第一章 縁切り神社の怪異⑮
「ここらは足下が悪い。君はここに座って休んでてくれ。俺は、ぐるっと庭を見てくるから」
庭の方は玄関前よりもさらに背の高い雑草がこんもりと生えているようだ。
何年も生えっぱなしになっているのだろう。
たしかに、懐中電灯があっても足下がおぼつかない亜寿沙は足手まといになるにちがいない。
「わかりました」
素直に伝えると、阿久津は一つ大きく
「じゃあ、ここで待っててくれ」
阿久津はそう言うと、庭の方へと回っていく。
亜寿沙は段差のところに腰を下ろして、玄関周りを懐中電灯で照らして見た。
建物はレンガ風のタイルで彩ったモダンな外壁をしていたが、あちこちタイルが
もう少し季節が進めば蟬だったり、秋の虫だったりが
亜寿沙は懐中電灯を横に置くと、なにげなく自分の両手のひらに目を落とす。
さっき尻餅をついた拍子に、手のひらにも土や草がついていた。
手をこすり合わせて払うと、ふわりとある香りが鼻を
草の匂いとも土の匂いとも違う。しかし、どこかで
驚いて亜寿沙は手のひらを鼻にあてて、鼻いっぱい吸い込んだ。
ほんのわずかな香りだが、亜寿沙の
(この匂い、以前どこかで……。それに、一体どこで手についたの?)
直近で触れたものといえば、阿久津の手が思い浮かんだ。
(彼の手についていた? いやそれならもっと早くに気づいたはず)
尻餅をついた際、手についた土や草。
その前に門の
亜寿沙はハッと顔を上げると、傍らに置いていた懐中電灯を握りしめて門扉に駆け寄った。
門扉に直接鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅ぐ。
他人に見られたら面倒なことになりそうだが、いまは深夜。周りに人の姿は皆無だ。
遠慮なく匂いを嗅ぐが、門扉からは
(ここじゃない。じゃあ、どこでこの匂いが……。あ、そうだ! もしかして!)
懐中電灯で門扉を照らすと、すぐにそれは見つかった。
鈍い光を放つ、門扉にかけられた南京錠。さっき亜寿沙がそこにかけたものだ。
身をかがめると、南京錠に触れんばかりに鼻を近づけた。
香ってきたのは、金属の香りともう一つ。
さわやかな
(これだ! この匂いが私の手についたのね)
それと同時に、以前この匂いをどこで嗅いでいたのか思い出す。
任意聴取していた情景が頭に浮かんだ。あれは誰だったか。そうだ、山際綾子の元上司である柳川篤志がつけていた香水だ。
あの香水に使われていたのは柑橘系の香料だった。そこに混ざっていたシダーウッドとバニラの甘い香り。
その香水と寸分
香水は手首や首元につけることが多い。そのため手のひらにも匂いがついてしまい、物を握ったときに匂いがうつることがある。
「あ、阿久津さん!」
柳川篤志の香水の香りがするということは、彼が最近ここを訪れた可能性が高い。
亜寿沙は慌てて立ち上がると、懐中電灯の明かりを頼りに阿久津のあとを追った。
草をかき分けて、ぐるっと家の裏に回るとそこには予想以上に広い庭が広がっていた。それに低木があちこちに植えられていて、人影と見分けがつきにくい。
「阿久津さん! どこですか!」
懐中電灯で辺りを照らすものの、光は近くの低木や庭に置かれた朽ちたベンチなどを照らし出すだけで阿久津らしき姿は見えない。
しかしすぐに左手の奥から阿久津の声が返ってきた。
「どうした?」
声の聞こえ方からして、十メートルくらい離れているようだ。
「ちょっと、気づいたことがあって!」
声を上げると、阿久津の方からも、
「俺もちょっと見てほしいものがあるんだ。いま、そっちにいく。待っててくれ」
言葉の通り、ガサガサという草を踏む音とともに暗闇から阿久津が姿を現した。
「見てほしいものって、もしかして……」
亜寿沙は、ごくりと
「来ればわかる。ちょっと握るよ」
阿久津は亜寿沙の手を握ると、来た道をもどっていく。亜寿沙も足下に気をつけながらついていった。
阿久津に連れて行かれたのは、亜寿沙がいたところとは庭を挟んで反対側にある外壁のそばだった。
阿久津は亜寿沙の手を放すと、地面を指さす。
「ここなんだけどさ。見てみてくれ」
阿久津が指さす先に亜寿沙は懐中電灯の明かりを向ける。
地面が照らされて白っぽく浮かび上がる。
これだけ草に覆われた庭だというのに、縦横一・五メートルほどの四角い一角だけ草がない。
いや、元はここにも草が覆い茂っていたのかもしれない。土の中に枯れた細長い茎が半分埋もれるようにして突き出していた。
亜寿沙はそれをつまんで引っぱってみる。何の抵抗もなく茎はすっと抜けた。
ここの土は地面本来の堅さがない。まるで掘り返されて埋め戻されたかのようだった。
「阿久津さん。私も気づいたことがあるんです。そこの門の南京錠に、香水がついていました。その香水、以前、柳川篤志さんを任意聴取したときに彼から香ってきたものと同じものだったんです。もしかして彼は、最近ここに」
そこまで言ったところで、亜寿沙は声をなくす。
ドガッという鈍い音と共に、たったいままで目の前に立っていた阿久津が突然地面に
阿久津の背後の暗闇に、何か長く大きなものを振り上げる人影のような輪郭がうっすらと浮かび上がって見える。
危ない! と叫ぼうと思ったのに、声が
再び人影が阿久津に向けて長く大きなものを振り下ろす。
しかし、そのときにはもうそこに阿久津はいなかった。
あれ? いままでそこに
亜寿沙がそう思ったのと同じように、襲撃者も阿久津の姿を見失ったのか今度は亜寿沙の方に向かってきた。
そこにいたのは、金属製の長いスコップを手にした柳川篤志だった。
「柳川さんっ!?」
亜寿沙の口から叫び声が漏れる。
突然の明るさに一瞬
逃げなきゃ、やられる!
そう思うものの足が言うことを聞いてくれない。
こんな窮地なんていままで体験したことがなかった。
柳川の動きが、スローモーションのように見える。
これがタキサイキア現象というものなのだろうか。
柳川がスコップを振り下ろしてくる。
亜寿沙は逃げることもかなわず、ぎゅっと目を閉じてしまう。
一瞬、死を覚悟しそうになった。
だがスコップが振り下ろされる前に、柳川の身体が勢いよく亜寿沙のすぐ横の地面へ倒れ込んだ。
いつの間にか柳川の背後に回り込んでいた阿久津が、柳川の背を思い切り
そのまま阿久津は柳川の背中に右足を置いて押さえつける。ただ片足を置いているだけなのに、地面に両手をついて必死に起き上がろうとする柳川を完全に封じていた。
「現行犯逮捕だ。岩槻、手錠を出してくれ」
「は、はいっ」
亜寿沙が手錠を取り出すと、阿久津は片膝で柳川の背を押さえ込んだまま柳川の両手を後ろに回し、手錠が掛けやすいようにしてくれる。
ガチャッと音を立てて手錠が固定されると、ようやく亜寿沙はほっと息をつけた。
阿久津は柳川から足を離して、彼を引っ張り起こした。
そのころにはもう、柳川はすっかり大人しくなっていた。
「柳川篤志だな。公務執行妨害及び暴行の現行犯で逮捕する」
「はい……」
がっくりとうなだれた柳川は小さく
「あと、夜が明けたらそこの地面も掘ってみるか。だいたい何が出てくるのかは想像つくけど」
「……そうですね」
そこまで言ってから亜寿沙は手に何か
手には、べっとりと赤い血のようなものがついていた。
「え、血!? もしかして」
阿久津に懐中電灯を向けると、彼は
その額から赤い血が幾筋も垂れている。頭頂あたりを怪我しているようだ。
「さっきスコップで殴られた傷ですか!?」
慌てて亜寿沙がトートバッグからハンカチを取り出して差し出すが、阿久津は困ったように手で遮った。
「大丈夫だって。俺、傷の治りは早いから」
「それだけ血を流してて、大丈夫なわけないでしょう!? 本部に連絡したらすぐに病院に行ってください!」
「だから、本当に大丈夫なんだって。ほら、もう血は止まってきてる」
「え……?」
暗い上に傷は髪の毛の中のようなのでどうなっているかまでは見えないが、阿久津が手で額の血を
「言っただろ。俺は鬼に
「それでも、頭を打ってるんですからちゃんと病院でみてもらってください」
なおも譲らない亜寿沙に、阿久津は小さく苦笑を浮かべて
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