(十九)斉人の裔
「そなたも、
食後、器を厨房へ下げるため退席しかけた崔氏に、曹植は思い出したように尋ねた。瑟とは弦が二十五本ある大型の琴である。
「はい。―――なにゆえでございましょう」
「ときどき窓の外から、いろんな方向から聞こえてくる。
貴家の人々は琴より瑟を好むようだな」
「はい。わが家はもともとが
「斉人、―――ああそうか、崔とは斉の丁公の末子に始まる氏であったな。もとは
曹植がふとつぶやくのを聞いて、崔氏は軽い驚きをおぼえた。
自分自身の姓氏の由来を知悉するのは士人ならば当然であるが、他氏の起こりまで正確に把握しているのは博識の域である。
中原の東端、後漢のいまでいえばほぼ
秦漢以降は姓と氏がほぼ同義語として混用されるようになったのに対し、上古から春秋戦国のころまでは姓と氏には区別があり、姓が幹で氏は分枝に当たるものだった。
ゆえに斉の公族はみな姜姓であるが、そのうち丁公の子で太公望の孫にあたる
その後、斉君荘公の
後漢のいまは、崔業の弟を祖とする別系統の崔氏―――前漢初期に
とはいえ、涿郡崔氏が三公を出した当今の世でさえ、最も人口に膾炙する崔姓の人物といえばやはり、斉君殺しの崔杼である。ゆえに、崔姓と聞いて春秋斉国を連想する他姓の者は決して珍しくないが、そういうときはたいてい、「そうか、
この時期、涿と清河の両地以外には崔姓の者はほとんど分布していないので、ある種の珍しさがあるからこそ、そういう反応が返ってくるのだともいえる。
曹植はそうではなかった。崔杼以前の、本来の始祖の名を挙げてくれた。
ささいなことではあるが、我が家を尊重してくださっている、と崔氏は感じた。
ともあれ、清河崔氏一門にとって始祖の地はあくまで営丘ならびに崔邑であり、我らは斉人の
斉人なので瑟を嗜むと崔氏が答えたのは、かつて中原屈指の繁栄を謳歌した斉の都ではさまざまな奏楽が発展したが、楽器のなかではとりわけ瑟が愛好されたことによる。
後漢のいまでさえ「
「少し聞きたい。ここで鼓してもらえるか」
「おそれながら、
「あの川辺でのそなたの朗詠は好ましかった。音階を解する者はなべて管弦にも長ずるものだ」
さあ、と
音楽を深く愛することで知られる父曹操と同じく、曹植も
そもそも、彼の生母
その父母のもとに生まれた曹植は、幼少時から質の高い音楽に親しみ、一流の師に就いて管弦の奏法を学んできたに違いないのだ。
そんな風流公子の前で演奏を披露することになるなど、崔氏にとっては夢にも思わぬ仕儀であったが、娯楽らしい娯楽もないこの邸に長逗留をさせているのは、もとはといえば自分の不始末なのである。
「承りました」
と目を伏せながら、いくらか気が重くなるのはいかんともしがたかった。
叔父夫婦のもとで鄴や許都に暮らしていたころと違って、今年の初めに清河の宗家へ戻ってきてからの彼女は、農事の暦に従って各種の家政に追われており、瑟の演奏の練習に割くことのできる時間は少なかった。養蚕期に入る前だとはいえ、農村部の春先は春先で忙しい。
彼女は一族の若い世代のなかでは最年長であることから、族弟妹たちに対しては瑟を教える立場であるとはいえ、そこまで飛びぬけた上達の域に達しているわけではない。あくまで父祖以来の伝統を絶やさぬために、という思いで担ってきたことである。
外部から迎えた客人にあまり期待を寄せられても困る、というのが本心ではあった。
(―――でも)
でも、平原侯さまから何かを望まれるのはうれしい、というのもまた、本心であった。
それに気づくと、崔氏は我知らず顔が熱くなった。
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