第14話

        ◆


 痛みはついに消えた。

 細く細くセイルンが息を吐き、手を放す。血に染まっている手を、ハンカチを取り出して拭う彼の前で、私は自分のわき腹を確認した。

 こびりついている血の下には、傷跡こそあるが塞がっている。

「魔法を使うのですね」

 そう質問すると、そういうことです、とセイルンがちょっと申し訳なさそうな顔になった。

「あまり自慢もできませんが、魔法を使うのです」

「私が護衛などせずとも、暗殺者を退けられる程度に?」

 冗談交じりに言葉を向けると、セイルンは小さく笑う。

「どうでしょうね。それは秘密です」

「傷を治していただけたのですから、これ以上は聞きません」

「あ、その、首筋の傷も治しましょうか?」

「ありがとうございます。ですが、この首の傷はそのままで、大丈夫です」

 私は来ている着物の袖を裂いて、拭っておいた。あまりに雑なやり方に、セイルンが困惑する。

「ちゃんとしないと熱が出たりして大変ですよ?」

「離れていますから」

 言って、袖がなくなって露わになった腕を見せる。

 そこに傷跡がいくつもあることにセイルンも気づいたようだ。

「えっと、その傷跡は、戦いで?」

「大半は稽古です。シルバー流ではこれが普通です」

 怖いですね、とセイルンは演技とは思えない、漏らすような声でそう表現した。

 剣士が傷を怖がっているようでは敵を倒せない。いつからか私はそう思うようになっていた。

 ある時、道場を去ると決めた門人が、私とアキヅキ師を詰ったことがある。

 あんたたちは狂っている。その狂気についていくことなど、まともな人間には無理だ。

 私はそれを聞いて、笑った。アキヅキ師も同じだった。

 笑うしかなかった。

 狂気の剣術。

 しかし剣士という存在が、まともだろうか。

 殺人術を磨く人間が、まともか?

 剣で相手を傷つけ、殺す生き方が、まともか?

 答えは出ている。

 おかしいのだ。最初から。

 剣を手に取るなど。

 剣を学ぶなど。

 狂気の道だ。狂っていなければ進めない道。

 セイルンが怯えるのもわかる。彼が感じていることもわかる。痛みを痛みとせず、恐怖を恐怖とせず、平然と振る舞う人間は異質だろう。そんな人間は恐怖の対象だ。

 セイルンが恐怖することを、私はどうとも思わない。

 生き方が違う。それ以上に、生きている世界が違う。

 同じ場所にいても、明確な隔たりが、超えることのできない壁がある。

「あなたの剣は、凄まじい」

 いつの間にか沈黙していた二人だが、セイルンがそれを破った。

 彼は私をまっすぐに見ていた。

 ちょっとだけ、私は狼狽えていた。彼の瞳に恐怖も嫌悪も、なかったからだ。

 真摯な眼差しだった。

「命が宿っているように見えました」

 恥ずかしいことを言うじゃないか。私の方が恥ずかしくなる。

 しかしセイルンは気にした様子もない。

「僕を守るためにあなたが傷を負ったことを、忘れないでいます」

「いいえ、忘れてください」

 咄嗟にそう応じた私が可笑しかったのだろう、セイルンが口元を隠して笑い出す。

 私の脳裏には、様々な人間が浮かんでいた。

 用心棒を始めて、依頼者を守り抜けなかったことが何度もあった。

 怨嗟の声を上げながら息を引き取るものもいた。遺族が私を徹底的に罵倒したこともあった。

 血と涙。

 魂が消滅する最後の息と、残されたものの絶叫。

 私のことを覚えていると言ってくれたものは、ほとんどいない。いるとしても、憎み、恨み、復讐を誓って、私の存在を胸に刻んだものだ。

「ありがとうございました、マーガレットさん」

 セイルンが律儀に改めて頭を下げてから、首を傾げた。

「その血まみれの服装では、目立ちますね」

 不意な話題の転換に「ですね」と咄嗟に頷いてしまったのに、セイルンも頷く。

「刀鍛冶を訪ねるのはやめにしましょう。そういう運命だったと思うことにします。部屋を取っている宿まで送ってください」

 頷いてから、私はさりげなく着物を確認した。片袖がない上に、血液でドロドロとは、困ったな……。

「これで隠してください」

 言うなり、セイルンが上着を脱いだ。上等なものに見えたけど、受け取ってみると軽く、なめらかな手触りをしている。高級品らしい。

「差し上げます。命を救って頂いたお礼です」

 事も無げに言うセイルンに、私は正直に頭を下げ、素早く上着を着た。前を閉じれば血は隠せる。

 行きましょう、とセイルンが歩き出そうとして、すぐに振り返る。ちょっと眉がハの字になっていた。

「ここがどこかわからないので、案内してもらえますか?」

「ええ、はい」

 私は先に立って歩き出した。

 路地から通りへ出る時、周囲を改めて確認する。誰かに見張られているようではない。あの四人組の暗殺者はいったい、どこから来たのだろう。どこで私たちを捕捉したのか。不気味だけど知る術はない。

 彼らの剣術、特に二刀流の男の技は気になった。後で念入りに検討することにしよう。

 通りは早めに仕事を終えた者たちで混み合っていた。私は生臭い匂いを発しているはずだけど、気にする者はいない。みな、これから帰る家や、食べる食事、飲む酒に気を取られている。

 セイルンに宿の名前を聞くと、ほどほどのサービスを提供する店だ。暗殺者に襲われるものが泊まるにしては、やや不安である。

「別の宿に変えてみてはどうですか?」

 思わずそう提案すると、「大丈夫です、ご心配なく」とセイルンは微笑んだ。

 心配するな、というのは無理がある。ただ、誰かが宿で待っているのかもしれない。護衛、とか。しかしそれなら私たちが襲われた時に、本来の護衛が飛び出してこなかった理由がわからない。

 私に正体を知られたくなかった? 私が敗れ、倒れたところで姿を現わす計算があったのか。

 それにしてはだいぶ際どい。

 こういう裏の事情を、用心棒が気にしたところで仕方がない。

 やがて宿の看板が見えてきた。

 仕事はどうやら終わりそうだ。

 無事に終わった、とは言い難いけど。



(続く)

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