人間性と果たした業績は別のもの、そう考えては貰えないのだろうか
- ★★★ Excellent!!!
好きなドラマや映画、番組などが出演者の不祥事で永遠に抹消されてしまう。
近年度々起こる事象です。
犯罪を犯した人を肯定する、という訳にはいかないということはわかります。
番組スポンサーの販売に影響するような人を使い続けるわけには行かない、ということも。
しかし、果たした感動と築いた業績はそれとは別に考えて見ても良いのではないかと思うのです。
その業績を積み上げるために、彼はどれほど身を削っていたのか、そのすり減らした心の対価を、民衆は彼に払っていたのだろうか、と。
英雄には人格者でいてほしいというのは自然なことだ。血塗られた英雄など誰も望んでいないのかもしれない。
しかし、実績を挙げたことで、何も考えずにその人を無条件で人格者と結びつけるのは間違っていると思う。
業績には誉を、犯罪には罰を、その原則は守られるべきであると思う。
業績と人格を無条件で結びつけるのは明らかに間違っていると思うのだ。
過去には、破天荒な実力者が何人もいた。
今では右を見ても左を見ても、お行儀のいい人ばかりだ。
そして、そんなお行儀のいい人でさえも些細な躓きで栄誉を剥奪されていく。
いったい誰がこれを喜ぶのだろう?
以前と比べ息苦しく住みにくい世の中になっていっていると思わないのだろうか?
結果、小賢しくずる賢いやつだけが人を皮肉って喜んでいるだけではないだろうか?
陰キャと陰険な人間は、全く違う。私は陰キャの自覚はあっても人の不幸や失敗を喜んだりはしない。
その重圧はたった一人に背負わせて良いものなのだろうか?
果たした業績に見合う程の何かを、国は、社会は、きちんと与えていたのだろうか?
野口英世を英雄視して紙幣の肖像にまで持ち上げた我々が、その事を省みないというのはあまりにも愚かではないだろうか。
だからもっと柴三郎を……イトシノドンネルヨンデネ…ゴホンゴホン
人格者ばかりが業績をあげられるわけではない。犯罪者の成果さえも貪り喰らって我々は今まで生きてきたのだ。
我々の選びとった、資本主義の原理とは、そういうことではなかったのか?