第19話 里親



「すごい……」



 よく晴れた空の下、三つの黒い影がコンクリートの屋上へ躍り出た。ビルの十八階相当の高さから、平らなこの街並がひと目で分かる。


 東横さんはすぐにフェンスの方へ駆け寄る。そのあとを僕らも追う。


「こんな街だったんだ……」


 彼女は呆然としているのか言葉が続かない。


「こんなものでよかったのかしら」


 田村さんが背中から声をかけると、彼女は振り向きざまにまずは礼を言った。


「ミス・レッドカーペット。本当にありがとうございます」


 田村さんは無表情に、


「田村でいいわ。まさか本気でそこまで連呼してくれると思わなかったもの。だんだん、この私も恥ずかしくなってきたわ」



 東横さんはそれからしばらく息を飲んだように街を見下ろしていた。そして、


「ジオラマを作りたいんです」


「ジオラマ?」


 田村さんが首をかしげる。


「はい。街や風景や建物の立体模型です。昔からプラモを作るのが大好きで。映像の世界でそれをやってみたくて入った学校なんです」


「それは楽しそう。そしてあなたはそこに何を見るの。この風景に」


 東横さんはビルの街並から目を離さず、白い帽子のつばを両手で押さえた。


「混沌とした街並みの真ん中から広がってゆく、カタツムリの殻のようなどこか丸みがかった規則正しい――フィボナッチ数列って数学でやったじゃないですか。あれみたいに、小さな半円が半径を大きくしながら無限に続いてゆく黄金比率。人が見ていて落ち着く景色って、そういうのがあると思うんです。ゴミゴミとした街の真ん中から少しずつ四方に広がる人の輪、建物の輪、それは一部が全部を示す、まるでフラクタルのような造り――」



「フラクタル――」



 田村さんが目を細める。



「はい。どこまでも続く、永遠の風景。私はそれを作品として切り取ってみたいんです。でも、こんなところ、滅多に来れないじゃないですか。だから今日はそれをお願いしたくて。田村さん、ありがとうございました」


 帽子のつばの陰で、彼女が笑った。


「礼には及ばないわ。ところで私はこのあと用事があるの。帰りたくなったらビルに閉じ込められる八時までに帰るといいわ。今日はきっと、いい夕陽が見える」


「はい!」


「さあ竜崎君。私たちはこれで行きましょう」


 満足そうに彼女は言う。


「これでって、彼女、大丈夫なの? 警備員に見つかったら――」


「見つからないわ。彼女は、彼女を本気で探そうとする者以外の目には決して映らない。そういう体質なのよ」


 言うとフェンスに背を向けて、ドアへ向かった。僕は東横さんを振り返ったが、そこにはもう誰の影もなかった――。


「さあ。用が片付いたらお腹が減ったわ。竜崎君、この辺りの名物を知っているかしら」



 雑踏へ紛れた僕らは行き場を探していた。


「用、片付いたの? 何かこのあとがあるって」


「ええ、あるわ。遅ければ遅いほどいいの。とにかく先に萬代名物を食べに行きましょう」


 彼女は女子高生の姿で僕の手を取る。それは人混みの中で、まるで自然な行為だった。


「さあ、好きなカレーを選んでちょうだい」


 彼女が連れてきたのはバスセンターの立ち食いそば屋で、結構な人が並んでいる。


「選ぶって、選択肢はカレーのみ?」


「ええ。『萬代そば』と銘打ってはいるけれど、ここのメインはカレー。それだけよ」


 駅そばの簡素な造りに、壁際には立ち食いカウンターが並んでいる。ある意味で大人の世界だ。


「大盛り、普通、ミニがあるわ。ミニといってもなかなかの量があるから普通がお勧めね」


「じゃ、じゃあ普通で――」


 カウンターに進むと彼女がカレーを二つ頼む。財布を出そうとするので、


「いいよ。カツカレーもおごってもらったし。今度は僕から出演料。おごるから」


「あら。素敵なサプライズ。バスセンターのカレーをおごってもらえるなんて」


 いや、それでも四百八十円だ。



 白い皿、やけに黄色いカレー。大量の福神漬け。それをカウンターへ並べると、彼女がセルフのお冷を二つ持ってきた。



「ありがとう」


「カレーには冷たいお冷。さあ、思い切りかき込みましょう――」


 果たしてカレーは美味しかった。ガツガツと食べながらも説明してくれた彼女の話では、豚骨スープをベースに、ふんだんな秘伝のスパイスを使っているらしい。


 という話を熱く語りながら食べたので、


「ほらまた。カレーが制服に……」


「何を。これは勲章。記念スタンプみたいなものよ。それよりお味はいかがだった」


「うん。学食とは違った感じの美味しさだった。結構安いし」


「そう。それじゃ次は上へ向かうわ」


 広場になっているバスセンターの上からは、さっきから賑やかなマイクパフォーマンスが行われている。それが彼女の言う用事なのだろうか。


 エスカレーターを上がると、ステージが見えてきた。


「なんか子供がダンスしてるよ。知り合いでもいるの?」


 周囲ではテイクアウトのカレーを食べてくつろぐ人々の様子も。カレー大繁盛だ。


「そうね。ダンスに用はないけれど、別の子供に用事があるわ」


「別の子供?」


 言うと彼女は大勢集まった観客席の後ろを回り、広場の角の白いテントへ向かい始めた。観客は百五十人ほど。休日の家族連れが多い中、僕はもちろんついてゆくだけだ。



 ステージではキッズダンスが終わったのか拍手が鳴り響く。田村さんはそれも気にせず狭い通路を進みゆき、テントの場所まで進んだ。物陰から見えたのは並べられた柵のようなもの。それより何より、動物の鳴き声が聞こえる。


 田村さんに追いついた僕は不審に思って訊ねる。


「猫? 田村さん、ここってなんなの?」


 彼女は静かな瞳を柵の中へ落とし、


「里親探しなのよ。捕獲された野良猫や、飼えなくなった子猫たちの」


「はあ――」


「私、猫を飼うの」


「うん。――って、部屋で? 大丈夫なの?」


 彼女は膝を折り、猫たちに顔を近づけてじっと動かない。


「そういうのは、どうにでもなるの。何より私が猫を飼いたいの。午前中から開催されてるこの催しでは、すでに何匹かの可愛い子猫が心優しい人にもらわれて行っているわ。そう、可愛い子猫が。竜崎君、そこの黒い猫を見て。ケージの隅よ。鼻のところが白いブチになっている、左目を閉じた猫。見えないのよ、片目が。私が心の中で『ウィンク』と呼んでいるその子は先日からもらい手がいないの。そういう子は人気がないの。どれだけ心の優しい人たちが集まったとして、そこはペットショップと同じよ。人気のある猫からもらわれてゆくわ。私はね竜崎君。このウィンクを引き取りたいと思っているの。偽善であって構わない。この子と一緒に暮らしたいと、そう思っているわ」


 田村さんはケージの隅で丸くなっている黒猫をじっと見ていた。


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