【ボーナス2】「言葉もない」

 八月二十九日。母の四十九日法要が密やかに終わった――。祖父母の下にあった骨壺も納骨された。竜崎家ではなく、野々原家の墓に。位牌も仏壇も本物は祖父母の家にあり、ウチにあるのは偽物だ。そこに彼女はいない。もちろん、どこにも彼女はいないのだ。


 父は一切姿を見せない。僕の中ではもう父は父ではない。母と関わってほしくない、僕と関わってほしくない、そういう人間だった。


 家に帰った僕は、ドアの前に立つ制服の少女に小さく驚く。


「近縁者だけだと聞いていたので。それに、初子さんがフラクタルになってからのちょうど四十九日は明日だわ。そういう訳で私は今夜、ここで明日を待つのよ」


 最近、少しだけ表情を見せてくれるようになった彼女が手にした袋を揺らす。


「本物の麻婆豆腐を教わってきたわ」


 僕にはため息の吐きようもなく、苦笑いでマンションへ迎え入れる。


 彼女はまず袋に下げていた食材を冷蔵庫へと、てきぱき入れた。


「さあ、疲れたでしょう。コーヒーでも淹れるわ。といってもコーヒーの在りかしか知らないんだけれども。それにしてもネクタイを締めるのね、この真夏に。制服ではいけなかったのかしら。と言いつつ熱いコーヒーを用意するわね」


 いろいろと勝手に満足した感じの彼女が、ヤカンにお湯を沸かす。僕は西向きの窓を全開に、八月最後の風を呼び入れる。


「入ったわ――」


 テーブルの上へソーサーを置くと、ソファーへ座り、


「ところで、という文頭へ持ち出すには間違った接続助詞の使い方という安直な切り出し方で悪いのだけれど、ところでコーヒー豆がもうないの。私は最後の最後の一粒まで懸命にスプーンですくおうとしたのだけれども、どうにもこうにも二杯目がスプーン五分の四までにしかならなかったのよ。それで考えたの。これは何度かここでコーヒーを淹れさせてもらった経験から考えて、もしや当てずっぽう――いえ、私の研ぎ澄まされた類い稀な勘によってお湯の量を調整すれば打率九割かもと過信してうぬぼれてチャレンジしてみましたとさ。などという私の気苦労は抜きにして、コーヒー豆を買いなさい、竜崎君。お気に入りのブレンドが――いや、ブランド? ここはコーヒーだからブレンドでいいわよね。それが分かれば私でも買えると思うのだけれど」


 今日の田村敦子はいつにも増してよくしゃべる。


 額に汗を浮かべて飲むコーヒーは輪郭もはっきりとしていつもの味だった。窓からの風が部屋を一周して出て行く頃にはオレンジ色の空が見えて、彼女は立ち上がってそれを見にベランダへと出て行った。僕は思わず立ち上がり、その姿を追う。


「竜崎君、あっちのビルの窓が――」


 背中から抱きしめられた彼女は驚いたのかそうでないのか手すりをつかみ、数秒黙ったあと、穏やかな声で囁いた。


「竜崎君、心配しないで。私はまだフェンスの向こうへは行かないから。それより麻婆豆腐を作りましょう。お米は軽く二合。残りは明日、リゾットもどきを作ってあげるわ」




 それから彼女は「中華には冷房ガンガンがいいの」とエアコンを十八度に設定して、キッチンで玉ねぎを炒め始めた。


「火の通りにくい順にとは言うけれど、まずは玉ねぎのみじん切りをしっかり炒めるの。生姜とニンニクも一緒に。そこに豚のミンチを入れるわ。ここで『あとでどうせ鶏がらスープを入れるんだし』なんて思ってはダメよ。ここでお肉にしっかり火を通すの。何せ、本物の麻婆豆腐なのだから」


 それは僕へ対してというより、わき目も振らず、自分に暗示をかけるような、おまじないのようなセリフだった。


「トウバンジャン! コチュジャン! テンメンジャン! ジャオー! ホワジャオー!」


 それはそれは、気合の入った麻婆豆腐ができそうだった。いつかのケチャップ豆腐とはかなり開きがありそうな――。



「ふう、竜崎君。あとはご飯が炊けるのを待って、豆腐をちょちょいと切って入れて、水溶き片栗粉をしゅあっと混ぜれば完成よ。あら、とか言ってる間にご飯が炊けたわ。竜崎君、ご飯を。言ったでしょ、立っているものは親でも使うと」


(立っていないけど――)


 と、僕はそこで立ち上がり、次に言われそうなお皿を二枚先に用意して、炊飯ジャーを開ける。彼女は二つのコンロで忙しく手を動かしている。

「さあ、できたわ。田村家のすべてが詰まった秘伝の麻婆豆腐。秘伝過ぎて母もレシピを書き写しただけだったわ」


 ならば初披露だ。


「ええい、とにかく召し上がれ。すでにお気づきとは思うけれど、今日はスープがついているわ。しかも小憎らしいことに中華スープに卵を溶いているの。まさかコンロを二つ使うなんて、私自身、思ってもみなかったわ」


 事前情報がすべて終わったようなので実食を開始する。開始して、二人で手が止まったのは十秒後だ。決して不味い訳ではなかった。分類すれば美味しい方だった。


「ふふふ。言わなくても分かってるの。辛い。そう、辛いでしょ。舌をもぎ取る悪魔のように。これは辛いわ。あ、涙出そう。でもね、これくらい辛くていいの。今日という日に『お前バカだろ』って辛さの麻婆豆腐を食べたお陰で、これから先、私とあなたは麻婆豆腐を食べるたびに初子さんを思い出すの。竜崎君にはよけいなことだろうけれど、私には大きなことよ。初子さんと、竜崎君を一緒に思い返せるひとつのきっかけになるんですもの。次は死ぬほど不味いおでんよ。そしておでんを食べるたび、竜崎君は私を思い出してくれる。それが終われば肉のないすき焼き、それから生焼けのパンケーキ。空想は広がってゆくわ。そして広がる先はフラクタル。宇宙までをも飲み込みながら、必ずこの小さき存在へと回帰する。それから大事なこと。この麻婆、エアコンの冷気の中でもかなり手ごわいわ。思い切り汗をかきましょう。青春みたいに」


 彼女は言うと、激辛の麻婆豆腐を無心で食べ始めた。頬は上気して、あごの先まで汗がしたたり落ちている。言葉もない。今日の田村敦子には言葉もなかった。

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