第20話 マリィ



「ホントに入っていいの? 前、上げるの嫌がってなかった?」


 田村さんの部屋のドアの前にいた。


「ええ、いいの。竜崎君にはいろいろと手伝ってもらうつもりだから」


 言うと彼女はポーチから鍵を出してドアノブに差した。


(自分の家は鍵使うんだ――)


「みすぼらしい部屋だけど、どうぞ入って」


「じゃあ……おじゃまします」


 と、足を踏み入れた玄関には靴が二足。傘が一本。そこから伸びる廊下は奥の部屋へ続いていた。



 さっさと部屋へ入る彼女を恐る恐る追った。噂では見るに堪えない部屋だと聞いていたが――。


「ゴメンなさい、クッションもなくて。私のを使っていいわ」


 何もなかった。少し狭い六畳のフローリングだったが、それが広々と見えるほどのスペース。部屋の真ん中に白いテーブルがポツンと置かれただけの、シンプルを通り越して殺伐として、段ボールを運び込む引っ越し前の部屋のようだ。


「ここで――生活してるの?」


 失礼だったが、思わず口走らずにいられなかった。


「ええ。だからあまり覗いて欲しくなかったの。美味しいコーヒーも淹れられない監獄のような部屋よ」


 それにしては自由な監獄だ。テーブルの上にはコンパクトミラー。これが毎朝の元凶か。


「それで、ここで猫を飼うの? ペットOKなの?」


「言ったわ。そういうのは既成事実よ。私はそれを理由に退去を命じられた人を知らないわ」


 彼女は床に直接、横座りになった。


「そうじゃなくて、ペットを処分してくれって言われるんじゃないの。それが理由で飼えない人が出てくるんだろうし――」


 僕が言うと、今気づいたような、ものすごい形相をした。


「で、でも大丈夫。ハムスターとか熱帯魚はOKだったわ。猫なんてちょっと太り過ぎたハムスター程度だわ。範疇よ。あのカラカラうるさいのも回さないし」


「でも、鳴き声とか――」


 そこで彼女は目を伏せ、


「ウィンクは鳴かない。私は二度、彼女を見に行ったけれど、人懐っこくケージへ寄ってきては鳴いている他の子猫の中で、あの子は隅で丸くなって黙っているだけだったわ」


 そう言って、田村さんは部屋の隅を見つめた。


「あのさ。ちょっとベランダに出てみてもいい? ウチがどんな風に見えるか見てみたくて」


「いいわよ。今日はブラジャー・フェスティバルじゃないから」


「じゃ、失礼します」



 白いレースのカーテンを半分空け、窓を開けてベランダへ出た。小さいサンダルは履けそうになかったので靴下のまま。


 軽く見上げると、ライトブラウンの外壁の格子に様々な窓が並んでいる。その最上階、七階の左端を見る。昨日干したジーンズが揺れている。小さな部屋だと思った。ちっぽけだと。



「東向きの窓というのがどれほど面倒なものか、住んでみて分かったわ。こちらの都合もお構いなしに朝陽が照らし始めるのよ。カーテンのほんの些細なすきまから。毎朝イライラして、そのお裾分けに竜崎君へ朝陽を送っていたの」


 なるほど、八つ当たりだった。


「それは甘んじて受けるとして――きっと大変だよ、一人暮らしで猫を飼うなんて。田村さんはバイトも長いし。きっとかまってあげられる時間もなくなるだろうし」


 言うと、彼女は夏から伸ばし続けている髪をすくい上げて、


「でもね竜崎君、もうダメなの。私はあの子に名前をつけた」


「ウィンク、だっけ」


「いいえ、違うの。ウィンクは今の誰にも呼んでもらえない彼女の境遇の中で私が勝手に憐れんでつけた名前。もしこの部屋で飼えるようになったら、その時こそ私は本当の真名をつけるわ。『マリィ』。それが彼女に与えられる名前。いつも手毬のように丸くなっているからよ」


 名前をつけると人は情を抱く。そういうことを彼女は言っているのだろう。


「それで、そのマリィはいつまであそこにいるの?」


「来週の日曜日までよ。子猫は週ごとに大きくなるわ。そうなると、どんどん引き取り手がいなくなるの。それまでに竜崎君、力を貸して。本気のお願いよ。頼みを聞いてくれたら私、ランドセルを背負う以外なんでもする」


 そんな性癖はない。ただ、彼女の決意は固い。いつもそうであるようにまつげを震わせながら真っすぐにこちらを見る。


「お願いって、具体的にはどういうことをすればいいの」


 彼女は思い出した顔で、


「まだ処女来訪のおもてなしをしていなかったわ。インスタントでよければコーヒーを出すわ。いつもバイト終わりにガッカリしながら飲んでいるの。カップはひとつよ。順番に飲みましょう」



 キッチンへ立った。


 五分後、彼女が宣言通りのマグカップを一個だけ持って戻ってきた。


「キリマンジャロブレンドというのを買ったのだけれど、どこがキリマンジャロなのか分からなかったわ。缶コーヒーの味がするの」


 勧められるまま、僕はマグカップを口にする。インスタントにしてはまずまずの味だ。けれど元々がコーヒーを飲んでいなかった彼女には異質な味がするのだろう。


「前にポーカーしたよね」


「ええ。竜崎君の惨敗だったけれど」


「ここにトランプはあるの?」


「――分かったわ」



 一ゲームを終え、奇跡的に僕が勝った。というか、田村さんは勝てるゲームを僕に譲ってくれたような手札だった。


「これで竜崎君の言うことを一つ聞くわ。『もっと美味しいコーヒーを』という選択肢以外なら覚悟するから」


 僕は彼女の飲んだマグカップを手元に引き寄せ、


「僕にも彼女の成長を見届けさせてくれること。それでいいなら、まだ内容の分からないそのお願いを聞くことにする」


 彼女はテーブルに散らばったカードからスペードのエースを拾い上げて僕へ突きつけた。


「完敗だわ。今すぐあなたをきつく抱きしめて頬ずりしたいくらい」


「それがお願い?」


「いいえ。それはまたの機会が熟した時にお願いするわ。今はマリィのことをお願い」

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