第3話 家庭教師と……
書斎の空気は、まるで時が止まったかのように静かだった。
私――レミア・フィリップは、一冊の分厚い魔術書に目を通していた。この世界に来てからというもの、魔術の知識は私にとって不可欠だ。
「はへぇ…意外と魔術って何でもありかと思ってたけど結構制限ばかりなのね。」
ここは、ゲーム「アカシック・エンブリオ」の世界。
悪役令嬢としての未来を変えるためには、この世界の力の根幹を知る必要があったのだ。
ページを捲ると、難解な言葉の羅列が現れる。だが、それらを一つずつ解読することに私は奇妙な満足感を覚えていた。魔術とは何か。この世界のルールとは何か。学べば学ぶほど、少しずつだが自分がこの世界の「仕組み」を理解していくのがわかる。
だが、それと同時に物語に現れるネームドキャラが上澄み的な存在なのが目に見えてわかる。
兄のガウェインがまさにそうだ。
学園に戻ってからは稽古をつけてもらえないが、それでも事あるごとに魔鏡…わかりやすく言うとビデオ通話が可能な魔道具を使って私の形をみてもらっているが噂で聞くと学園で剣術の講師を倒したらしい。
学園に招かれるような人間が中学生が負けているのだ。もう、わけが分からん。
そんなことを考えていると、扉をノックする控えめな音が響いた。
「お嬢様、お父様がお呼びです。」
声の主はメイドのクラリスだった。私は顔を上げ、しおりを挟んで本を閉じた。
「父上が?」
普段、父から直接呼ばれることはそれほど多くない。少しの疑念を抱きながらも、椅子を引いて立ち上がり、書斎を後にした。
---
フィリップ家の執務室は、その名に恥じない重厚な造りだった。磨き上げられた木製の机、壁一面を覆う書棚、そして燭台の揺れる灯りが、部屋全体に厳格な雰囲気を漂わせている。
部屋の中央に座る父――グレン・フィリップ公爵が、私を見て微かに微笑んだ。その表情は柔らかかったが、どこか重要な話を持ち出す前のものだと感じ取れた。
「レミア、座りなさい。」
父の言葉に従い、私は父の正面に座った。その目を真っ直ぐに見つめ、次の言葉を待つ。
「お前に家庭教師をつけることにした。」
その言葉に、一瞬、思考が停止した。
「家庭教師、ですか?」
「そうだ。」父は静かに頷いた。「魔術についての専門家だ。基礎から応用までしっかり指導してくれるだろう。」
その言葉を聞き、私は少し緊張を覚えた。
レミア・フィリップには、魔術適性はない。これは、恐らくフィリップ家の人間なら知らないはずがない。
ゲームでは、ソレが原因で平民出身で魔術の才能があるヒロインを虐める理由になってもいる。
父はいつも慎重な人だ。それだけに、このような重要な提案をするには何か理由があるはずだ。
「その方は、どのような人物なのですか?」
父は手元の書類を軽く叩きながら、言葉を続けた。
「彼は私の知り合いの弟子で、過去に魔術適性ゼロだった者を見事に魔術師として育てた経験を持つ。非常に優秀な若者だ。驚きなことに…お前と同い年でもある。」
「同い年……?」
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。脳裏にいくつかの可能性が浮かび、その中で一つの名前が明確になっていく。
「あぁ…ロクトと言うらしい。」
(ロクト・アグウェル……!)
ロクト・アグウェル。彼はゲーム「アカシックエンブリオ」における重要なキャラクターの一人だった。スラム街出身の天才魔術師であり、ヒロインのライバルがレミアならば、彼女の攻略対象の敵は彼という存在だ。
そして何より、私にとっては見逃せないキャラクターだった。
ゲーム序盤であれば彼は一見、優秀で礼儀正しい人物に見える。なんならヒロインにも優しい一面すらみせるのだが、その裏には深い王国への憎悪を秘めている。王国の貴族社会に見捨てられた過去を持ち、その復讐の手段として「悪役令嬢レミア」を利用しようとするのだ。
「どうして、こんなタイミングで彼が……?」
ゲームの記憶を辿れば、ロクトがレミアと出会うのは学園に入学してからのことだ。家庭教師として屋敷に現れるなど、原作にはなかった展開だ。
いや、そもそも王子の訪問等も記憶外だ。私が…御園沙織の干渉とかによって何かが変わったのか?
「レミア、どうかしたのか?」
父の声に現実へと引き戻される。気づけば、沈黙が長引きすぎていたようだった。
「あ……いえ。特に問題ありません。」
そう答えながらも、内心では複雑な思いが渦巻いていた。
ロクトがこの家に来るということは、私にとって絶好の機会でもある。彼が悪役になる前に接触し、彼の抱える問題を解決すれば、未来は変わるかもしれない。
だが、それは同時に危険でもあった。もしも彼がすでに「悪役」としての道を歩み始めているとしたら――この家が乗っ取られる可能性すらある。
でも、彼がそんな道を選ぶ理由は……
思考の中で、一つの事実が浮かぶ。ロクトが悪役となる理由は、王国への恨み。それは彼が生まれ育ったスラム街での過酷な生活によるものだ。彼を変えることができれば、未来を変えることも不可能ではない。
ただ、なぜこのタイミングなのか……
再び疑問が浮かぶ。ゲームでは学園で出会うはずの彼が、なぜこんなにも早く現れるのか。
「……父上。その方が、魔術適性ゼロだった者を魔術師に育てたと仰いましたが、どうしてそんなことが可能なのでしょうか?」
思わず口にしていた。私自身、この世界での魔術は血統や才能によるものだと学んできた。勿論、平民の中でも時折魔術適性があるものが現れることはある。だが、そもそも0の人間を1にすることは本当なのか。
その前提を覆す技術を持つ人物がいるという事実が、単純に信じがたかったのだ。
「それは、彼の卓越した指導力と学びの成果だろう。」
父は微かに笑いながら答えたが、その簡潔さに物足りなさを感じた。それに、笑みの中に父の苛立ちが感じも取れた。その理由は、分からないし。恐らく、聞いても教えてはくれないのだろう。
「もう少し詳しく知ることはできないでしょうか?」
私の追及に父は眉を少し上げ、珍しく私が熱心であることに驚いた様子だった。しかし、それ以上の詳細は知らないらしく、次の言葉はこうだった。
「詳しいことは本人に尋ねるといい。それも家庭教師をつける理由の一つだ。なにはともあれお前が受け入れてくれるなら、明日には届くから指導を始めてもらう。」
父の声に再び意識を引き戻される。私は迷いを振り払うように、小さく頷いた。
「分かりました。」
そう答えながらも、心の中では一つの決意を固めていた。ロクト・アグウェル。この人物が私の前に現れたのは、きっと偶然ではない。彼とどう向き合うかで、私の未来は大きく変わるだろう。
「ん?届く?」
---
父の執務室を後にしながら、私は深く息を吐いた。この展開は私にとって予想外だったが、それでも乗り越えなければならない。
「ロクト・アグウェル……。」
その名前を呟きながら、私は再び自分の部屋へと向かった。
部屋に戻ると、窓の外に広がる夕焼け空が目に入った。オレンジ色に染まった空を眺め、椅子に腰掛ける。自分の中で渦巻く不安や疑念を整理するため、深く息を吸い込む。
「…嘘かもしれない。」
まず最初に浮かんだのは、その可能性だった。父が話した、ロクトが「魔術適性ゼロだった生徒を魔術師に育てた」という話。それは本当なのだろうか?
「もし、あれが彼自身を売り込むための嘘だったとしたら……?」
そう考えると、全てが辻褄が合う。スラム出身の彼が、貴族社会に入り込むためには相応の「実績」や「特別さ」を持つ必要がある。適性ゼロから魔術師に育てたという実績があれば、どの貴族でも彼を家庭教師として迎え入れたくなるはずだ。
それに父の苛立ちも気になる。
だが、弟子というのが引っかかる。そんな情報も原作にはない。
「何があっても操られないようにしないと……。」
私はそっと拳を握り、決意を新たにした。彼がどれだけ優れた魔術の知識を持っていようと、どれだけ巧みに言葉を操ろうと、私は冷静に対処しなければならない。彼がこの屋敷に何を求めているのかを見極め、それに対抗する手立てを考えなければならない。
しかし、それと同時に、別の思考が私の頭を埋め尽くした。
「なぜ彼は攻略対象じゃないの?」
私の口から自然とそんな言葉が漏れる。この世界は、ゲーム「アカシックエンブリオ」の中。そこには多くの攻略対象キャラクターが存在し、プレイヤー――つまりヒロインが彼らと関係を深めながら物語を進めていく仕組みだ。
だが、ロクト・アグウェルはその攻略対象には含まれていない。サブキャラクターとして登場し、ヒロインにとっては重要な存在だが、恋愛ルートは用意されていなかった。
そもそも、救われるルートが無かった。
「もし彼が攻略対象だったら、ヒロインと同じ動きをすればよかったのに!」
私は頭を抱えた。ゲームの中では、ヒロインが主人公たちの心を解きほぐし、彼らの抱える問題を和らげるイベントがいくつも描かれていた。もしそれをそのまま利用できれば、私も彼の悪意を消すための手がかりを掴めたかもしれないのに…。
「そう簡単にはいかないか……。」
溜息をつきながら、私は顔を上げた。自分に与えられた情報だけでは、彼の真意を完全に見抜くことは難しい。まずは、明日だ。
--
時は、数時間前に遡る。
アグウェルがぼんやりしていると、掃除仲間の声で現実に引き戻された。「おい、アグウェル!聞いてたのか?」声をかけた少年が心配そうな顔で彼を覗き込む。隣の少年も同様に気にかけている様子だ。アグウェルは微笑みながら答えた。
「悪い、ぼーっとしてた。」
「大丈夫かよ?」
「それにしてもさ、アグウェルって相変わらず悟ってるように見えるよな。なんか、一度死んでるみたいな感じっていうか。」
「分かる、同い年なのに妙に大人びた雰囲気があるんだよなぁ。」
二人は顔を見合わせ、納得したように頷き合う。彼らの視線には、子供特有の大人びた存在への憧れが宿っていた。しかし、そんな会話を聞きながら、アグウェルは心の中で冷や汗をかいていた。
(子供って本当に勘が鋭いよな…。)
アグウェルという名前は、この孤児院で与えられたものだ。本来の名前は黒田勒斗。日本で普通の高校生として過ごしていたが、10年前、腐った牛乳が原因で猛烈な腹痛を起こし、学校のトイレに籠もったところ、光に包まれて異世界に転移してしまったのだ。目を覚ますと、赤子としてこの孤児院に拾われていた。それから時が流れ、いつの間にか今の年齢になっていた。
当初は元の世界に帰りたいという思いもあったが、7年も異世界で暮らすうちにその欲求は消え、むしろこの世界の魔法に魅了されるようになっていた。アグウェルは、魔術の可能性を追求し、この世界で新たな人生を充実させようと心に誓ったのだ。
礼拝堂の掃除を終え、自室に戻ろうとしていたアグウェルは、青髪の少女ジーナに呼び止められた。彼女は同じ孤児院で育ち、アグウェルより2つ年下だった。ステンドグラスの光を浴びるその姿は、聖女そのものだったが、口を開くと少々破天荒だった。
「アグウェル、司教様からグリファスの試験結果が届いたわ。……残念ながら、落ちたみたい。」
アグウェルは軽く肩をすくめた。「そうか。」
(自信はあったけど、まだまだ実力不足だったか。)
ジーナは続ける。「落ちた割にはあっさりしてるのね。もっと落ち込むかと思って、膝枕して慰める準備までしてたのに。」
そう言いながら、ジーナは赤子用のおもちゃを両手いっぱいに取り出し、自信満々の表情を浮かべた。その様子にアグウェルは背筋を凍らせた。
「いやいや、なんで同級生相手に赤ちゃんプレイを強制しようとしてんだよ!俺にそんな趣味はねえ!」
ジーナは悪びれる様子もなく微笑む。「司教様には評判良いのよ。貴方もほら、おぎゃりなさい」
「誰がおぎゃるか!」
そんなやり取りの中、ジーナはふと真面目な表情に戻った。「それでも、まだ諦めていないなら司教様のところへ行くといいわ。」
アグウェルは即答する。「もちろん。」
その瞬間、ジーナは手を叩き、孤児院の仲間たちが物陰から現れた。アグウェルが驚く間もなく、ジーナは後ろから彼に抱きつき、布を口元に押し付けた。
(眠り薬…!)
理解したときには、アグウェルは意識を失い始めていた。最後に見たのは、ジーナの泣きそうな顔だった。
人垂らし悪役令嬢は、乙女ゲー世界を生き抜く。 長谷川さん @himajin_0524
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