(二十)王経という少年

 崔氏はいちど退室して厨房へ食器を下げると、自室へ戻りがてら、瑟を一緒に運んでもらう人手を探そうとした。

 彼女の愛器は自分ひとりで運べる重量ではあるが、やや左右にかさばるので、別室へと慎重に運び込むにはふたりで運んだほうがよいと思ったのである。


 そして結局、王経おうけいという五つ年下の少年を呼んだ。崔氏の身辺にいることが多いが、崔家に隷属する僮僕どうぼくというわけではなく、近隣の自立した農家の子である。


 彼は、ほんの幼児のときに父親を失ったことから耕地の経営がゆきづまり、母親とともに仮作(借地農)として崔家に身を寄せる寸前までいったところを、崔林さいりんすなわち崔氏の族父によって助けられた身であった。


 崔林という男は大体において他者の動静に関心をもたないように見えるが、自身も早くに孤児となり貧苦を重ねたせいもあるのか、そのときは幼い王経の健気な孝行ぶりとその母親の農婦離れした聡明さにいちはやく目を留めて、自ら族人たちの間を周り説得を重ねたらしい。


 彼にしてはきわめて珍しい活動だったためか、結局それは聞き入れられ、王経ら母子は自家の耕地を維持できるよう崔家から人手を融通してもらいつつ、その引き換えに時宜に応じて崔家族人の家事を手伝うことになった。


 要は臨時で使用人になるわけだが、母子にとってはそれ以上の利点があった。崔林のはからいにより、王経に学問をする機会が与えられたからである。


 崔林の資力では族人の子弟と同様に里の小学へ通わせるのは難しいため、当初は彼自身が暇をみて王経に文字を教えることとしたが、それはじきに中断せざるをえなくなった。崔琰さいえんと同様に崔林もまた曹丞相に辟召へきしょうされ、遠方の県令に単身で就くこととなったためである。


 そんなわけで、崔林はせっかく着手した教育が頓挫することを惜しみ、自家の若い世代のうちで最も年長で、年少者の面倒を見ることに慣れている崔氏に王経の身柄を託したのだった。

 しばらくすると彼女も、冀州きしゅう別駕従事べつがじゅうじとなった叔父崔琰に呼び寄せられてぎょうに、そして叔父が丞相府官僚に任じられると許都きょとに住まう身とはなったのだが、叔父たちに比べれば清河の宗家に戻る期間が長いので、さほどの問題とはならなかった。


 そして王経の母親は、崔氏の身辺が忙しいときにかつての阿姊の後任のような形で臨時の手伝いを務めるようになり、いまでは母子ともども相親しむ間柄になっている。








「平原侯さまは、嬢さまを連れて行かれるのですか」


 布で覆われた瑟の反対側を持ち上げながら、王経は小さな声で問うた。崔氏は驚いて顔を上げた。


「どうして、そんなふうに思うのです」


「―――はっきりと伺ったわけではありませんが」


 王経は少しことばを切った。この少年の少年らしからぬ謹み深さを崔氏は好ましく思っているが、こんなふうに間を置かれると、妙に不安が募った。


「これまで何度か、嬢さまのお手伝いで平原侯さまのご寝室に伺候させていただいた際、侯はよく嬢さまのことをごらんになっていました」


「それは、―――そういうこともあると思うわ。毎日かたわらに侍ってお世話申し上げているのですから。

 それに、あまり不自然に凝視されているなら、わたしが先に気がつくはずです」


「それはそうなのですが、―――平原侯さまは、嬢さまのお顔だけではなく、歩きかたやお手元など、お姿全体を見ておられるのです。つまり、立ち居振る舞いをです」


「まさか、考え違いでしょう」


「あるいは、そうかもしれません。

 ―――ですが、平原侯さまがこのたび嬢さまの瑟をご所望になられたのも、それに連なるお考えではないでしょうか」


「連なる」


「いつか季珪きけい(崔琰)さまが徳儒とくじゅ(崔林)さまにおっしゃっていましたように、器楽のなかでも管弦は君子を君子たらしめるもの―――別の見方をすれば、奏者の品位が試されるもの、音にも姿態にもそのひとのありかたが映されるものだと、平原侯さまもそのようにお考えなのではないでしょうか。


 そして、嬢さまのがくを鑑賞なされて、いよいよお気に召されれば、鄴に連れて帰りお側に置かれたいのではないかと」


「そのようなことを、みだりに口にするものではありません」


「ですが、もし」


「静かに」


 崔氏は珍しく強いまなざしで王経を見据え、その先を制した。少年はなおも口をひらきかけたが、結局は逆らわず、瑟の運搬に専念することにしたようだった。


 瑟の反対側を持ちながら、そして対面の少年の頭上で総角(左右の結い上げ髪)が揺れるのを見ながら、崔氏はいまさらではあるが、十二歳の子どもが他者の観察の軌跡をさらに外から観察し、誰にも語ることなく己の内で分析していたという事実に少なからぬ驚きをおぼえた。


 そして、ここ数年来崔家に身を投じてきた多くの流民や破産農民のなかから、ほかでもなくこの少年を見出した族父崔林の眼力に、敬服の念を新たにした。


 丞相府でも清河崔氏の宗家でも、人物の鑑識といえば崔琰の本領と決まっている。崔氏にとってもそれはむろん誇らしいことではあるが、対照的にもうひとりの育ての親ともいえる崔林のほうはいつも不当なまでに注目されず、本人も好んで日陰者になりたがっているようにみえるのが、なんとも遺憾であった。

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