罪悪感、等価交換。

 放課後。八雲は、校舎の脇を通ったときに二階のベランダから降ってきたジョウロの水を、あらかじめ用意していた傘で受けとめ、さも何事もなかったように涼しい顔で校門をくぐる。

 青は慣れない様子でその前を歩き、時折後ろから出される指示に従って八雲の家を目指す。内心、未だに八雲から言われたことの一切を信じられていなかったけれど。

 声を飲み込むのが当たり前になった青は、いったいどのように質問したらいいのか考えつかず。


「おかえりなさい」


 河北家の敷居をまたぐよりも早く、二人に気付いた女性がそう言った。八雲の母、京子きょうこは洗濯物を取り込んでいる最中であった。八雲は息をするように、青は言葉をつっかえさせながらそれぞれ返事をする。

 八雲の家は一階建ての古民家だ。

 「こっち」と八雲が青を追い越していき、居間を経由して縁側に出る。初めて嗅ぐ香りにそわそわと落ち着かない様子で、青はきょろきょろと辺りを見回した。

 三つ目の障子を開けて、おもむろに青の方を振り返る。


「ここがオレの部屋。で、奥のふすまの向こうがご主人の部屋」


 再び前進する八雲に青は黙ってついていく。畳の感触が新鮮だった。

 ふすまの先の部屋は、八雲の部屋よりもずっと狭い感じがしたが、むしろ少し狭い方が落ち着くなあと青は思う。


「押入れの分狭くなってるんだけど、ここしか空いてなくて。悪いな。机も、昔使ってた小せえちゃぶ台しかなかった。……あ、押入れの下の空いてるところは好きに使っていいから」

「……ぼく、一人部屋って初めてです」


 庶民的な家屋だとしても、まるで新しい世界に来たような気分だった。それに、今日は汚れたり濡れたりした衣服を誤魔化す必要もない。八雲が守ってくれたから。

 小さな家、小さな部屋、窮屈な布団にぎゅうぎゅうに詰められることもない。――家族のことが嫌いなわけでも、実家に不満があったわけでもないけれど。


「あの、ありがとうございます。本当に。そ、それと……、お父がぼくに……いえ、たぶんぼくの兄姉にも、八雲さんのことを話さなかった理由がわかった気がします」


 八雲はきょとんと首を傾げる。縁側から夕陽が差し込んできて、青たちの足元を照らした。


「お兄が怒るからだ。……きっと今頃、お父はたいへんでしょうね」


 青が苦笑する。その言葉に当惑の意味が込められていることはわかっていたが、八雲は初めて青が笑ったところを見た。


「ご主人の兄貴が?」

「はい。ぼくの兄は、とても心配性なのです。下校時間、ぼくを人里まで迎えに来たり、幼かったぼくの面倒を見るために学校に行かなかったり……。ぼくが家を出るなんて知ったら、きっと反対していたと思います。だからお父は何も言わなかったんだ」

「過保護なんだな」

「……そう、かもしれないですね」


 今日は一日中青の様子を見てきたので、何もしない――できない――青に対して身内が過保護になることについては、わからないでもない。ただ青の兄の話を聞く限り、過保護という言葉で済ませていいレベルかはわからないが。



 *



 夕食を終え、八雲は風呂釜に薪を入れるために外に出て行った。残された青がおろおろしていると、京子が「お部屋で休んでいていいのよ、ゆっくりしていてね」と声をかけた。


「ご実家から持ってきたい物があったら、八雲でも連れて行きなさいね。あの子は力だけが取り柄みたいなもんだから」


 冗談めかして八雲のことを京子は話す。息子の初仕事が円満に進むように、二人には仲良くなってほしかったのだ。大きなちゃぶ台を手際よく吹く京子を眺めながら、ああそうか、と青は胸がチクリと痛む。

 ――ヒトの世でろくな仕事がもらえないアオイトリには、財産がほとんどない。一つの布団に複数人で収まったり、学校から支給される制服以外はおさがりばかりだったり、青には私物がなかった。


(お父は、ぼくが荷造りに悩む必要がないと知っていたから)


 青に、自分の家と物の多いニンゲンの家との落差を考える時間を少しでも与えないように、父は今日まで何も言わなかったのかもしれない。

 八雲の部屋を通って、青は新しい自分の部屋に帰る。ふすまを閉めて、なぜ父が用心棒を雇ったのかと一考する。子どもとはいえ八雲は仕事だと言明していたから、給料が発生しているはずだ。生活が貧しいにもかかわらず、どうして。


 考えてもわからないと薄々気付いていながらも、青はしばらくの間、電気を消した四畳半の部屋の中で熟考してしまった。自分にそれほどの価値があるとは思えなかった。ゆえに、やはり答えは浮かんでこない。突如、隣の部屋から呻き声のような音が聞こえてきて、集中していた青は思いきり肩を跳ねさせる。

 そろり、とふすまを細く開けて向こうを窺う。壁際の文机の横で八雲が倒れていた。青が声をかけようかどうか迷っていると、八雲が「わかんねえ」と独り言を漏らす。

 微かに香る墨のにおいに、あ、と気が付いた。


 八雲は、今日一日ずっと青の周りに気を使っていて、ろくに授業を聞けていないのだ。

 青は罪悪感とともに劣等感にさいなまれる。――八雲は今日、用心棒としての役目を全うした。勉強を、自分のことを犠牲にしてまで。


(それなのに、ぼくは)


 あのとき八雲が来なかったら、確実に万引きをしていただろう。悪いことだとわかっていたのに。それでも、自分が可愛かったのだ。アオイトリであるにもかかわらず、店のヒトが悲しむ行為をしようとした。ニンゲンの少年にとっても、為にならないことを。

 種族差だけではない。自分は未熟すぎた。


 ――情動にかられて、青は両手をふすまの隙間に突っ込み、素早く左右に開く。

 うおおっ、と八雲が叫び声をあげて飛び起きた。


「ぼくが教えます」


 ひどく苦しそうな表情でそう言う青に、八雲は「お、おお……」と返すほかなかった。ふすまを全開にしたまま、青はてててと駆け寄ってきて、文机の真横で軽やかにしゃがむ。それに合わせて八雲も座布団の上に腰を下ろす。

 小一時間もすると、出された課題は全て片付いていた。

 青は一仕事終えたような気分で息を吸い、八雲は感嘆の溜息を吐く。


「お前、教えるのうまいな。助かったぜ」


 二ッとまぶしく笑う八雲から、喜怒哀楽の喜の感情があふれ、青の露出した手に伝わる。

 プラスの感情を受けとることに、苦痛は伴わない。例えるならば、上質な絹織物に触れたような感覚――青は本物の絹織物に触れたことはないが――である。

 アオイトリは、本能的にこの感覚を最も好む。青は快感に打ち震えながら、「ありがとうございます」と微笑んだ。



 *



 校舎三階、廊下の突き当たりにある中級クラス梅組の教室は、いわば無法地帯である。型にはまることができない者、あるいは自らはまらない者たちの楽園で、朝早くから室内に人が集う。

 そんなクラスメイトたちの人数を、八雲は視線だけを動かして数えて、かばんを持ったまま教卓の前に立った。


「突然だが、聞いてほしい」


 はっきりとした声が喧騒を貫く。クラスの連中の目玉が動いて、瞳にそれぞれ八雲が映る。青だけは相変わらず伏し目がちだった。八雲はきらりと自信満々に目を光らせて、引き続き強気な声を出した。


「オレは河北八雲。青の用心棒だ。今後こいつに用があるときは、オレを通してからにしろ」


 ……そんな宣言をしてから十数分。


「ああーっ八雲くーん、ボク、青くんに用があるんだけどぉ」


 長い黒髪を頭の高い位置で一つにまとめた、中性的な顔立ちの男子が無駄に声を張り上げてそう言った。


「ちっくしょうるっせえふざけんな!」


 動揺しすぎて一息で言い返した八雲に、さらに追い打ちが来る。


「『青に用があるなら、オレを通してからにしろ』」


 長身の男子が決め顔で言うので、八雲は「あああああ」と頭を抱えて撃沈。「ぶっ」と、堪えきれず青が吹き出す。だが、直後、顔面蒼白で八雲に向かって謝罪の言葉を繰り返し浴びせた。


「わかったもういい、もうほんっとうに十分だ。何も言うな……」


 蚊の鳴くような声で八雲が青をなだめたが、青は――いや、八雲も――終始、あたかもこの世の終わりみたいな表情をしていた。

 河北八雲は、気分屋である。

 ゆえに、ころっと気が変わったとたんに、過去の発言を自分の顔から火が出るほど恥じることも少なくない。……ただし、気分が変化しやすいおかげで、落ち込む時間も短いのだが。

 ガバッと勢いよく頭を持ち上げて、先ほどの男子らを八雲は思いきり睨みつける。


「おい、おめーらも名乗れよ! 顔と名前覚えてやる!」

「花ノ井かおる

間宮夏重まみやなつしげ


 どこまでも彼らの方が上手うわて、冷静であった。

 ちなみに、クラスのいじめっ子らは、先ほどの決め台詞をちょっとかっこいい、と思っているらしく、いつもの威勢はどこへやら、未だに黙りこくっている。また、薫は顔だけでなく名前まで女子と見分けが付かないが、制服の袴が彼の性別を証明していた。

 八雲が薫たちににどう言い返そうか悩んでいると、隣から小さな声が聞こえた。


「あ……あの、どうして八雲さんはあんなことを言ったんですか?」


 おずおずと口を開いた青の質問に、「まだ言うか!」と八雲は顔をしかめる。慌てて青は弁明した。


「ち、違いますよ……! そうじゃなくて、えっと、なぜ……皆さんに用心棒の話をしたのかと……」


 青の言葉は途中から空気に溶けて消えた。それでも意味は理解できたので、ああ、まあ、と八雲は少しだけためらってから答える。


「だって、オレを標的にしてくれた方がご主人の身は安全だし、オレもやりやすいし。あと、昨日みたいにご主人が無償で勉強教えてくれるんなら。オレだけ、お金も受け取って勉強まで見てもらってるなんて、フェアじゃねーだろ」


 椅子の背もたれに深くもたれかかって、八雲は「今朝はお前、母さんの手伝いまでするんだもん、お客さんのくせにさ」と付け加えた。


「すみません……」

「いや違う、怒ってないって。逆だよ。……ありがとうな」


 肌から伝わる感情とは別に、青はなんとなくむず痒さを覚えた。

 始業の鐘が鳴るまであと二十分。「ねえねえっ」と弾んだ声が真後ろから聞こえ、青は大きく肩を揺らす。しかし、その言葉は青に向けられたものではなかった。

 八雲は、蛍光灯で後光が差して見える少年と、その斜め後ろでじめじめとした雰囲気を放つ背の高い男子を交互に見た。

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