御面様の呪い 12
榎田さんに「大丈夫かい?」と聞かれ、頬を伝う涙を手で拭うと、もう一度、自分の存在がここにあることを実感した。暗闇の世界、廊下はそんなにも長くなかったはずなのに、時間の感覚がない世界に迷い込んでいたようだった。
「じゃあ、行こうか」
「はい……」
自分の懐中電灯にも明かりを灯し、榎田さんの紺色の雨合羽を着ている背中に続く。三段ほどの短い階段を降りてそのまま廊下を進むと、プールのエントランスらしき扉の前に着いた。
「なんだかやけに静かだね。良雄くんたちがいるはずなんだけども」
そう言われて耳を澄ますと、確かに物音が聞こえない気がする。榎田さんが扉に耳を当て、中の様子を窺ってからそっと扉に手をかけて開いた。懐中電灯の明かりで中を照らし、「いないな」と呟く。
「プールの受付に飾ってあるって言ってたけど、ここに良雄くんも美穂さんもいないみたいだよ」
「じゃあ、どこに?」
「さぁ……もっと中にいるのか……。あ、今何か物音が聞こえた気がする。霧野さん、お面があるかも知れないし、できるだけ下だけを照らして、一緒に中に入ってみようか」
榎田さんの照らす懐中電灯の揺れる明かりを視界に感じながら、榎田さんが歩いた後に続く。確かに物音が聞こえる気がするけれど、美穂ちゃんと良雄さんの姿が見えない。美穂ちゃんが一人きりになるとは思えない。で、あるならば、二人は一緒にいるはず。
「この中から聞こえるみたいだ」
榎田さんが立ち止まり、真鍮製の『
「プールのほうにいるということ、なのかな? とりあえず、進んでみようか」
無言で頷き、榎田さんの後に続いた。男性更衣室はさほど広い空間ではなく、縦長のロッカーが壁際に並び、その真ん中には、白くて高級そうなタオルが積まれた棚がある。反対側に懐中電灯を向けると、女性のドレッサールームのように身なりを整えるスペースがあった。その上には、鏡——
「ひっ……」
懐中電灯に照らされた鏡に映る自分の姿を見て、思わず悲鳴をあげそうになる。後ろでひとつに結んでいたはずの髪は乱れ、雨か湿気で濡れているのか、顔や頭にべったりとくっついていた。良雄さんに借りた紺色の雨合羽の上に、血の気の引いた青白い自分の顔が、懐中電灯の明かりで照らされて、浮かび上がって見える。
——やめて……そんな目で見ないで……
恐怖に支配されかかっている自分の顔が生首のようにも見え、思わず顔を背けた。
「どうやらプールの中にいるようだ」と榎田さんの声が聞こえ、急いで榎田さんの
——私も何かに怯え、頭がおかしくなり始めている気がする……。
このままでは恐怖に支配され博之さんのようになりそうだと、頬を手で叩き意識を自分の身体に向けた。
——大丈夫、生きている。ここにいる。私は、ちゃんとここで生きている。現実の世界、ここは現実にある世界……
榎田さんに続き、プールの中に入ると、もわっと
「榎田さん……、すいません、遅くなっちゃって、もうちょっとなんですけど」
「それはいいよ。でも、受付にあったんじゃなかったのかい?」
「そうなんですけど——」
「ごめんなさい! 受付だと思ってたところじゃなくて、こっちだったんです。昨日はここにバーカウンターみたいなのがあって、それで勘違いしてて——」
「額が壁にはめ込まれてて、それで上の部分はなんとか取れたんですけど、あとお面だけ……美穂ちゃん、どう? 行けそう?」
「もうちょっとです……、もうちょっと……ここを持って……あ、取れました! 取れましたよ良雄さん! あっ、ば、バランスが……ああぁ!」
「美穂ちゃん!」
何が起こったのか想像できるような良雄さんの声が聞こえ、お面を取り外す時の力の反動で美穂ちゃんの体制が崩れたのだと分かった。
「いたた……」
「ごめん美穂ちゃん、僕もバランス取れなくて——」
「それは私もおんなじです。でもそれよりも、お面が! お面がどっかにいっちゃいました!」
「え!? だって、さっき手に取ったって——」
「だから! 転んだはずみで離しちゃったんです!」
「そんな……」
「良雄くん、とにかく、どこに行ったか僕が探すから」
榎田さんの冷静な声がプールに響き、懐中電灯の明かりがあちこちに動き始める。プールサイドを榎田さんが照らしながら美穂ちゃんたちがいるところまで進むけれど、私は呆然と立ち尽くしたまま、榎田さんや良雄さん、美穂ちゃんのように懐中電灯で照らしてお面を探すことができない。
——探すってことは、見てしまうということ。榎田さんも良雄さんも、まだお面を見ていないから大丈夫なはずなのに、プールサイドからあちこち照らして探している……。それなのに私、入り口に突っ立ったまま動こうともしない。違う、怖くて、動けないんだ……
「ない。プールサイドには、ない……。それに水面にも見当たらなかった。と、いうことは、プールの中に沈んだ?」
「うそだろ……プールの中? 榎田さん、僕、プールの中入って探しますよ。水は慣れてるんで」
良雄さんはそういうと、懐中電灯を床に置いて着ている紺色の雨合羽を急いで脱ぎはじめた。それを榎田さんが止める。
「いや、だめだ! 良雄くんは探しちゃいけない! プールの中に入ってお面を探すだなんて、お面を見ることになるんだから!」
その手を振り払い、良雄さんはどんどん着ているものを脱いでいく。
「いいんですよ! そんな呪いとか、祟りとか、信じてたらこんな山奥で生きていけないですよ! それに、こんな綺麗な山奥の渓流沿いに、こんなでっかい施設作って。それに、プールまでって、どんだけ勝手なんですか。浄化水槽はあるって聞いてたけど、この水の量を循環させてって、本当にそれ、機能してるか怪しいですよ。じゃあ綺麗になりきれなかった消毒の入った水は? 川に流せばわかんないとでも思ってるんですかね? そんなのふざけてますよ。金持ってたらなんでもありって思ってんですかね? ここは昔の人たちが開拓して、生きてきた場所なんですよ。ここで暮らす人たちは、災害があっても、自分たちで協力して自然体型を守りながら生きてるんですよ。無駄な開発はしないし、昔ながらの生活も大事にして、山を守って生きてんですよ。僕、あああ、もう僕なんて言ってらんねぇ! マジでむかついてるんですよね、本当、もうずっと思ってたんですよ! 俺、もう我慢の限界なんですよ! ここは俺たちが自然を守って未来の子供たちに残して行かなきゃいけない、大事な大事なフィールドなんだから! こんなもん作るんじゃねぇって、怒り浸透してんですよ!」
思いの丈を言葉に出しながら服を脱ぎ、短パンだけになった良雄さんは勢いよくプールに飛び込んだ。水しぶきがあがり、水の音がプールに響き渡る。真っ暗なプールに懐中電灯の光が走り、良雄さんの勢いに圧倒された私も、無意識に懐中電灯を動かしていた。
縦二十メートルほどの細い縦長のプール、その真ん中辺りで上半身裸の良雄さんが顔を出し、プールサイドの私たちに向かって叫んだ。
「照らしてください! 水の中に黒っぽいものがないか、上から探してください!」
「わ……分かったよ……。でも良雄くん、くれぐれも、できるだけ見ないように、見ないようにだよ!」
「できる限りで! もうここまできたら俺、その祟りとか呪いとか、全力で戦って、この土地を守り抜きたいですから!」
「あ、あった! あそこ、黒っぽいもの見えました!」
美穂ちゃんが光をさしている辺りに、何かゆらゆらっと動くような気が私もした。その位置までプールサイドを走り、美穂ちゃんの持っている懐中電灯の光の位置を自分の懐中電灯でも照らす。そこに向かい、良雄さんが泳いでいくのが見えた。仄暗い水の中を、懐中電灯の明かりが指す場所に向かって泳ぐ良雄さんの身体がどんどん黒っぽいものに近づく。波立つ水面に肌色が一瞬消えたかと思うと、良雄さんが黒いお面を掴んで天井に突き出し、水面から顔を出した。
「見たらダメだよ! 霧野さん!」
「あ……」
黒くてゴツゴツとしたそれは、リカさんから聞いた怖い話に出てくるお面、そのもので、私はそのお面を確かに見た。
——次はお前だ
またあの声が聞こえた気がして、その場に崩れ落ちる。私は、お面を見て、今、呪われてしまったのだろうか……
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