(十五)邢顒と劉楨

「ここにおられたか、侯」


 曹植のそれとはおよそ対照的な、聞く者の衿を正させずにはおかない重々しい声がふいに背後から響いてきた。


 瞬間、崔氏は必死になって曹植の腕を振り切り、一、二歩距離を置いた。そして恐る恐る後方を振り返ると、重なり合った柳の枝を掻き分けつつ、四十年配とおぼしきひとりの男がこちらに近づいてくるのをみとめた。


 顔立ちにこれといった特徴はないが、声を裏切らぬ峻山のような威厳が額から口元に至るまでしっかりと刻み込まれ、がっしりした両肩の線にまで風格というべきものを漂わせている。


 ―――が、よく見れば、そこに現れたのは彼ひとりではなかった。


 男の背後、柳のすだれが少しずつ薄くなり途切れたその先に、彼がいま降りてきたばかりと思しき馬と何人かの騎兵が控え、さらにその後ろ、やや遠い木立の向こうからは馬車の列と、より多くの騎兵とがこちらに向かってくるところだった。


 馬車のうち何台かは、物資運搬のために清河のわたしばで雇ったものかもしれない。だが車列のうちの一台は、遠目にも別格の壮麗さを誇っている。おそらくは、列侯乗用の格式を具えるがゆえであった。清河下りの船に載せてきたのであろう。


「おお、子昻しこうか。今回はまた早かったな」


「早かったな、ではありません」


 怒りというよりは疲労と諦観をにじませた声で、子昻と呼ばれた男、すなわち邢顒けいぎょうは曹植に応じた。

 とはいえ、年若い主君に向けてとった礼はあくまでも丁重であり、常に秩序に従い己を律することを旨とする謹直な人柄を、挙措の端々からにじませていた。


「お戻りいただきましょう。みながお待ち申し上げております」


「そなたらに労をかけたのは悪かったと思っている。が、ほどなく戻ると書き残したのだから、わたしばの付近で待っていてくれればよかったのだ」


「侯の“ほどなく”を素直に待っておりましたら、路上で行き倒れのごとく泥酔されたお姿をお迎えするはめになるやもしれぬからですよ。いつかのときのように」


 そう言って邢顒のいかめしい肩の向こうから顔を出したのは、彼とはごく対照的にこの事態をどこか楽しんでいるような面持ちの、いくらか若い男だった。

 やや線の細い感はあるものの目鼻立ちも悪くなく、洒脱しゃだつでいながら押されても引かなげな物腰とあいまって、ぎょう城下の歌妓かぎなどにはもてはやされそうな印象を与える。


公幹こうかんか。子昻をなだめて気をそらせてくれればよかったものを」


庶子しょし(官名)の務めは、列侯のおそば近くに控えてご下問にあずかることですからね。まずは侯を見つけないことには仕事になりません。

 それに泥酔なら一両日で醒めますが、お気に召した下々のむすめを思いつきでかどわかしてこられたりなどしたら、後始末が大変だからですよ」


「人聞きが悪いことを言うな。俺が至るところでそんな不行跡をはたらいているかのようではないか。

 たしかに、若き日の父上のように花嫁泥棒なるものをいちどやってみたいと呟いたことはあったかもしれんが」


「いまは飲酒ぐらいで済んでおられるが、あなたさまのその血が騒ぐ日が来るのが我々には不安なのです。ともあれ未然に済んでよかった」


 そして公幹と呼ばれた彼は―――その姓名は劉楨りゅうていということを、崔氏は後日知ることになるが―――いかにも女慣れしている通人つうじんらしい遠慮のなさで崔氏の姿を眺めた。


 だがそれは好色な視線というわけでもなく、むしろ旅先の景物の一部として細部まで記憶し、詩材の蓄えにでも加えておこうとするような、ある種の突き放した観察を思わせるものだった。


「が、さすが曹丞相のお子といおうか、なかなかの慧眼であられますな。

 脱走から一日とおかれぬうちに、このような草莽そうもうの地で藍田らんでんぎょくを見出されるとは。

 さしずめ、付近のむらから野良仕事に出るところにでも目を留められたか」


 そして興味深げに邢顒のほうを見やり、微笑した。


「風流事にはとんとご関心のない子昻どのも、いまばかりは珍しく注視しておられるようだ。

 あるいは、遅い春をお迎えになられたか」


「公幹、いいかげんに口をつつしめ。

 そなたはいつか軽佻けいちょうさのために身を誤ることになるぞ」


 厳しい口調でそう切り捨てながらも、邢顒は彼に指摘されたとおり、崔氏のほうをひたと見つめるのをやめなかった。

 それは劉楨が向けていた視線とはまた別種の、明らかに何かを思い出そうとしている目だった。


「そこのむすめ、ここは、まだ東武城とうぶじょうの県内だな」


「―――はい」


清河せいが、東武城、―――そなた、あるいは、崔氏一門にゆかりのある者か」


「―――さようでございます」


「ああ、そうか」


 唐突に口を挟んだのは劉楨のほうだった。


「誰かに似ていると思ったら、崔季珪きけいどのだ。その目鼻立ちといい、身の丈といい」


「そうだ、思い出した。そなた、いや、貴女は季珪どのがお手元で養育されている姪御ではないのか」


 邢顒がふっと腑に落ちたように視線をやわらげた。


「だいぶ幼いころだったが、鄴で―――季珪どののご邸宅で何度か見かけた記憶がある」


「はい、―――邢子昻さま、お久しぶりでございます」


「なぜ、ここにこうしておられる」


「この地が本貫ほんがん(本籍地)ですので」


 質問の意図を外れていると知りながら、崔氏はあえて無難な答えを口にした。


「承知している。ご家中の事情で帰郷され、農事に自ら就いておられることをいぶかしんでいるわけではない。

 しかるべき時季に人手が足りなければ、主人の親族といえど野良に出ることもあるだろう。

 わたしが伺いたいのはそんなことではなく、どういう経緯で侯と知り合われ、今の今までふたりきりで向かいあっておられたのかということだ」


「―――それは、その」


「俺が溺れそうになっていたのを見かねて助けようとしてくれた。

 惻隠そくいんの情というやつだ」


 曹植が横から分け入った。


「溺れる?」


「そこの小川だ」


「―――この仲春ちゅうしゅんの白昼にどういう次第で水に入り溺れかけておられたのか、それを伺いたいものですな」


「興が乗ったのだ」


 今度こそ額を押さえずにはいられなさそうな表情になりながら、邢顒はかろうじて崔氏に顔を向けた。


「ともかく、われらが侯のご面倒を見ていただき礼を申し上げる」


「まったく、ありがたいことですな」


 実際われわれの手間がはぶけた、と言いたげに劉楨がつぶやく。だが、そうだろう、と曹植が応じる前に、彼は崔氏に向かってつづけた。


「と申し上げたいところだが、まず伺いたい。

 侯の左肩のお怪我のゆえをご存じか」


 劉楨の問いに促されたように、邢顒もはっとして視線を主君に移した。

 それまで左半身をできるだけ彼らの視野から隠そうとしていた曹植は、明らかに「まずい」という顔になる。

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