第10話 本の所有者

 北の大地も完全に雪解けを見て、人々の活動が活発になり始めた初夏。


 借り受けたアドラーの書を元に草案を書き上げたフェルムは、今日も図書館の片隅でレポートを前に首をひねっていた。


 そんな彼の周囲に人影はない。


 もちろん学内で二番目に有名な学生である彼を遠巻きに目にするものはいた。

 しかし真剣な表情で彼が悩んでいること、服から露出している箇所の殆どに少なからぬ生傷が存在すること。


 これらが彼の近くに人を寄せ付けぬ原因となっていた。


 だが、世の中には例外というものが存在する。

 そう、たまたまそんな彼の姿を目にした女学生は、異様な彼の姿を気にすること無く、フェルムに向かって微笑みながら声を掛けてきた。


「こんにちは、フェルム先輩。レポートは順調ですか?」

 突然前方から発せられた声に気づくと、フェルムは自らのレポートからゆっくりと視線を上げる。すると彼は、最近学内で顔を合わすことがなかった、この国の王女の姿をその視界に収めた。


「おや、ルナ様? そういえば最近お会いしておりませんでしたね」

 とある人物からの指導が垣間見える自らの姿に照れながら、やや恥ずかしそうにフェルムは返答した。

 一方、そんなフェルムの姿に逆に感心しながら、ルナは彼に向かってニコリと微笑むと、その端正な唇を動かす。


「ええ。実は少し公務を任されることになってしまいましてね。その準備に追われてしまって、ちょっと学校に来ることが出来なかったんですよ」

「公務……ですか?」

 学生の間は特別な公務以外は免除されていると以前に聞かされたこともあり、フェルムはやや意外そうな表情を浮かべる。

 すると、そんなフェルムの考えを表情から見て取り、ルナはゆっくりと首を縦に振った。


「ええ、公務です。ちょっと兄の代わりに、父と北へ旅行することになりまして」

「父って……まさか先王陛下ですか!?」

 なんでもないことのように自らの肉親のことをルナが口にすると、フェルムは途端に驚きの表情を浮かべる。


「ええ、まあ私に他に父はおりませんから」

 父と一緒に行動するだけのことに驚くフェルムを目にして、ルナは一瞬困惑顔となった。

 しかし彼女は、すぐに一般的な父の立場のことに思い至る。そこに至り、ようやくフェルムの反応が妥当と理解し、彼女は思わず苦笑した。


「そ、そうですか。ともかく、北となりますとピレミアナールやクレッセンドあたりでしょうか?」

 予期せぬ話を耳にして、フェルムは依然として動揺を顔には表しつつも、その思考を冷静に働かせる。

 そして彼は、先代国王までが足を運ぶに足る土地として、二つの地域の名前を口にしてみせた。



 まずラインドル北部で一般的に大規模な都市といえば、かつてこの地域が小国の寄せ集めだった時期に、最も大きな勢力を有していたこともあるピレミアナール領がまずあげられる。


 ピレミアナール領はレグメント家と呼ばれる一族が、代々一族支配を行っていた。もちろんラインドル王家が国家を統一した現在において、その力はかつて程のものはない。

 しかしながら王家を別とするならば、その力は他の地方豪族と比較し、頭ひとつほど抜けているのもまた事実であった。



 一方、フェルムがもう一つ口にしたクレッセンド領は、そのような歴史に基づく地域ではない。むしろ以前までは、明らかに周囲の地域よりも力の劣る土地であった。


 だが、彼の地はとある人物を輩出して以降、脅威の躍進を遂げるに至った。それも北の雄ピレミアナールと肩を並べるに至るほどである。

 だから、フェルムがこれら二つの名前を上げるのは、妥当であったといえよう。


「その通り。今回はクレッセンドね。ほら、あの辺りって最近もめているでしょ。だからお兄様の代わりに、仲裁を兼ねての視察に……ね」

「なるほど、やはりその件ですか……」

 ラインドル北部において、とある人物の旧領に関し、いくつかの揉め事が発生しているのをフェルムとしても耳にしていた。


 そう、クレッセンドは先代のこの国の宰相であるムラシーンが直接領主を務めていた領地である。

 なればこそ、急速に膨張したクレッセンド領は、その後始末に関して様々な諍いの種となっていた。


 だからこそフェルムは、王家の人間が直接現地に足を運び、現在の騒動に解決の道筋を付けようと考えていることに理解を示す。

 しかしながら同時に、彼はひとつの疑問を抱かずにはいられなかった。


「しかしそれならば、先王陛下だけで行かれても大丈夫だったのではないですか?」

 冷静に考えて、このような領地に関する揉め事は、まだ若いルナには些か手に余ると彼は考えた。

 そしてだからこその先王の存在である。

 だが、先王自らが足を運ばれるのならば、今後は逆にルナまでが同行する理由が彼にはわからなかった。


「先輩の言いたいことはわかります。でも、あくまでお父様は引退されています。そこで、表向きは私のお目付け役ということで、向かうことになったわけです」

「ああ、そういうわけですか」

 ルナの説明を聞いて、フェルムはようやく納得したとばかりに一つ頷く。

 一方、そんな彼の反応を目にしたルナは、ほんの僅かに頬を膨らませると、思わず愚痴をこぼした。


「もっとも、最初は私が家臣団を連れて、一人で向かうつもりだったんです。なのに、お兄様が猛反対した上に、突然あの人が付いて行くと横からしゃしゃり出てきて……二人とも過保護すぎるんですよ、全く」

「それに関してはなんと言っていいか……ともあれ、お疲れ様です」

 下手な発言をすれば国王や先王を非難することにつながりかねず、また逆に先王をフォローすればルナをないがしろにしかねない。

 それ故に彼は、あえて自らの見解を示さず、その労だけをねぎらうことにした。

 そんな彼の苦しい立ち位置にルナは気づくと、ほんの少しだけ申し訳無さそうにして見せ、そして話題をあえて振り出しへと戻した。


「まあ外の空気を吸ってくるいい機会ですし、保護者付きとはいえ、絶対に嫌というわけではないんですけどね……それで、改めて先輩のレポートは如何ですか?」

「レポートの件ですか……そうですね、順調と言って良いんだと思います。ただ……」

「ただ?」

 歯切れの悪いフェルムの返答に、ルナは思わず首を傾げる。

 すると、フェルムは渋々といった表情で、内心を吐露した。


「正直、自信をなくしている最中なんですよ」

 そうフェルムは口にすると、彼は二度三度ゆっくりと首を左右に振った。

 一方、そんな彼の反応を目にしたルナは、意外そうな表情を浮かべる。


 やや押しが弱いところはあるものの、基本的にフェルムは自信家として知られており、そして彼女の認識もそれと同じであった。

 だからこそ、そんなフェルムにしてはあまりに弱気な発言に、彼女は違和感を覚える。


「レポートは順調なのですよね? それなのに、どうして自信をなくされたのですか?」

「いや……それが、これを見て衝撃を受けましてね」

 ルナの問いかけを受けたフェルムは、大きな溜め息を一つ吐き出す。

 そして手元に置いてあった黒いカバーの本を手にすると、そのまま彼女へと手渡した。


「これって……ああ、アドラーの書ですよね。そりゃあそうですよ。大魔法士アドラーの知識に触れて、自信をなくすのは仕方ないことだと思います。いくら先輩といえども、まだ学生なんですし、そんな――」

 大魔法士アドラーと自らを比べ、劣っていることにショックを受けているのだと解釈したルナは、やや呆れた表情を浮かべながら目の前の先輩を慰めようとする。

 しかしそんな彼女の言葉は、首を左右に振るフェルムによって、途中で遮られることとなった。


「いえ、そうではないのです。どう言えばいいか……もちろんこのアドラーの書は素晴らしく、書かれた当人と自分との力量差を感じているのは事実ですよ。ですが、今のこの本の価値はそれ以上なんですよ」

「価値がそれ以上? ……ああ、なるほど。それは、あの人のものですからね」

 フェルムの言葉の意味がわからなかったルナは、一瞬呆けたような表情となった。しかしレジスタンスの館でのやりとりを思い出した途端、彼女の瞳には理解の色が灯る。


「ええ、そのとおりです。今現在のこの本の真価は、中の注釈のすばらしさなんですよ。あの付加魔法において並ぶものなどいないと言われた大魔法士アドラーの見解や論説に対し、不十分な部分には補足を書き込み、そして場所によっては理路整然とその理論を否定してあるんです。大胆にも、この書に注釈をつけた人物はね。これがどう言うことかわかりますか?」

「つまりかの大魔法士アドラーよりも、その注釈をつけた人物の方が上だと言いたいんでしょ、あなたは。まあ、私に言わせれば、当然のことだと思いますけどね」

 当たり前の事象を語るかのように、あっさりとそういってのけたルナは、絶句するフェルムに向かってニコリと微笑みかける。

 そして彼女は、目の前の先輩に向かって更に言葉を続けた。


「フェルム先輩。間違いなく文武両面において、先輩がこの学校で一番だと私も思っています。でも残念ながら、あの方を理解できないようなら、先輩もそこまでの人……って、後輩が生意気な口を利きましたね。ごめんなさい」

 そう言い切ったルナは、舌をチラッと出した後に、頭を下げた。

 そして彼女はくるりと向きを変えると、そのままフェルムの下から立ち去って行く。


 その場には、強張った表情を浮かべるただ一人の少年だけが、ポツリと残された。


「あの方を理解できないなら……ですか。つまり、あのアインと名乗っている人物は……やはり……」

 未だに信じられぬという思いを抱きながらも、これまでの断片的な情報から、フェルムの脳裏にはとあるひとつの名前が浮かび上がった。



 そう、大陸西方で並ぶ者のいない、最も有名な英雄の名前が。

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