七転び

 青と八雲はそれから三日の間、梅組の担任の率川良祐を観察していた。

 ――三日前、倉庫裏で青は言った。


「ぼくは、大人になろうと思います。幸運のエネルギーの素……プラスの感情を溜めて。ですから……ぼくの周りのヒトたちのプラスの感情を、増やしたいんです。そ、そのために……その、ヒト助けを……する、ので、て、手伝ってくださいませんか……?」


 青はもじもじしなが伝えたが、八雲は「わかった」とあっさり了承した。すんなり受け入れられてむしろ困惑する青に、八雲は言う。


「ご主人の頼みだし、断る理由もねえ。とりあえず、お前の言う通りにすればいい、よな?」

「は、はい、ありがとうございます……! えっと、あ、あの、まずは良祐先生の悩みを解決したいと……思っています」

「そっか。じゃ、飯食ったら職員室でも見に行くか?」


 言う通りにする、と言っておきながら、八雲は自ら提案した。青はそれを快諾していたが。ともあれ、――率川良祐は、青の最初のターゲットであり、最優先で負の感情を追い払いたい相手なのだ。


(先生がもし、良い人になってくれたら……。もし、勉強の質問をする人に答えてくれたり、困っている人を助けてくれたりしたら……。梅組生からも、たくさんのプラスの感情が生まれるかもしれない)


 子どもに直接関わるのは怖いので、間接的にプラスの感情を増やすことが一番やりやすいと考えた。

 だがしかし。


「本当に悩みなんてあるのかなあ。……ご主人を疑うわけじゃないけどさ。何しても無視、って、相当図太いぜあの人」


 三日経っても成果は一切なかった。

 良祐は授業中以外も生徒のことを全く気に留めない。仕事量は最低限、かつ他の教師と会話することも稀なので、直接話を聞けないならなおさら打つ手がない。この三日間はそれとなく探ろうと試みていたが、そろそろ作戦の変更が必要に思えてきた。


「感情の肌触りは、冷たくて痛いので……負の感情、マイナスの感情を持っていることは間違いない……はず、なのですが……」


 夕日が差す八雲の部屋で、青は座布団に座ったままそう言った。「ところで、ご主人は着替えねえの?」と、タンスを閉めて八雲が問う。


「ぼ、ぼくは、制服しか着るものがないですから……」


 平日は兄のおさがり、休日は姉のを着ている。家族全員、成長期が終わるまで私服は買っていない。授業料は払わなくて良くても、服屋に制服を注文するときにはお金がかかるのだ。

 なお、率川校の制服は、書き物をするときの利便性を鑑み、振袖のない袴となっている。女子の制服の袖口は広いが、男子の場合はボタン付きで常に袖口を閉じるのが基本だ。

 「あ、あの」と青が話を戻す。


「もっと近くで見るのはどうでしょう……? 職員室にいる先生の様子は遠くから見ましたけど、机とかまでは、まだ見たことないですし……その、他に調べる場所もなさそう……なので」


 教室には何もなくても、仕事机にならば何か情報があるかもしれない。

 「最近やけに積極的だな」と感心したように八雲が言い、青は曖昧に笑顔をつくる。


「ぼくは、ずっと家族に守られてきましたから。い、今も守られてますけれど……。ですから、がんばりたいのです。こんなぼくが恩返しできる機会は、今しかないと思うので」


 きゅっと手のひらを握り、青は「がんばります」と自分に言い聞かせた。



 *



 早起きしたためか、学校に着いてなお瞼が重い。目をこすりながら職員室を覗くと、すでに大勢の先生たちが仕事を始めていた。

 どうやら、梅組の担任はあのような調子だけれども、彼を除けば熱心な教師が多いらしい。青はドアの裏に隠れて、しゅんと肩を落とす。大人でも、やはりヒトは怖いのだ。


「これじゃ、入るのは無理そうか」


 八雲はそう呟いたが、それでも二人とも諦めきれず、しばらく職員室の前を右往左往していると、鈴を転がすような声が飛んできた。


「八雲!」


 澄んだ水色の瞳、胡桃色の髪で、頭の低い位置に大きめの緩いお団子が左右対称に作られている。柔らかい雰囲気の外見に反して、目つきを鋭くしているのが印象的だった。


「こな、ちょうどいいところに!」


 八雲にこなと呼ばれた少女は、ノートを手に持っていた。それに気付いた八雲はぱっと目を輝かせたが、とたんに少女は眉をひそめて後ずさる。


「あたし、あんたの思い付きには付き合わないからね」

「いや、んな大層なもんじゃねえって。あそこの机に、怪しい物とかねえか見てきてほしいんだ。お前の用事のついでで良いからさ」


 彼女は怪訝そうに、さらに眉を寄せる。


「えー……、余計な誤解招きたくないし、イヤ」

「大丈夫だって、なんなら、オレのせいにすればいい」


 少女は頭を抱える。青は相変わらず八雲の陰に隠れて、事の成り行きを見守っていた。


「ほんと、メンドーくさい」


 それだけ言うと、少女は職員室に入っていった。教師にノートを提出して室内を行き来するときに、流し目で良祐の机を確認し、戻ってくる。


「良し良し。どうだった?」


 満足げに笑って八雲が問う。目的を済ませた今、この場所に留まる必要はなくなり、三人で廊下を進む。少女は答えた。


「別に。おかしな物はなかったわ。殺風景サップーケーだけど、フツーに配布物みたいなのはあったし、そんな感じよ。……あ」


 少女はようやく青に気付いたようで、慌てて八雲に耳打ちする。


「誰?」

「青って名前。オレが護衛してるんだ」

「そうじゃなくて、どこの家の人?」

「ああ……。アオイトリだよ。ヒトじゃねえ」


 それを聞くと、少女はほっと息を吐いて愁眉を開く。


「あ、あの……?」


 青は自分がアオイトリだと知られて良い思いをしたことがないので、不安そうに彼女の顔を窺う。階段に足をかけた八雲が「あっ、違う違う」と、すかさず補足した。


「こいつ、玉の輿に乗りたいんだって。だから『ご主人が立派な身分の男だったらどうしよー』って、焦っただけだよ」

「あのね、確かにそうなんだけど、少しはオブラートに包んでよね」


 少女は八雲の背中を叩いて言う。八雲は痛くもかゆくもない様子で、「ちなみに名前は『こな』じゃなくて瑚夏こなつな。朝日南あさひな瑚夏」と付け加えた。

 瑚夏は問わず語りに話す。


「青くん、勘違いしないでね。あたしのやりたいことは結婚じゃなくて転職よ。あたしは自分の力でお金持ちになりたいの! 給金の良い仕事に就いて、バリバリ稼ぎたいだけなんだから」


 生まれた家、つまり苗字で職業が決まるこの社会で、唯一の転職方法――それが「結婚」だ。梅組の生徒に極端に女子が少ないのは、このためである。学費を多く払っている家の者と一緒になれば、儲けの良い仕事に就けるから。そのような人に近づくには、松組か竹組に所属するのが無難だった。

 瑚夏は、八雲に「あんたも大人になりなさいよねー」と言い、すたすたと二階の奥へと消えていく。

 青は瑚夏の背中を見つめて、無言で両腕をさする。皮膚がちくちくと痛んだ。


「あいつ……今はあんな感じだけど、昔は違ったんだぜ。今も、悪い奴ではないけどな。こなは、オレの知る限り一番家族思いで、ロマンチストだったんだ。……けどま、やっぱ、人って変わるんだな」


 八雲は再び階段を上り始めた。



 *



 率川良祐は、機械のような人だった。

 その後も、青と八雲は、教壇に立つ良祐を観察したり休憩時間に声をかけに行ったりしたが、特に得られるものはなかった。

 青は、初めの頃に良祐に質問していたまじめな女子が、いつしか声をかけるのをやめていたことを思い出した。

 正直なところ、青もやめたくなっていた。ヒトに話しかけるには勇気がいるが、震える自分に鞭を打ち声をかけても反応をもらえず、この調子では気力がもたない。


「こうなったら、先生と話すのは諦めて、生徒に聞いてみるか」


 昼食を食べ終え、四限目の時間に合わせて教室に戻っている途中。八雲が漠然とそう言った。

 ――まだ、ぼくに協力してくれている。

 そう気が付いて、青は諦めたいと思っていた自分を恥じた。八雲がいなければ、ヒトに近づくことさえ恐ろしくてできなかっただろう。それでも、青は、本能的に人の喜びが好きだった。あの仏頂面の先生が、いつか偽りなく笑ってくれる日が来ることを信じていた。


(ぼくも、この人みたいに……、お父やみんなの役に、立てたら)


 けれども、教室に着いた二人の耳に、時ならず、声変りしたばかりの声が飛び込んできた。


「――アイツ、最近、調子乗ってるよなー。名前忘れたけど、あのニンゲンじゃないやつさあ」


 ぴたりと青が足を止める。地面から這い上がってくるような、ぞわぞわとした肌心地。ヒトへの恐怖を思い出して、青の身体はカクカクと震える。気にすんなよ、と八雲がこそっと囁いたが。


「青、な。先生に迷惑かけなきゃいいけど。プライバシーって知ってるかなアイツ」

「いや、トリにそんな知能ねーって」

「確かに! 先生がかわいそー」


 かわいそうという言葉に、青はひどく動揺する。

 ヒト助けをすることは、青が初めて自分からやると決めた事柄なので、間違っていると言われれば、簡単に意志が揺らぐ。

 ――お父のために、なんて。お父のせいにして、勝手に。ぼくがやっていることは、本当に他人ひとのためになっているのかな……。

 そう思うと同時に、己の心のもろさに心底嫌気がさした。

 嗤笑が響く教室に、八雲は一人で足を踏み入れる。

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