第22話 引き取り


 日曜は朝から晴れた。カーテンのチラつきでよく分かる。それにしても――。


「まだ七時って……」


 今日は猫を引き取りに向かう日。朝から気が逸っているのだろう。


 と思っていると、ケータイが鳴る。


『貧血に効くコーヒーというものはあるかしら……』


 いきなりだ。


「ないよ。日曜なんだから、もう少し休んでたら? 鏡でチラチラやってないで」


『けれど、今日はマリィを迎えに行く日よ。死ぬ気で起きるから目玉焼きとクロワッサンとのモーニングセットをお願い』


「ないよ、クロワッサンとか」


 僕は渋々起き出してキッチンへ向かう。あった。クロワッサン。いつの間に。


「ゆっくり起きてきて。僕も時間がかかるから」


『そうね。シャワーを浴びて行くわ』



 ひとまず寝癖を直して服を着替えて、ご注文の品を眺める。日曜は僕の家で食事を、と言ったのは自分なのだから、ここはしっかりと朝食を作らなければ。


 田村さんほどには上手くいかないキャベツの千切りを用意して、コールスロードレッシングで和える。それが馴染むまでに皿を二枚用意して目玉焼きを焼く。ポットにお湯をかけ、クロワッサンをオーブンへ入れる。キリマンジャロのドリップが終わると鍵の開く音がした。


「おはよう、いい香り」


 ブルージーンズに赤いロングTシャツというラフな格好で現れた。赤いワードローブも持っているのかと小さなことに感心する。


「ちょうどだよ。座ってて」


 まずはコーヒーを運ぶと、サラダと目玉焼きとクロワッサンをワンプレートにしてテーブルへ乗せた。


「本当に出てきたわ。冗談のつもりだったのに」


「そういうこと言わない。日曜日は僕が作るって決めたんだから」


「そうね。ありがたいわ。頂きます」



 二枚の皿の上でカチャカチャとフォークの音がする。もう一年近く聞いていなかったせつない既視感。


 食事が終わると、


「ごちそうさま。美味しかったわ。洗い物は私がするから」


「油もの、苦手じゃなかったっけ」


「克服したわ」


 まあ、そうだろう。洗い物のできない居酒屋店員というのもアレだ。



 午後九時を三十分回ってもう一杯コーヒーを淹れる。今度は田村さんが。


「それで、引き取りって何時から行くの?」


 彼女はカップをソーサーへ置くと、


「それが、どうすればいいか分からないの。ドキドキしてるのよ」


「難しいことなの?」


「住所と名前を書いてハンコを押すだけ。そうすればもうマリィは私の家族」


 だったら――。


「一緒についていくから、時間になったら行こうよ」


「ええ――心強いわ。お昼までには行くわ。今日は萬代カレーも食べない」



 父が来ると宣言していた午前の十時前にマンションを出てバスセンターへ向かった。彼女はバスのシートでずっとソワソワしていた。可愛らしいところもあるのだと、気づかれないように微笑んだ。



 日曜のバスセンター広場では、また賑やかにイベントが行われている――。


 田村さんはそれすら眼中になく、目的地へまっすぐ歩く。僕もすぐあとをついてゆく。


「あの――マリィを――」


 ケージの中を覗いている子供たちの群れを追い越し、逸る様子でテーブルへ向かう彼女。


「マリィ、ですか?」


 受付らしいお姉さんが首をひねっている。


「いえ、そこの、隅で丸くなってる子を――」


「ああ。引き取りの。お待ちしてました」


 あの田村さんがテンパっている。初めて生き物を飼うというのだから仕方もないことだろう。


「ではこちらにサインと――これはワクチンの接種証明です。避妊手術はそちらの負担になりますね」


 椅子に腰かけた彼女が真剣な眼差しでペンを走らせてゆく。柵の中では片目をつぶった黒猫が通学バッグくらいのケージへと入れられている。それを嫌がりもせず、ずいぶん大人しい猫だ。少し心配になるほどだった。


「では、ケージ代で三千三百円頂きますね」


「は、はい」


 慌てて財布を取り出す彼女。思わず小銭を取り落とす。


「田村さん――」


 落とした百円玉を拾ってあげると、そこには赤く充血した田村さんの目があった。


「私……」


 が、続く言葉はなく、彼女は白いケージをゆっくりと受け取って、中で丸くなっている子猫を愛おしそうに見つめた。


「いい飼い主さんが見つかってよかったわねえ。幸せになるのよ」


 受付のお姉さんが笑顔で言うと、彼女は震える声で答えた。


「必ず、幸せにしてみせます――」



 バスでは迷惑になると、帰りはタクシーを選んだ。そのまま田村さんのマンションへ向かう。その間も彼女はケージが気になり、ニャーと鳴きもしない猫を見つめていた。



 部屋へ入ると、窓際にトイレが置いてあり、子猫には少し大きい陶器の器が二つ並べてあった。


 彼女はそっとケージを床へ置くと、鍵を外して入り口を開けた。


「マリィ――出てきていいのよ。今日からあなたの家はここだわ」


 しかし子猫はケージの中を少しクルクルと歩いたあと、また隅で丸くなった。


「最初は部屋に慣れるのに時間がかかると言っていたわ。猫は――この子は特に臆病なのよ。彼女が自分から出てくるまではこのままにしておくつもりよ」


 それから彼女は器にキャットフードを入れて、そばには水の入った器を置いた。


「マリィ。初めましてがまだだったわね。私は田村敦子。パッとしない名前と中身だけれど、ママだと思ってちょうだい。そしてあなたの名前はマリィ。マリィ、これからよろしくね」


 言うとしゃがみ込んでいた彼女は立ち上がり、


「竜崎君。部屋へ行ってもいいかしら」


「え? このままで大丈夫なの?」


「猫は一人で部屋に慣れるのよ。私が戻ったらしっちゃかめっちゃかになってるくらい元気に走り回ってるといいわ」


 彼女が言うと、マリィはそれでもケージの中で丸くなっていた。

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