(十三)襲撃

「嬢さま、お待ちください」


 こわばったような声で呼び止められ、崔氏はふりかえった。阿姊はふだんの柔和さが消えた顔で、あたりを見回している。


「どうしたの」


「何か、誰か近づいているような気がいたします」


 崔氏は耳を澄ませてみた。わからない、と首を振った。


「念のため、あちらへ登って見渡しておきましょう」


 そういって阿姊は農道からやや逸れた見晴らしのいい丘を指しかけたが、ふと、逆の方向から馬蹄が聞こえた。

 顔を振り向けた時には、その一群は三、四騎と看取できる距離にまで迫っていた。


 砂埃にまみれ、摩耗してはいながらも革甲を身につけたその姿は、どう見ても近隣の農夫ではなかった。むろん崔家の部曲でもなかった。


 阿姊はほぼ瞬時に籠を振り捨てると、主人の小さな手を堅く握って脱兎の如く走り出した。

 崔氏は必死で阿姊の歩幅に遅れまいとしたが、ひたすら前だけを見ていたせいか、いくらもせぬうちに路上の石につまずき勢いよく転倒した。

 阿姊の手は主人の手が離れたことにも気づかぬかのように、みるみるうちに遠のいてゆく。


 代わりに背後から悠然と近づいてきたのは、馬蹄と金属の音だった。

 地面に強く打ちつけられた膝と掌の痛みすらおぼえぬうちに、崔氏は己の身が宙に浮かされるのを感じた。馬の生暖かい鼻息がほとんど耳元に達している。


 恐怖のあまりきしむような首をようやく振り向けても、斜陽を背に受ける騎人の表情はよく見えない。腰に下げた剣の柄に散る黒い血痕だけがかろうじて見分けられた。


 鄴へと回帰したはずの袁尚えんしょう軍からの逃亡兵か、あるいは長らくの平原籠城ろうじょうを終えて、ようやく羽根を伸ばそうと近郷に跋扈ばっこしはじめた袁譚えんたん軍の兵に相違なかった。


 崔氏は悪夢を振り払うように目を閉じ、開けてみたが、何も変わらなかった。頭上に覆い被さる人馬の影だけが、どこまでも黒く、大きかった。


「嬢さま!」


 気の触れかかったような叫びが、道の先から響いてきた。

 どうか逃げて、という思いよりも、助けて、という希求のほうが勝った。


 その願いがあやまたず届いたかのように、阿姊は全力で駆け戻ってきた。


 そのあと、阿姊と兵士らとの間でどんな話が交わされたのか、崔氏ははっきりとおぼえていない。


 記憶に焼きついているのは、阿姊がすぐそばまで至ったとたん、この寒村の郊外ではおよそ場違いなその妙齢の美しさに兵士らがいくらかどよめき、獣じみた興奮の色を増したこと、そして彼女と入れ替わりで突き落とされるように馬から下ろされた崔氏に向かい、「早く!」とかつてない語気で逃走を命じた阿姊の鬼気迫るような面持ちだけだった。


 そのあとはどこをどう走って崔家の塢門にたどりついたのか、これもやはりおぼえていない。最初の転倒時に地に打ちつけ出血した膝の痛みが増す一方だったことが、かろうじて思い出せるくらいだ。


 ふたたび記憶の幕がひらくのは、門楼の番兵に迎え入れられた当初、説明らしい説明もできずにひたすら泣きじゃくったときからである。

 それから時を経ずして、叔父は熱が引ききっていない身体で病床を抜けて馬を出し、動員できる部曲らとともに塢を発した。崔氏は家に留まるよう命じられたが、ほとんどしがみつくようにして叔父の鞍に同乗を請い、案内役となった。

 むろん、くだんの場所にはすでに人馬の影はなかった。


 その後も崔琰は彼女や部曲らを連れて夜通し遠近の草沢を回り、その翌日には「婢女ひとりのためにそこまでするのか」と捜索をしぶる族人らを説得してほうぼうに部曲を走らせ、さらにはすでに市で売られていることを危惧して内外の県城にまで使いを走らせたものの、成果らしい成果はなかった。


 が、三日ののち、阿姊との再会はあっけなく果たされた。東武城と甘陵かんりょうの県境に近い廃村の一軒に火を用いた跡があり、さらに奥へ踏み込むと、人間の身体が横たわっていた。同行させていた崔氏の顔を叔父は咄嗟とっさに片手で覆ったが、それより早く彼女の目にはうす暗がりの光景が届いていた。


 阿姊の可憐な顔立ちは、苦痛と恐怖にゆがんだまま時を止めていた。衣服がほとんど引き裂かれるようにして乱されていたのは、阿姊の抵抗があまりに激しかったためかも知れず、白い咽喉が一息に裂かれていたのは、「何でも言うことを聞く」という条件で主人を解放させ自らついてきたにもかかわらず、その場に及んで必死の抵抗を始めたことに兵士らが逆上したためかもしれなかった。


 崔氏の視界を背でさえぎるようにして、同行の部曲たちは遺体の回収をおこなった。叔父の掌がようやく顔の前から去ったときには、そのうす暗がりの中には衣服の切れ端も残されていなかった。


 叔父に手を引かれるまま崔氏は動き出し、崩れた敷居の上でつまずきかけたとき、獣のような哭声とともにその場にくずおれた。

 後にも先にも、己のうちから発したことはいちどもない声だった。

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