第40話 貴重な経験

けん


 振り向いたみおは、張りつめていた頬を途端に緩ませた。


「話は後にしよう。まずはケガを治すから」

「ありがと。そっちはどう――」

「ごめん、ちょっと待ってて」

「あ……」


 献慈が向かう先には、うめき声を上げ横たわる永和ヨンホァと、彼女を介抱するヨンティンとがいる。


「待っとれや、アネキぃ……あー、痛み止めのツボはどこやったかな……つんつん」

「あひゃっ!? ……っ……自分、わざわざブチころがされに来たんか……?」

「ちゃうねん! オレは真面目にやな……――ん、どないした? 献坊」


 それは提案というよりも表明であった。


「オレが治すんじゃダメかな?」

「何やて?」「えっ……」


 永定と、後ろにいた澪が同時に声を上げた。


「勝負はついてるし、もう敵も味方もないよね。ここにいるのはケガ人と、それを治療できる人間だ」

「そらまぁ……言いたいことはわかるけどや……」


 姉のメンツを立てるべきか、身体を案じるべきか――永定にとってのジレンマも、他人の献慈からすれば迷うには値しない。


「理屈はともかく、放っておけないんだ」


 身を屈め、永和の様子を覗き込む。血の気が失せた顔は打って変わってしおらしげで、彼女本来の面立ちがより際立って映る。


(意外に童顔だな……っと、それよりケガを……――はっ!)


 いざ手を伸ばそうとして、献慈は重大な問題に気がついた。


「……何や? やるなら早よせぇ」

「え、えっとォ……よ、よく考えたらですね……治癒するにはその、直接さ、触らないといけなくってですね……で、できれば許可を、頂きたくぞ、存じ上げ……」

「あーもぅ、邪魔くさいわ!」


 しびれを切らした永和が、献慈の手首にむんずと掴みかかる。


「――――ッ!?」「はわっ!?」「ぬぉえぇっ!?」


 献慈を含む三人が同時に息を呑んだ。

 永和の胸元へ引き寄せられた献慈の手のひらが、五本の指が、豊かな膨らみの上に沈み込む。薄布を通して伝わる柔らかさと体温と鼓動とが、紛れもなくそれが本物の体験であることを物語っていた。


(こ、この感触が、お、おぉ、おっ……おっ、オッペィレーション開始ィッ!!)


 千々に乱れる心を必死に取りまとめ、献慈は治癒に注力する。


「献坊、アネキの具合はどんなんや?」

「具合は……いい感じだよ」

「ちゃうくて! ケガの具合のほうや!」

「だからケガの具合のことだってば!」

「ふぅ~ん……」

「いや、澪姉……ホントのホントだから……」


 若干の妨げはあったものの、治療は滞りなく完了した。

 永和は体を起こし、献慈をじっと見つめる。


「…………」

「あ……えー、お身体の、調子は……?」

「……ありがとぉ」

「は、はい。どういたしまして」

「強引に触らしたりして悪かったわ。アンタかてこんなん、気ぃ悪いわな」


 永和は初めこそ神妙な素振りであったものの、


「い、いえ! そんなことはないです!」

「っちゅうことはつまり、悪くはなかったと?」

「……え、そっ……き、貴重な経験をさ、させていただいたというか……」

「ほぅ! 確かに言質取ったさけ、貸し借りナシやで」

「えぇー……」


 その変わり身の早さに、献慈は早速と身の置き場がなくなる。

 入れ替わりに乗り込んできたのは澪であった。


「ちょっと! さっきからあなた、失礼にも程があると思うんですけど!」

「失礼て、何がや? 具体的に言うてくれんと」


 張り出した胸を押しつけんばかりに、永和はぐいぐいと澪に詰め寄る。


「な、何がって……献慈に……その、も、揉ませたりとかぁ!」

「ウチはウチが持っとるもん使つこただけやし。嬢ちゃんかて自前の…………あー、これは確かに失礼やったわ。どーもごめんなさぁい」

「んぐぎぎぎぃ……!!」


 激闘を戦い抜いた勝者の顔に、今や清々しさは見る影もない。


「(俺の不注意でまた争いが……)二人とも、やめ――」

「待て待てェ! ワレが出てったら余計ややこしなるやろがい!」


 慌てて飛び出そうとする献慈を、永定が羽交い締めにして止める。


「何で止めるんだよぅ!」

「何でて!? 持たざるモンの気持ちがわからんとは……さてはワレもそっち側の人間やな!?」

「そっち側って何!?」


 あちらもこちらもドタバタに陥りかけた空気を一変させたのは、四人の話し声をかき消すほどの激しい風音であった。

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