第三章

祟りの始まり 1

「ご遺体がないなんて、そんなことあるわけ……」と声が漏れる。


 木下さんも不思議そうな顔をしている。急いで良雄さんのところまで走って行ったけれど、そこには茶色の傘が三本あるだけで、早朝に見たレイさんのご遺体はもうどこにも見当たらない。雨はあいかわらず降っているけれど、風はほとんど吹いていない。傘が移動したということはないと思った。もしも移動したのであれば、傘は三本並んでいないはずだ。


「もう誰か運んじゃったってことなのかな?」と良雄さんが傘を手で持ち上げると、真っ赤なハイヒールが一足落ちているのが見えた。それをみて、「靴が片方だけ落ちてます」と木下さんが言う。


「じゃあ誰かがもう運んであげたってことだね。それじゃあ僕はもう戻るわ。榎田さん一人ってわけにはいかないし。なんかあったら連絡くれたら——って、連絡できないよね。携帯はつながらないし、防災無線もないんだし」


「また用事がある時は歩いて山の家に行きます」と木下さんがいうと、良雄さんは「僕の乗ってきた軽トラ置いてくわ」と言った。


「山の家には榎田さんの乗ってきた車があるし。ここの車はさ、ほら、動かせないだろ? 里香ちゃんも霧野さんも、誰かが運転できるだろうからさ。車だと十分かからない距離でも歩くと遠いでしょ」

「それはめっちゃ助かります! あ、もうここは仕事場だった。ごほん。助かります。良雄様」

「あはは。里香ちゃんそれ、気持ち悪いからやめてよね。じゃ、僕は歩いて帰るんでここで」


 良雄さんは急ぎ足で山を下って行った。紺色の雨合羽を着てきていたのは、もしかして初めからそのつもりだったのかもしれない。


 ——思いやりのある優しい人なんだな。良雄さんは。


「では霧野様。お部屋にお戻りになられますか?」

「はい。あ、そういえば部屋のスマホで連絡取れるんでしたよね?」

「はい。いつでもなんなりとお申し付けくださいませ」


 明らかにお仕事モードに切り替えた木下さんの対応に、オンとオフのギャップが激しいけれど仕事に真面目な人だと思った。


 ——さてと。美穂ちゃんのとこに行かなきゃだよね。と、その前に部屋に戻ってバッグを取ってこなくちゃ。


「とりあえず自分の部屋に一旦戻ります。あの、もう一個の方のスマホも貰えますか?」

「かしこまりました。それではセンターハウスでお渡しいたします」


 センターハウスに到着すると入り口で雨具を脱いだ。空調の効いたセンターハウスはひんやりと冷たく、湿気が少ないのか、山の家で脱いだときとは違う解放感を感じる。汚してはいけないと思い、足拭きマットで靴の汚れを落としながらふと見ると、センターハウスの床は土で所々汚れていた。


 ——それもそうか。朝みんなでここに座って話してたんだし。


 これから木下さんはこの床を一人で掃除するのだろうか。寝不足だというのに。そう思ったらなんだか気の毒になってくる。武山さんの会社なら、清掃スタッフくらい雇う余裕はあるだろうに。


「霧野様、ではこれを」と、木下さんに美穂ちゃんのスマホを手渡され私は自分の部屋に向かった。エレベーターの中も小枝や葉っぱなどが混じった土が床に付着している。掃除をするのは大変だろうな、とまた思いながらエレベーターを降り、自分の部屋に向かうため廊下を進む。


 ——あれ、隣の部屋のドアの前で汚れが終わってる。それもそうか。この先に行くのは私だけなんだし。


 自分の履いている靴の裏を見ると、気にして拭き取っただけのことはあり綺麗だった。これならここから先の掃除はしなくて済むだろうと、木下さんのことを思った。


 部屋の鍵をスマホのアプリで開け、部屋の中に入るとようやくホッと一息つけた。今この場所は、この状況の中で唯一プライベートな空間に思える。一度は片付けた洋服をバッグから取り出し、汗でぐっしょりになってしまったティーシャツを脱ぎ、ジーパンを履き替えると、朝ここに来てから今までのこと全てが夢だったんじゃないかと思えた。雷に打たれ顔が焼け爛れたレイさんの姿が脳裏に蘇る。私のところまでは匂ってはこなかったけれど、木下さんは肉が焦げた匂いが体に纏わりついていると言っていた。臭いの記憶はなかなか取れないだろう。


 ——でも意外とあっけらかんとしてたんだよね。


 木下さんの手首の傷を思い出し、精神的に感覚が少しずれているのかもしれないと思った。仕事に真面目そうだから、そういうので自分を追い込みすぎて病んでしまったのだろうか。そういえば、そういう若いスタッフの子がいた。売り上げ目標に向かって頑張るけれど、その頑張り方がお客様によく受け取ってもらえず、精神的に疲れて鬱になった男の子。彼はとても真面目で頑張っていた。レディースのフロアならフォローもできたかもしれないけれど、メンズフロアまで行ってフォローすることはできない。


 ——あの時は本当にかわいそうだったな。だんだん痩せていったし。


 お店を辞めたその彼が今元気でいてくれたらいいなと、全く関係のないことを思ったところで、美穂ちゃんのことを思い出す。


 ——いけない。はやく美穂ちゃんのところに行かなきゃ。


 バッグを手に取り私は美穂ちゃんのところまで急いで戻ることにした。そういえば、リカさんもバンガローに戻っているだろうか。スマホを見るともうお昼近くになっていた。そう思うとお腹もぐうっと鳴る。


 ——あとで何か食べるものはないか、木下さんに聞いてみよ。


 センターハウスの外はまだ雨が降っていて、重たい灰色の空からは時折ゴロゴロと雷様の唸り声が聞こえていた。どうやらまだ機嫌が悪いらしい。入り口の傘立てから傘を二本抜き取り、私はバンガローに戻った。

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