉に、少女は表情を変えないまま、しかし珍しく剣呑な声で言葉を返す。

 そんな少女に、祖父は穏やかな笑顔のまま、一つ頷いた。


「あの男は、亡くした妻を忘れられていないのでしょう」


 祖父の言葉が理解出来ず、少女は一瞬動きを止めてしまう。

 それでも何とか意味を飲み込んで、何を言われたのか把握する。


「亡くした、妻……?」


 祖父の言葉を反芻したその言葉は、理解した瞬間に少女のその身に巣食う苛立ちを倍増させた。


 あの男は、この、わたくしより、死んだ女の方が良いと?


 もはや既に存在しない女に、このわたくしが、負けた?


 キツく握り締められた細く小さな少女の拳は、余程強い力が込められているのか、血の気が引いて真白くなり、ふるふると小刻みに震えていた。


「そう、……そうなの」


 小さく呟きながら俯いた少女は、誰にも見られない位の角度で、その美しい微笑を憎々しげに歪める。

 ぎち、という歯軋りの音が小さく響き、美しかった少女の顔は、まるで悪鬼のような醜さに変わった。


「どうしました、ジュリエッタ」


 孫娘の豹変をどこか愉快そうに眺めながら、普段と変わらぬ優しげな声音と表情で祖父が問い掛ける。

 少女は、祖父の様子などどうでもいいのか、それとも気付いていないのか、地の底を這うような、酷く憎しみの篭った声で呟いた。


「……こんな屈辱初めてですわ、絶対に許せません」

「ほう、そうですか」


 祖父のそんな言葉に応えるかのように、少女が普段よりも楽しそうな表情でパッと顔を上げる。


「わたくし、決めましたわ! お爺様」

「何をですか?」


 どこか興味深そうに探るような視線を孫娘へと向ける祖父の問いに、少女は、ふわりと、普段よりも優しげな微笑を浮かべながら、まるで歌うように告げた。


「あの男を、死んだ妻なんてどうでもよくなるくらいに絶望させ、辛酸を舐めさせ、もう嫌だと懇願しても止まない責め苦を負わせ、徹底的に潰して、壊して差し上げるのです!」


 うふふ、と無邪気に笑う少女の姿はまるで絵画の天使のようで、しかし、その瞳は昏く澱んでいる。


「……なるほど」


 そんな孫娘の姿に、祖父は納得したように一つ頷くだけだった。

 祖父にとっては、結果として喜ばしい事であった為だろう。


「ああいう男は、家族や身内が弱点ですわよね、お爺様」

「そうだね」


 かつて祖父が公爵に対して行ったのと同じ手法を、孫娘も思い付いたのだろう。

 そう察した祖父はどこか微笑ましげな笑みで、ああでもない、こうでもない、と思案する少女を見つめながら、思う。


 あれは確かに効果覿面こうかてきめんだった。

 あの時の公爵の憔悴といったら、筆舌に尽くし難い程で、本当に、本当に。



「……滑稽、だったねぇ……」



 目の前の孫娘にも聞こえない程に小さく呟き、そして、にぃやり、と、どこか歪つな表情を浮かべる老爺の瞳は、孫娘のそれよりも醜く、昏く、おぞましい。


 そんな祖父に気付いていないのか、それともどうでもいいのか、全く気にした様子も見せず、孫娘は楽しそうにはしゃいだ。


「妻が死んでいて、今はもう無理なら、やはり息子ですわね!」

「ほう、どうする気だい?」

「まずはお爺様、わたくしに紹介して頂けませんこと?」


 話はそれからですわ。


 祖父に頼めば間違いないと信じ切っているのか、少女はうっそりと笑いながらそう言って、可憐に首を傾けた。


 少女の心の内が、憎しみなのか、恋情なのか、少女さえも理解しないまま。











「うわぁ、ホントにタチ悪いな、あのヘドロ達」


 俺が、そう誰にとも無く呟いたのは、この場に誰かが居たとしても、声も、姿も、気配すらも悟られないと理解していたからだ。

 もし、気付かれたとしても、それは自分よりも格上の存在である、目の前で優雅に紅茶を飲んでいる“真紅”か、己の主であるヴェルシュタイン公爵くらいなものだろう。


 奴らの姿は見えるが、声は聞こえない位置、俺はそのテラス席で貴族の男に扮しながら、紅茶を嗜んでいた。

 目の前では貴族の少女に扮した“真紅”が、鼻を鳴らしている。


「フン、ホントにその表現がピッタリね、あんな気持ち悪い存在がどうして生きてるのかしら」


 影と影を通して音を届ける闇の魔法。

 奴らの傍に植わっている木々の影と、俺の持っている紅茶のカップの影を通して聞いた、奴らが話していた内容に対して、“真紅”は鬱陶しそうな表情を浮かべながら溜息を吐き、呆れたようにそう呟いていた。


 豊満な胸を強調するような胸元の開いたドレスを着ている筈の彼女が、どう見ても清楚な貴族の少女にしか見えないというのが本当に不思議だ。

 眼鏡まどうぐの効果とはいえ、全く理解出来ない。


 よっぽど良い物なんだろうな、とか思いながら、とりあえずで非難された先の擁護をしておく事にする。


「アレは例外でしょ、殺したら国が乱れるっていうか」

「それはウチの主様が無能だったせいよ」

「あ、それ言っちゃうんだ」


 しかし、そんな俺に対し、当の真紅はキッパリと不敬な台詞を堂々と言い放ってしまった。

 暗に、野放しにしてた主、つまり、国王が原因だと言ってしまっている。


「それはそうよ、最初の頃はともかく、この間まで歴代最高の無能さだったんだから」

「え、そこまでなの?」

「そうよ、頭領も呆れてたわ」

「そうなんだ……」


 ……まあ、確かにあんなヘドロを放置してた時点で大分ダメな王だとは思ってたけど、部下からもそんな事思われてるとか相当だ。

 真紅という存在達にとって、簡単に処分する事が出来る筈なのに、それを放置しなければならないというのは、腹立たしい事なんだろうから、仕方ないのかもしれない。


「でも、もう殺っちゃって良いんじゃないかしら? なにせヴェル様が再誕なされたのだもの、いい加減あんなヘドロからすげ替えるべきよ」

「同感! 絶対良い国になるよね」


 ウチの旦那サマなら、きっとあの物凄い魔力と知識と美しさで、それはそれは素晴らしい宰相になってくれる事だろう。


「しっかしホントに此処の国民は見る目無いわ、ヘドロなんかロクな事してないのに」

「ホントにな。アイツらがやった事なんて、横領に暗殺に密売に、あとは、なんだっけ?」

「間諜と癒着と脱税じゃなかったかしら?」

「そんなんを“聖人”とか“聖女”とか」

「噂しか信じないからダメなのよ此処の国民は」

「それな」


 つーか元雇い主とはいえ、こんな沢山の人があちこちに居るような場所で密談するとか、奴らは阿呆か何かだっただろうか。


 まあ、どうせあのヘドロ達には、例え誰かに聞かれたとしても、それを見たり聞いたりした誰かの言葉など、誰も信じないという自惚れがあるんだろう。

 だからこそ、見えない所で色んな事を、他人を操ったりしながら、暗躍しているのだ。

 あいつらは、ヘドロと呼んで差し障りが無い程度には腐っている。


 ジジイの方は旦那サマを殺そうとしてた事も含めて言わずもがな。

 孫娘の方は、加虐趣味の末期。

 裏では、スラム等の孤児や、没落貴族を救う振りして手元に置き、完全に信頼させた所で酷く裏切り、絶望させ、その表情を楽しんでからゆっくりと殺している。

 例えヤツらから逃げ出す事が出来たとしても、誰も信じないし、味方も居ない。


 外面の良過ぎる奴はこれだから面倒なんだ。


 それに引き換えウチの旦那サマなんて、此処に来た時点で俺達の存在に気付いてこっち見てたし、あのクソガキ女をめちゃくちゃカッコ良くあしらってたし、最の高以外の何でもない。


 今はまだ様子見してるみたいだけど、いつか旦那サマは、ヤツらをボッコボコのギッタギタのゲログチャにするんだろう。

 俺としても最近まで好き勝手に使われてたので、その際には是非とも混ぜてもらいたい。

 生来から、基本的にあんまり感情が無いとはいえ、結局の所、不愉快でしか無かったのだから。


「ヤダ、何ニヤニヤしてんのよ、気持ち悪い」

「大丈夫、“真紅”アンタほどじゃないよ」

「ちょっと、ワタシを罵って良いのはヴェル様だけなの。アナタじゃ感じないんだから止めてちょうだい、気分悪いわ」


 うわ、なんか言い始めたこの気持ち悪いの。


「アンタこそ、俺の旦那サマなんだからそういう事すんの止めてよね」


 あ、俺のとか言っちゃった。

 でも旦那サマは俺の主なんだからあながち間違ってないよね、……って何考えてんだ自分気持ち悪い。


 ホントに旦那サマの事になると感情がポンコツになるな、俺。

 全然大丈夫じゃないよねコレ。


「なんですって……!? 誰がアナタのヴェル様よ!! ワタシのヴェル様なんだから!!」


 ガタッと席を立って声を荒らげる彼女の言葉は、全く持って聞き逃す事が出来ない程のものだった。




 

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