終章・卒業式
三月というのにまだ春の訪れさえ感じられない小雨交じりの日だった。
――「田村さん! もうそういうことはやめなさいと言ってたでしょ!」
――「とにかく、こっちへ来なさい。なんでまた卒業式の日に――」
という会話がきっと、屋上ではなされていたのだろう。僕はその姿をグラウンドから見上げているしかなかった。田村さんがまた、フェンスを越えて屋上に立っていた。
「おい竜崎。お前、行ってこいよ。なんかあれ、いつもと違うだろ。しかもこんな日に」
クラスメイトの羽白が僕の肩を叩く。僕だってそうしたい。けれど屋上へ続く道は教師たちに閉ざされている。僕には何もできなかった。
卒業式の終わったグラウンドには生徒も、父兄も、そして警察と消防もひしめき合っている。五月のあの日を思い出すような騒然とした空気が、その場を支配していた。そこへ――。
「竜崎君だよね。君、説得してくれないか」
橋本恋歌事件の時に覚えられたのか、教頭が走ってきて、息を切らせて言った。僕は胸に花飾りをつけたまま、校舎へと急ぐ。
レスキュー隊と警官の待機する物々しい階段を上がると、屋上の扉からフェンス越しの田村さんが見えた。
「田村さん! 何してるの!」
屋上へ足を踏み出すと、まずは警官に足止めをされた。
「興奮させないように頼みます」
僕はもう一度、彼女へ声をかける。
「もう、そっちには行かないって約束したろ!」
彼女はゆっくりと振り返る。驚いたのは、いつもびくびくと握りしめていたはずのフェンスに指が絡んでいない。直立不動なのだ。フェンスから校舎の端まで五十センチ。冷たい雨の中、彼女は制服を濡らして震えていた。フェンスの手前で何か話していた警官が、こちらを向いた。
「竜崎真二君? こっちに来て。ゆっくり」
僕は彼女から目を離さずに近づいてゆく。
「田村さん。何してるんだよ。こんな日にこんなことする必要、もうないだろ」
距離にして五メートル。それまでならば平気でフェンスまで近づいて世間話でもできたはずの彼女が今は遠い。
「君、彼女は君を指名した。だから、どうにか時間を稼いで。その間にできることはするから」
警官に小声で言われたが、何をどうすることもできない。フェンスの向こうへ行ってしまった彼女は無敵なのだから。
それでも僕は彼女の名前を呼ぶ。
「田村さんってば。帰ってコーヒー飲もうよ。こないだ言ってたコナの豆、買ったんだよ。なんか理由があるんだろうけど、母さんだってもう、そんなこと望んでないから。卒業式の日にやることじゃないって」
すると彼女は身体ごとこちらを向いた。
「竜崎君も――ここへ来て」
いつもの顔に見えたけれど、いつもとは違う。どこかにふざけた企みを含んだ時の顔とは違った。
「ここって――そこに行くの?」
「ええ。このフェンスを乗り越えてきて」
途端に警官が僕の肩を押さえる。
「君、ダメだから。絶対に言うことは聞かないで。説得だけ」
「でも彼女、僕が行かないと戻らないと思います」
言うと警官は後ろを向き、上司の指示を仰いでいるようだった。
「とにかく刺激しないで。ね、頼むね」
心細げな警官を後ろに、僕はフェンスへ近づく。それだけで屋上に集まった八人の唾を飲む音が聞こえるようだった。
僕はフェンスへ触れる距離まで近づき、彼女へ声をかける。
「理由は?」
彼女はあれから伸びた髪を雨に濡らして、
「竜崎君のせいかも知れない」
確かにそう言った。
「どういうこと? 僕、何か田村さんにした? 春から一緒に大学に行こうって、約束したよね。それはウソだったの?」
彼女はグラウンドへ身体を向ける。背中の方でざわめきが起こる。
「ウソではないわ。満ち足りた気分よ。間違いない。なのにその気持ちが私を突き動かすの。もう一度ここへ立てと。運命の狭間を確かめるようにと」
「それは、母さんに関係することなの」
「きっかけは、そうであるかも知れないわ。ただこの気持ちは最新の私を乗せて運んでゆくわ。今も、この時も」
「分かんないよ。田村さんはそうやっていつも跳ばない。何かを探している時にそこへ立つんだ。でももう、そこへ立たなくてもいいように、僕がいるんじゃなかったの」
彼女は答えに詰まった。そして、
「竜崎君は、この場所を知らないから。ここへ立ったことがないから」
それきり黙った。春まだ訪れぬ冷たい風が吹き抜ける屋上で。
音がする。それは聞き覚えのある音。消防のはしご車がはしごを伸ばす音だ。すると彼女が急へ右手へ走った。動いたのではない、走ったのだ。それはさすがに僕も焦った。たかだか五十センチの生命線。
「田村さん!」
僕は迷わずフェンスへよじ登った。制止の声が聞こえる。足をつかもうとする手もある。けれど僕は引っ張られた上履きも脱ぎ捨てて五十センチの生命線へと下り立った。
「田村さん!」
が、僕は動けなかった。フェンスをつかんだまま、グラウンドを見下ろすこともできずに、冷たい風と雨の中で身動きもできなかった。これが彼女の言っていたフェンスの向こう。来る日も来る日も立っていた場所――。
「君! もう動かなくていい! 何もしなくていいから戻りなさい!」
戻る――。足が竦んで戻ることもできない。彼女を追うこともできない。僕はいったい、何をしているのだろう。そこへ声が響く。
「竜崎君!」
田村さんだ。
「竜崎君!」
声を荒げる彼女というものを、僕はいったい見たことがあるだろうか。それも彼女は僕を大声で呼んだ。
「私が欲しいならば! すべてを飛び越えてきてちょうだい! 数え上げれば長い一生だったわ! その中で心が温まったものはあなたとコーラを飲んだ記憶だけなの! その次は苦手だったコーヒー! そして今だから言うけれど、フカフカのベッドはすごく苦手だったの! 男の人も!」
彼女は十メートルも先でフェンス越しに警官隊から包囲されている。彼女が言いたいことは何も分からない。分かるのは彼女に文字通り手を伸ばせるのは僕だけだということだ。
僕はフェンスを握りしめて叫ぶ。
「分かったからあ! 早く僕を助けに来てよ! こんな所、いつまでもいれないんだから!」
はしごが伸びてくる。何か叫んでいる。けれど僕には聞こえない。彼女がいつもこんな場所で一人きりだったと思えば、涙しか出てこなかった。
「竜崎君――」
固く目を閉じる僕へ、囁きかけるものがあった。それはどこまでも柔らかく、温かな囁きだった。
「やるべきことは終わったわ。もう行きましょう」
フェンスを握りしめた指に、柔らかな手が重なる。
「ひどいよ……」
「ええ。ひどいわね。けれどもっとひどいのは、ここからよ。映画のエンディングには少し弱いわ。今から初めて人前で見せる熱いキスというのでしめるのはどうかしら。でないと私、今から衆人環視の中でパンツを見せながらフェンスを越えることになるわよ」
僕は迷わず答える。
「パンツくらい我慢してよ――」
「ねえ。卒業式の日くらい、こういうのやめてもらっていいかな」
頭を抱える校長先生がすべて正しかった。
「なんというかね。双方、父兄の方がいらっしゃらなかったということで本日はこのまま帰しますけど、後日必ず、出向いてもらいますからね」
雨のやんだ校庭、レスキュー隊の出したマットやはしご車の収納を見ながら僕らは帰途につく。
「分かってる? 反省会だからね」
「ええ。分かってるわ」
「もう聞き飽きたけど、なんであんなことしたの」
彼女はコートの襟を直して、
「分かってほしかったの。だって、ああまでしないと、きっと竜崎君はフェンスの向こうへ来てはくれなかったもの。今日がその最後のチャンスだったの。だって、私たちはもう、高校生ではなくなるのよ」
意味は分からなくとも重みは分かった。
「それで田村さん、お母さんも来てなかったんだ」
「大学受験から見放された身分ですもの。仕方がないわ」
「それで、ホントにこっちで一人暮らしできるの?」
「お望みとあらば二人暮らしもできるわ」
「いや、ダメだよ――」
彼女は普通に家へついてきた。それを受け入れている僕もすでに普通がおかしくなっている。羽白に言われた言葉を思い返す。
――「だって、つき合ってるんだろ?」
言われて初めてそういうことに思いを巡らせた。
「さあ、新しいコーヒー豆。なんだったかしら。ハワイ粉ね。言われなくても粉だってことぐらい分かりますっていうのよ」
「『ハワイコナ』で単語だから――」
と賑やかな会話が始まるかと思っていると、様相は違った。彼女はコートを脱いで右腕にかけると、
「ゴメンなさい。迷惑をかけてしまって――」
悪いと思っているなら、と言いかけてやめた。そういうことをこういう日にあてた彼女の気持ちが分かるような気がしたのだ。それは母がそれを思い立った日のようなものなのだと。誰も止められなかったはずだ。
「迷惑は何もないよ。心配だっただけだから」
「じゃあ、心配をかけてゴメンなさい」
「それもいい。何より田村さんが今までどんなところに立っていたのかが分かって、きっとよかったんだ。僕は今まで何も知らずに田村さんへいろいろ言ってたんだなって、勝手だったなって分かったから」
「そんなこと。勝手というのは私のような人間のことをいうのだわ。己の疑問へ妥協せず、答えがあるならどこまでもそれを追い続けて、そしていつも同じ場所へ舞い戻る。何度、同じことを繰り返しても、それをやめられない。それが勝手じゃなくて何だというのかしら」
キッチンでお湯が沸いている。それに気がついた彼女がカップを用意する。僕はソファーで胸ポケットを探る。今日から解き放たれる生徒手帳。僕を縛りつけていた窮屈な鎖から解き放たれる日。守ってくれていた柔らかな鎖から無防備に放り出される日。卒業の日。
二人でコーヒーを飲む。酸味と香りの立つふくよかな余韻のある味わい。
「いつか二人でカフェーを出すのもいいわね。私、タマゴサンドは得意なの。それから麻婆ドッグというのはどうかしら。チリビーンズのように」
もうすべてを忘れた顔で彼女が話す。コーヒーを飲む。けれど、そんな空想には興味がない。彼女の淹れるコーヒーは僕のためだけに淹れてくれればよかった。
暖房を入れ忘れた薄ら寒い部屋で、ソファーで寄り添った。長かった八か月。田村さんと過ごした不思議な時間。それは母の不在を埋めたろうか。いや、違った。彼女といるだけで母を思う心はどこまでも空へと伸び、淋しさは青空へ溶けていった。
幾晩、母の残した無数の青いパステルを並べて僕は母を思い、彼女が今ここにいないという現実の上に毎日を作り上げてきた。そこに田村さんがいなければ僕の心は空虚だったろう。
「田村さん。それ飲んだらひとまず帰った方がいいよ。それから――」
彼女がコーヒーカップを手にしたまま、チラリと僕を見る。
「それから?」
「ここには、もう来ない方がいい。僕は母さんのこと、そろそろ一人で向き合いたいんだ」
彼女が目を丸くした。こちらが驚くほどに。
「……分かったわ。もう来ない。麻婆豆腐も肉じゃがも作らないし、コーヒーを淹れることもない。それが竜崎君の望みならば私には何も言えないわ」
「今まで、いろいろありがとう」
「いえ。私も竜崎家から卒業ということね。これを飲んだら帰るわ。見送りはいらない。淋しくなるもの」
その言葉にも驚いた。あの田村敦子が淋しいと言ったことに。
そうして彼女は僕の前から姿を消した。とはいえ、春からは同じ大学へ通うのだ。何をセンチメンタルになる必要もない。
なのに、僕の胸には静けさが襲いかかる。また、母の面影と二人きりの暮らしが始まる。それが新しい生活なのだとして、僕は何を求めるだろう。今はただ、二人分のコーヒーカップを洗って、その一つを永遠に閉じ込めるだけだ。いつの間にか皿や、茶碗や、母の専用品だったものが彼女のものになっていて、その記憶を消すための毎日は続くだろう。もう鍋を囲む相手もいない。キッチンから漂うカレーの匂いにテレビを見ながら待つ時間もない。
僕は思い切り窓を開けてベランダへと出てみる。ぼんやりとした西日が肌寒い身体を照らす。目の前には六階建てのマンションの屋上。見下ろせば毎日を抱えた豆粒のような人々の暮らし。そういうものを目指すのなら、僕には生活など必要なかった。またこの家で母と彼女の記憶を抱いて、いつまでも柔らかく眠り続けていたかった。ただ一つの延長線上のフラクタルに甘えていたかった。
――完――
「ベランダ越しの田村さん」へ続く
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